二人の選択は正しかった?『天気の子』でトロッコ問題を考える
こんにちは。今日は新海誠監督の大人気作品、天気の子について書いてみたいと思います。
皆さん、天気の子ご覧になりましたか??
圧倒的な情景美、惹かれるものがありましたよね!海外でも相当人気になったとか!
見ていない方にとってはネタバレになってしまう部分もあるかと思いますのでご了承ください。
では、軽く物語を振り返るところから始めます!
新作『天気の子』は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」するストーリー。
東京にやってきた家出少年・帆高が出会った、不思議な力を持つ少女・陽菜。ふたりの恋の物語は、美しく、切なく、新たな時代を迎えるあらゆる世代、そして全世界へのメッセージとして描かれる。
天気の子公式ホームページにはこんなあらすじが書かれていました。まさに「生き方」を選択するストーリーでしたね!
そして今回は天気の子に絡めて、「トロッコ問題」について少し考えてみたいと思います。
「トロッコ問題」、皆様は聞いたことがあるでしょうか?
少し説明させていただきます!
トロッコ問題とは
「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。
これがWikipediaの定義である。もう少し具体的にみていきます!
自分がレバーを動かせる立場にいると想定してください。そのまま列車が進めばそこで作業している5人の人が亡くなる。ただ、レバーを引くと1人だけの犠牲で済む。
このとき、あなたはレバーを引くか?引かないか?という問いです。
答えはありませんが、皆さんならどう考えますか?
また、この問題にはいくつもの派生形があります。例えば、
さっきの問いはレバーを引くのみだったけど、それが橋の上から人を突き落とすという行為だったらどうでしょうか?
と、まあこんな感じの問題です。
正しい行いって僕らに理解できるの?
このトロッコ問題で主に争いとなるところが功利主義と直感主義です。
功利主義とは「最大多数の最大幸福」という有名な言葉が表すように、社会全体の幸福が一番大きくなるようなことをすべきであるという考え方です。
直感主義というのはもっと単純で、直感的にしたい!するべき!と思ったことをするべきであるという考え方です。正しいことは人間には論理的に説明できないが、直感的に理解している。だから理性よりか直感に従うほうが善い行いに近づけるという風に考えています。
これはどういうことかというと、例えば、自分の手で橋から人を落とすと5人の命が守られるという状況だと論理的に言うと自分の手で橋から人を落とすほうが正しいのかもしれないが、直感的には自分の手で人を突き落としたくないですよね。
まあこんな争いがあります。
要は理性と直感はどっちが重要なのだろうか、みたいなことですね。
よし、ではそろそろ天気の子の内容に触れていきます!!!!
天気の子とトロッコ問題
ここでは天気の子の物語の一部分について考えます。
それは、
帆高が、陽菜の命か、東京の雨を止ませないで街をめちゃくちゃにするという二択を迫られたときに陽菜の命を取った、
という部分です。
今回は、功利主義と直感主義から、帆高の決断を見ていきたいと思います。
帆高の決断。功利主義
功利主義とは、一言でいうと、
「最大多数の最大幸福」
これで言い表せると思います。
功利主義では結果だけを考えます(帰結主義)。どんなにひどいことをしても、結果が良ければそれが善い行いなんです!
どんな行動をしたとしても、「最大多数の最大幸福」を結果として実現できる行動が善い行いになります。
天気の子でいうと、単純に「一人の女の子の命を助ける」というのと、「東京を大洪水から救う」のどちらのほうが「最大多数の最大幸福」を達成できるかを考えます。
どっちでしょうか、、、どっちだとおもいますか?
東京があれだけ混乱していたら、死者は百人では済まないでしょう。ホームレスはほぼ壊滅でしょうし、、、(天気の子の作品内では誰かが死んだというような描写はありません)
功利主義者であれば、「東京を大洪水から救う」が善い行いであると判断すると思います。だって、一人の女の子と、東京の大洪水ですよ!感情抜きで考えたら、東京を救いたいですよね、、、、
陽菜を諦めて東京を守るというのも感動的なクライマックスであるとは思いますが、全く違う作品になってしまいますね!
