些細な日常をただの思い出で終わらせない

私は最近、日常から感じたことをスマホのメモアプリに書き留めています。日常の様々なことに目が向くようになると、自分が知っている道理のようなものは本当に限定された世界のものであることを実感します。

具体的には、「日常で自分がとる行動に関して、このようにしたらいいのではないかという仮説」に関して書き留めています。

例えば、研究室の教授とうまく話がかみ合わなかったときは、「自分の意見を言うよりはもう少し教授に話してもらった方が良かったかもしれない」みたいなことを書き留めます。

このように、自分が思ったことを日頃からメモしていることを私の友人に話したところ、「そういったことを全て教訓として自分の中に落とし込んでいたら、間違えた判断を取り込んでしまいかねない」ということを指摘されました。

確かに私のメモアプリを見返してみると、本当に些末なことが書かれてあります。この一つ一つを取り込んでいたら、キリがないうえに、間違えた経験則をすくい上げてしまいかねません。

例えば先ほどの教授とのコミュニケーションの例でいうと、教授との対話の目的が無難に終わらせることであれば教授にもう少し話してもらうということでも構いませんが、自身の研究がどのようにすればもっとうまくいくのかを話し合いたいという目的であった場合、もっと自分から意見を言った方が良いかもしれません。

麻雀で例えるとこうです。(麻雀をやったことがない方、すみません)

初心者が東一局東家で跳満を聴牌したとします。その後、子方からリーチがかかり、その人はオリを選択。その結果流局となったとします。ここでその人は学びとして「リーチに対してはオリれば流局に持ち込める」ということをインプットしました。この学びは本当に正しいのか。多くの人が押した方が良いと思う気がします。

このような危険が私のメモの中には含まれている可能性があるのです。

ではどうすればよいのか。

私はひたすらに経験の数を増やしてデータとしての信頼性を上げることでこのことは解決するのではないかと思います。何が正しくて、何のために自分は行動しないといけないかを知るために、多くの経験を自分の中で統合して最適解を見つけていくことが重要なのではないでしょうか。

麻雀でいえば、たくさんの数、卓につき、経験を重ねることで、何が自分にとって最も得なのかを判断できるようにならなければならないということです。一半荘から学べることは限定的であるということを理解して、麻雀に向き合うべきです。

私が大学4年の頃は、当然ですが、部員全員がまだ若く、未熟であったがゆえに、それぞれが自分の限られた経験に依拠した意見をぶつけ合い、言い争った末、良い結果を出せませんでした。

人生は非常に複雑です。それなのに、若い人は限られた経験(データ)から物事を判断しなくてはなりません。そういった意味では、若いうちから結果を出している人は本当にすごいと思います。私も多くの経験を積み、そのデータを自分の血肉としていくことで結果を出せるようになりたいものです。

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