「福祉的視点」の限界はほんとうに「福祉」的視点の限界なのか

行政と仕事することが多い仕事は、特にこの3月末が年度末と位置づけられ、いろいろな事業が「年度末」という区切りを迎える。

国や行政から出てくる会議資料や施策も議会などが終わることの時期に予算関係で出てこなかった資料が見えてくる。一方で、周年で行われている事業などは、3月末にむけて急ピッチで区切りを行っていく。

この2年、幾度となく【コロナ禍】というワードでいろいろなことが停められている中でも、ようやくいろいろなことが、さまざまな形で動き始めるようになってきた。不十分ながらでも、必死に停めずにやってきた。それでも中には、2年ぶりの開催なんていう会議もあったりする。

私が活動する大阪府寝屋川市。寝屋川市はユニークな自立支援協議会の運営を行っている。(これまでもいろいろなところで、ユニークさについては報告をしてきたり、書いてきているのでここではそれを紹介することはしない)。昨日はその自立支援協議会の実務者レベルの会議ではもっとも大きな会議である「地域生活支援調整会議」という会議が行われた。
この会議、官民機関が半々で20ほどの機関が参加する。

自立支援協議会は障害福祉施策の会議であるが、この会議には、教育関係機関、子育て関係機関も参加する。行政的にいえば、福祉部局だけではない広い機関が参画する。
2年ぶりの開催、それもオンラインでの開催であったが、この2年間のことの影響とともに、実は長く続けてきた自立支援協議会のとりくみ(2006年度からなので15年)から見えてくるもの、そしてとくにこの6,7年の地域の変化が見て取れるような状況報告が相次いだ。

なにが変わったのか?どう変化しているのか?
これは、少し視点を整理して、丁寧に改めて書きたいと思っているが、ひとことでいえば、「福祉とは何か?」を現場で考え直す時期なのだと。

行政の施策でいえば、母子保健、子育て支援、そして、教育は、すべてのその対象者に対して施策を行う。
例えば、乳幼児検診は法定検診、1歳6か月検診/3歳6か月検診は、その月例の子どもさんをすべて対象にする。子育て支援もその基本は、何歳から何歳のこどもさんとその家族を対象に行う。そして、教育もいうまでもなく、義務教育は月例年齢を対象に行っていく。
そして、それらの施策を行っていくときに、その普遍化された基準から「はずれたり」「合致しなかったり」「不適応」をおこしたこどもや家族に対しての特別な-昔のことばでいえば、補充代替的な--いまのことばでいえば、制度にアドオンされているとでもなるか-施策がおこなわれる。それがいわゆる「福祉」、「福祉的視点によって行われる支援」といわれる。

寝屋川市の地域生活支援調整会議の中で見えてきていることは、乳幼児検診のフォロー率が高まってきた7,8年前、そのこどもたちが学齢年齢になってきている中で、学校現場で起こっていること。そして、おそらくそれが5年未満に、サポートが極端に減る青少年年代に突入していくこと。

そこには、障害者手帳や精神科医療などへの受診という明確な「障害者/障害児」というカテゴリーに至らない支援を必要としている層が、どんどんと大波でうちよせているということ。それは、いま福祉的視点として「生きづらさ」と語られていることともおそらく少し違っていること。

そう、まさに「福祉」的視点の限界を感じている。ことばあそびのようだが、「福祉的視点」の再考を考える時期なのだ。矛盾だらけの。

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