わからないことを「わからない」といえる力

人から何かを聞かれたときに「わからない」ということができることは大事だと最近感じます。

私はできるだけ「知ったか」をしないようにしています。見栄を張ったり空気を読んだりしてやってしまうこともありますが、基本的に知ったかをして良いことはないと考えています。知ったかをすると議論が前に進まないこと、知ったかをした本人がどんどんつらくなることなどが理由です。

ただ、今回、知ったかが悪であるということを書きたかったわけではありません。逆に、わからないことをわからないと言えることがすごいことであるということを伝えたくてこのnoteに向き合っています。

分からないことをわからないと言える人はその道の専門家です。その理由を2つのパターンを見ながら説明したいと思います。

①自分がわからないだけのパターン

どんな専門家といわれる人でも、全てのことを理解しているという状態には生きている間には到底至りません。少なくとも、学問の分野では、その分野が専門的になるほど、細分化された知識が出てくるため、全てを網羅するのが難しくなります。ゆえに研究は一人で行うのではなく、様々な研究者が力を出し合って進んでいきます。

そんな中で、自分がやってきたことに自信がある人ほど、わからないことを恥ずかしがらずにわからないと言えます。逆に、勉強不足であるほど、その勉強不足をとがめられるのが怖くて知ったかをしてしまいます。

私は、大学4年生の頃よりも今の方が圧倒的に勉強をしています。もちろん知識もつきました。それなのに、4年生の頃よりも修士2年の今の方が「わからないです」と口にする回数が多いような気がします。4年生の頃は怒られるのが怖くて様々な質問をはぐらかしたり、ごまかしたりしていました。

分からないことがあるのは当たり前だと思えるくらいに勉強したことがこのある意味開き直りにも近い態度につながっているのではないかと思います。もちろん、わからないことはその都度勉強します。ただ、わからないことを恥じることなく、正々堂々としていられる態度を身につけられたのは大きな収穫だったのかなと思います。

②この世の中で誰もわからないパターン

当然ですが、研究は誰も知らなかったことを解明していくプロセスです。ゆえに、常に自分の専門領域の最先端は押さえておかなければいけません。私の研究分野は比較的進歩の速い分野ではないのですが、それでも日々勉強していないと取り残されてしまうくらいの危機感を持って取り組んでいます。

さらに、学会に出たときにどのような方面からの質問にも耐えられるように周辺の分野の最先端も抑えておかなければなりません。自分の専門領域の周辺に関しては、最近ようやくどこまでがわかっていてどこまでがわかっていないのかを理解した程度です。

人類が次のステージに進むには一度先人が通った道をさらりと通過することが必要だと思います。同じ苦労をしていては先を生きた人の頑張りが無駄になってしまいます。

今を生きる私たちは、どこまでがわかっていて、どこからが未踏の領域なのかを理解して正しく苦労することが求められています。

この最先端を理解しているという状態を維持するのはかなり大変なことです。だからこそ、誰にも分らないことをわからないと言える人はその道の専門家であると言えます。


ここまでに述べた2つの事柄は、まったく別の話ですが、「分からないことをわからないと言える力」という言葉にまとめられて面白いなと思ったため、書いてみました。

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