「適応〜社会を考える」障害福祉の常識を問い直す講座 第3回


#障害福祉の常識を問い直す講座

第3回「適応〜社会を考える」です!

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さて、第3回は「適応 社会を考える」
これまでもこの障害福祉の常識を問い直す講座では、
ICFからはじまり、社会性、世間、などを取りあげてきました。

特に、英国の児童精神科医ローナウイングの自閉症スペクトラムの代表的な3つの特性の中の、「社会性」について取りあげた会が象徴的でした。

いまではきちんと説明されている文献では、単に「社会性」ではなく「社会的相互交渉の障害」などと説明がされていますが

https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/130223.pdf

そもそも、なぜ、社会性ということばを使ったのかというところから、議論がはじまりました。


自閉症の定義における「社会」概念の変遷について ИЙスペクトラム概念の可能性に照準して 片 桐 正 善 応用社会学研究 2011 № 5

実は、そのときには、取りあげなかった(議論の流れがICFからだったこともありますが)議論が、上記の2つの引用のような、「自閉症スペクトラム」と称する(DSM-5)ようになったことによって起こってきた「社会」の議論になると感じています。特に井出草平氏の本田秀夫氏への批判的論考は、今回の回にも大きな示唆があるものだと感じています(難しすぎるか。。。)

 私たちは支援者として、支援の技術を手に入れたとき、被支援者をいろいろな意味で、「操作」することができるようになってしまいます。それは、支援者ー被支援者間の権力性といわれるものです。
 そして、その権力性の多くは、支援者の個人的な価値感を越えて、存する社会的な価値、言い換えると【社会】の価値感に直接的、間接的に、支配されています。

 多くの場合、支援は被支援者の「つらさ」(うーん、しっくりくることばがない)を軽減するために、行われますが、その圧倒的は、社会(生活)への適応のために行われています。そのことに、ときに支援者は無自覚になります。だから、「自覚的であれ」というわけですが。

ご本人の不安をとりのぞくため
に支援が行われるとしても、その不安が、本来、「社会」側に過度(これもスケールがむずかしいですが)な適応要求があった(ある)場合、取り除くべき障壁は、いったい、個人側か、環境・社会側か、という問いに私たちは返せる答えをもつことができるでしょうか。日々の現場はその繰り返しに思います。

そんなことを議論できる第3回目にしたいと思っています。

ぜひ、一緒に学びあいましょう

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