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ペニー・レイン(8章)

8

「北川さん、ちょっと」
あまねは、宝物館のシフトに入った途端、お局に呼び止められた。
「はい」
「悪いんだけど、お客さんに宝物館の案内してもらえる?受付は代わるから」
「案内、ですか?」
「大丈夫よ。どこに何があるか説明するだけなんだから」
あまねは、それなら自分でできるのにと思いながらも、素直にお局の命に従った。

「分かりました。何か注意することはありますか?」
「ううん、任せるわ。よろしくね」
お局があごをしゃくったその先には、赤茶色の革張りの椅子に座った、例の目の不自由な男の姿があった。思いがけない挽回のチャンスに邂逅したあまねは、颯爽と歩み寄った。
「案内をさせていただく、北川です。よろしくお願いします」

声をかけられた男は、ぴくりと体を震わした後で立ち上がり、丁寧に会釈した。
「槇村と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

法隆寺宝物館の第一室は、重要文化財の立像と半跏像が整然と並べられた薄暗い独特の空間で、それはあたかも昼寝中の仏像を刺激しないために光を抑えているかのようだった。あまねは、宝物館貯蔵品に関する概要を述べ、槇村に寄り添ってゆっくりと歩いて回った。柱のように立てられたガラスケースの中には、様々な種類の小さな銅像が大人しく納まっている。彼女は、歌舞伎の舞台上でスポットライトを浴びているように見える『摩耶夫人および天人像』が好きだった。

「ここは、かなり照明を落としていますね」
「はい。お分かりになりますか?」
「光の圧力を感じないので」
「光の圧力……」
「ええ、特に蛍光灯からは強く感じます。見えなくても眩しいものは眩しくて。常に暗闇の中にいると、そういうものは重たいだけですから」
槇村の話は禅問答のようでどこか薄ぼったい謎を残し、あまねはそれに導かれるように答えを欲した。

「蛍光灯は、むしろ『光』ではないんですね?」
「その通りです。ですから、ここはとても落ち着きます」
「私も、ここが一番好きなんです」
あまねはそう満足げに言って、槇村を伎楽面コーナーへと導いた。

「二階も見ていかれますか?」
「ええ、もちろん」
「はい。それで、この階段なのですが……失礼します」
あまねは、優しくないと評された階段を見上げながら、ぎこちなく槇村の右腕を両手に取り、壁際のスロープの位置に持っていった。
「ここが手すりです。私は右側に付いて歩きますね」
「どうもありがとう」
槇村はそう言うと、壁にはめ込まれたようなスロープを慎重に握り直した。

「宝物館は、高齢者の方には敬遠されがちなんです。何かとクレームの対象になるので」
「そうですか。ただ、何やかやとクレームを付けたがる人はいますからね。ですから、クレームの対象になるものがあるというより、クレームの対象にされるものがあるだけと考えてはどうですか?現に、私は今こうして何の不自由も感じていませんし」
「そう言っていただけると助かります」
あまねは、槇村の横顔に向かってぺこりと頭を下げた。

「いえいえ。失礼ですが、北川さんはおいくつですか?」
「この間、二十三になりました」
「いや、声の感じからもう少しお若いかと思いまして」
「声でお分かりになるんですか?」
「トーンの高低で多少の誤差は生じることはあっても、声もしっかり年を取るのでだいたいは分かります」
「いくつぐらいだと思いました?」
「そうですね、てっきり二十歳くらいかと」
槇村はそう言うと、見逃すほどの小さな笑みをこぼした。それは、利休の茶器のように奥ゆかしく口元に添えられていた。

(続く)

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