もし無理やり功利主義によってこの結末を肯定しようとするのならば、こうも考えられます。
帆高の生きるセカイには陽菜とその周辺の人しかいない。
(帆高にはそう見えているし、彼はそう感じている。実際に彼は東京に出てきて知り合いも少ない。出身地の島にも友達は多くないみたいだった。)
ほかの人は別世界にいる人たちで、彼には全く問題ではない!!
どれだけ多くの蟻が死んでも、愛する人を助けたい!
こう考えるしかないですね!言い訳がましいでしょうか?笑
さあ、次は視点を切り替えて直感主義に行って見たいと思います!
帆高の決断。直観主義
直観主義とは、善い行いとは論理的には説明できず、直観でしか善い行いを知ることはできないという考え方です。
例えば、多くの人はイチゴとリンゴを見たら、どちらも「赤い」と気づくでしょう。でもそこで「なぜ赤いと言えるのですか?」と尋ねられたらどう答えますか?僕ならこう答えます。
「だって赤いじゃん!!!!」
答えられてないですね笑
善いというのも色と同じようなことで、善いか悪いかは直観的に理解できるが、論理的に説明できないという考え方です。
帆高は、何も考えることなく陽菜を助けました。帆高は直観的に陽菜を助けるんだ!助けたい!と感じていました。
後ろめたさなく、直観に従っていたのならもうそれは善い行いなのです。それだけで正当化されるのです。
なんかロマンチックですよね。天気の子をはじめいわゆるセカイ系と呼ばれる作品たちはこの考え方で書かれているような気がします!
天気の子の着地点
天気の子ではもちろん、帆高が東京を大洪水に陥れたことを肯定します。
それはこんなロジックでした。
「世界なんてもともと狂ってる。帆高が狂わせたわけじゃない」
つまり、もともと狂ってるんだから何したって同じだ、ということです。
それを裏付けるように劇中であるおばあちゃんが、東京はもともと海に沈んでいた、これは過去の東京に戻っただけだ。とも言っていました。
確かに見方によっては東京を本来の姿に戻したのだともいえると思います。
しかし、東京の多くのものを、多くの人をこの世から奪ったという事実もまた変わらぬものです。
個人的には功利主義的立場で帆高の行動を否定したいという気持ちもあります。
ただ、帆高は愛と洪水を天秤にかけたわけです。これが洪水でなくて世界崩壊だったとして、それでも帆高は愛を選んだとしたら、その愛がより強いものであるということの証明になります。
つまり、功利主義に反すれば反するほど、愛の強さを証明することになるということです!なんとも難しい!
時代によって変わりゆく物語
考えてみると、天気の子の「多くの人の命や安全よりも愛する人一人が大切なんだ」という世界観は少し怖くないですか?
帆高は銃を保持し、さらに発砲までしている。犯罪を犯してまでも愛する人を救うというのは美しくもあり、同時にとても危険です。
だって、全員がそんなことしてみてください!世界は崩壊してしまいます!!!!
予想ですけど、きっと戦中、戦後の世界でこのような作品が発表されたらそれは大バッシングでみんなの反感を買ったと思います。
「みんなのことより自分のことを優先させるなんてけしからん!!こんな悪魔のような映画を放映するんじゃあないよ!!」
こんな感じでしょうか笑
きっと、最後に少女の命を諦め、東京という街を救うというほうが感動する人も多く人気作になっていたと思います。
「戦中の自己犠牲の精神がうまく反映され民衆の共感を呼んだ」、などと称賛されたのではないでしょうか。
ただ、今は違う。YouTuberの出現もあり、「自己犠牲なんてしなくていい、自分の好きなことやればいいんだよ」というような世界観ですよね。
もちろんこれも間違っていないと思います。昔は人は一人で生きていくことは難しかったですが、今はテクノロジーも発展して裕福になったので一人でも生きていけますよね!
時代によって物語は移り変わっていきます。
それは逆に、物語を読み解くことで時代の流れがわかるようになるということも言えます。
そんな観点で物語を見ていくのが、私は好きです!!
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