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ペニー・レイン(1章)

ペニーレインはぼくの耳と目の中
あの青い郊外の空の下に
ペニーレイン
Penny Lane − The Beatles

「ちびっ!ちびっ!」
「ちび、じゃないでしょ?『しび』よ、しび」
鋭角なセルフレームのメガネをかけた母親が、ろれつの回らない息子をたしなめている。うなじを薄っすらと濡らした男の子は必死に首を伸ばし、無造作に展示された巨大な鴟尾を見上げていた。

「ちょっと、触っちゃダメだからね」
母親はそう言って、鴟尾のそばに立つ監視員のあまねを窺ったが、彼女はそれを注意するでもなく、ただ軽く会釈した。あまねは、大学を卒業して以来、半年ほど東京国立博物館で監視員の仕事をしている。

また、彼女は学生時代に取得した学芸員の資格を使って美術館のキュレーターになりたいと常々思ってきた。しかし、最近ではその狭き門に辟易してしまい、「必ず」が「いつか」になり、現状に落ち着きつつあるようだった。

そして事実、彼女はこの博物館でのアルバイトに心地良さを感じていて、なり振り構わず美術館の求人に当たることをやめていた。

「ねぇ、ちょっとあなた」
振り返ると、季節感を無視した毛皮のコートを羽織った、いかにもゴージャスな体裁の婦人が仁王立ちしていた。

「あのね、ああいう親子はちゃんと注意してもらわなきゃ。立っているだけがあなたの仕事じゃないんでしょ?」
「申し訳ございません」
そう言うと、恐る恐る上目遣いで顔色を窺った。マスカラが塗りたくられたまつ毛は昆虫の足のように硬く立ち上げられ、厚ぼったい唇は不自然なほどに濃い紅色で染められている。あまねは、全身から匂い立つ、むせ返るようなムスクの香りを避けようと再び俯いた。

「あと、ガラスに指紋が付いていて汚らしいわよ。それもお願いね?」
貴婦人は、ふんと鼻を鳴らしてそう付け加えた。ガラス拭きは本来監視員の管轄ではなかったが、あまねは弾けんばかりの笑顔で応えた。

「はい。以後気をつけます。ご指摘ありがとうございました」
それは、クレームがあったときには指摘していただいたことに対してお礼を言う、そう教えられたままの模範的な振る舞いだった。

「それじゃ」
貴婦人はしなを作り、右手をだらしなく上げて言った。イモ虫のように動く薬指には、豪奢な金の指輪が嵌められていた。そのゴテゴテとしたフォルムは、どこかハワイ土産のマカダミアナッツチョコを思わせる。あまねは、冬眠から目覚めたばかりのヒグマのようにのっそりと歩く彼女の後姿をぼんやりと眺めていた。

「いやよね、あのおばさん」
「可織さん」
いつの間にかに、あまねの背後にはローテーション待ちの可織が立っていた。監視員の仕事は、広い博物館の中でちりじりになり、三十分毎に持ち場が変わるというシステムになっていた。

「何か文句つけられたんでしょ?いつもああなのよ、あの人」
「そうなんですか?」
「初めて?特別展が変わるごとに必ずこっちにも来るみたいで、とにかく難癖付けるのよ。一度雨の日に、傘袋を着けてくださいってお願いしたら、『わたくし、ビニールのムダ遣いは嫌ですの』とか言われちゃったわよ。動物の毛皮はいくらでも使うくせにねぇ?」
「ホント、そうですよね」

あまねは可織と話せたことで、自然な笑顔を思い出した。長年この監視員のアルバイトをしている可織は、あまねが入りたての頃からよく面倒を見てくれた先輩で、あまねは独特のユーモアを身にまとった彼女のことを慕っていた。

「次はどこ?」
「東洋館です」
「あら、ミイラの見張りね」
「あそこは、未だにちょっと苦手です」
あまねは、薄暗くて虐げられたイメージのする東洋館よりも、足元がふわりと浮いたような感覚になる法隆寺宝物館を愛していた。

「また後で」
「はい、昼休みに」

(続く)

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