経済を学ぶ

私は大学で社会学を学んだ。

社会学とは、社会を学ぶ学問なのか?社会を学ぶとはどういうことか?というより、社会をそもそも学ぶ???

と、考えた。社会を学ぶことは社会学を学ぶことだけをしてできることではないし、社会学は社会を学ぶというには、少し違う。

最近、いろいろな立場の方の発信を読むことが増えた。というより、意識して増やしている。おそらく3年前までは、まったく、ふれることもないし、ふれると考え方や見方が違いすぎて、それこそ「触らぬ神に」なんとやらで、自分が生きていく上で、自分が考えていることからすれば、正反対というよりは、対立するだけで。それこそ精神衛生上良くないのでやめていた。

昨年のあるできごとから、媒体を選んで、あえて拡げている。
前も書いたと思うが、媒体を選んでいるのには理由があり、いったん飲み込むことができにくい媒体からのそういった情報はさけている。具体的には短くて即レスできてしまうものと、文間が多く長いデジタル媒体はさけている。

そういった限定つきだが、どんどんと範囲を拡げているのにもかかわらず、ちっともひろがった気がしていないのも事実なのだ。ところが、外国語からの訳文を読むと、ひろがった感がある。つまり、日本語発信のものがどんどん、同質化しているのだと感じている。だから、拡げる。でも拡がらない。だから、拡げる。でも拡がらない。その繰り返しである。

経済を学んでいる

というセンテンスをみることが増えた。従前ならば、経済学を学んでいるとか、金儲けを学んでいるといわれるだろう文脈で、【学】がなく、そして、【金】ではなく、経済を学んでいる、と。

文頭の社会を学ぶではないけれど、経済を学ぶとはなんだろう、私にはその意図が読めない。言われたいこともなんとなくしかわからない。そして、彼(女)らが、「経済を学んでいる」ということが、発信の同質化の背景に見えていて、どうにもむず痒い。気持ち悪いのではなく、むず痒いのだ。

猫も杓子も分断を語り、二項対立を煽りつづけてきた人たちが分断から融和や共生を語る。そんなわかりやすい気持ち悪さはそこにはなく、むず痒いのだ。

このむず痒いを解消するために、また、分野を広げて発信をキャッチしていくしかないのだろう。そして、その感じをこうして発信していくことしかできないのだろうが。


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