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ペニー・レイン(3章)

3

「もう、本当危ないわね、コレ」
階段の中腹を過ぎた辺りに例のゴージャスな貴婦人が佇み、手すりに向かってぶつぶつと呟いている。独り言にしてはかなり強い非難を帯びていて、否が応にもあまねの気を引いた。あまねは、ツキのないローテーションを恨みながらも、階段を下りて「何か?」と微笑みかけた。

「あら、またあなたね。さっきのことはちゃんと伝えた?それより、こんな作りじゃ手すりの意味ないでしょ。もっとお客様に優しくして欲しいものね」
確かに、そのスロープは壁に埋め込まれたようになっていて掴みにくく、これまでも何度かクレームの対象になっていた。

「申し訳ありません。こちらの建物は、ある気鋭の建築家が設計したものでディテールにこだわり、スロープに関しましても……」
「そんなことはどうでもいいの。私は、事実として危ないって言っているのよ。ただこの建物が優しくないって言ってるだけ、分かる?」
「おっしゃる通りです」
「いいえ、あなたに分かるものですか。のん気な顔ですましているだけで。まぁ、そんなあなたに何を言っても仕方がないのだけど?」

彼女はいかにも苦しそうに身を捩じらせ、踵を返した。階段をあがることを断念したのか、それとも不親切な手すりに対する抗議なのか、あまねには知る由もない。あまねはただ、二階にある「見どころ」に思いを馳せながら持ち場に戻るしかなかった。

あまねは、平成館に戻る道すがら、黒門を過ぎた所で目の不自由な人がゆっくりと歩いてくるのに気がついた。その六十格好の男は身なりがよく全体を通じてスマートだったが、大きなサングラスをかけているせいで、秋晴れの空に似つかわしくないほどに異彩を放っていた。

「この先は法隆寺宝物館でしょうか?」
彼は、擦れ違いざまに立ち止まって言った。
「はい」
「そうですか、ありがとうございます」
「あの、近くが池のようになっているので気をつけてください」
あまねは、再び歩き始めようとする彼に向かって声をかけた。
「ご親切に、どうも」
そう言うと、前を向きまたゆっくりと歩き始めた。あまねは、少し歩いてから案内するべきだったと後悔したが、振り返ったときには、すでにほのかな余韻だけを残して視界から消えてしまっていた。

わだかまった気持ちを控え室に持ち帰ると、可織が机に片肘をついて退屈そうに雑誌を読んでいた。
「いつも思うけど、ここって絶対的に狭いよね?」
可織は、あまねの顔を仰ぎ見るなり物憂げな声を上げた。実際、監視員の控え室はロッカースペースに圧迫された間取りになっていて、あくまで申し訳程度の空間に過ぎなかった。

「どうしたの?浮かない顔して」
「さっき、目の不自由な方がいたのに、案内せずに戻ってきちゃって」
「それって、六十歳くらいの細身で背の高い人?」
「そうです。可織さんも見かけました?」
「見かけたっていうか、常連さんだよあの人。だから大丈夫じゃない?」
「でも、宝物館の周りは危ないじゃないですか」
「まあ、ね。『お局』が対応してるよ、きっと」
「そうですね……」
あまねは、大きなサングラスをかけた男性の幻影に捕らえられつつも一応の区切りをつけた。

(続く)

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