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ペニー・レイン(15章)

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「どういう意味でしょうか?」
槇村は、汗を拭く手を止め、普段より抑揚のない声で言った。漆黒のサングラスの縁には、季節はずれの日差しが容赦なく降り注いでいる。

「さっき、槇村さんがソフトクリームを買ってくるって言ったとき、以前に同じことしたんじゃないかなって思ったんです」
「以前に同じことをした、ですか」
「ごめんなさい。変なこと言ってしまって」
「いいえ。確かに、その通りです。私は、何故かそのときもソフトクリームでも食べれば落ち着くだろうと思いました」
槇村の目は、サングラスの奥の深い闇に飲み込まれていて、そこから言葉の真意を読み取るのは難しかった。あまねは、何を言ったらよいものかと顔色を窺う他はなかった。

「あれは、かれこれ三十年以上前でしょうか」
槇村がそう言うと、二人の間に重厚なカーテンのような沈黙が降ろされてしまった。あまねは、崩れかけたソフトクリームと無言の格闘をしながらただ続きを待ったが、槇村は明らかに言い淀んでいた。

「結婚してすぐ、妻と来ました。妻はそのとき、あまねさんと同じように貧血を起こしましてね」
「そうなんですか。そのときは目が見えたんですね?」
「ええ」
「その……いつから、見えなくなったんですか?」
「いつから、ですか。それは、妻が死んでしまってからです。目が見えなかったのは私ではなく妻なのです。彼女は、生まれつき全盲でした。だから、私の場合はあくまで『半盲』といったところです」
槇村はそう言い切って、力なく口元を歪めた。あまねは、聞いてはいけないことというより、聞くべきでないことを聞いたことを後悔し、相槌すら打てない気分になってしまった。

「私は、妻が死んでしばらくして目を見えなくしました。もっとも、物理的に目を潰したわけではありませんが。つまり、目をつぶったその瞼の上に黒い布を貼り付け、顔に密着する濃いサングラスかけただけです。これでも一応、光は遮断できます」
あまねの意識は、槇村の発した言葉一つひとつを解きほぐすように追いかけたが、それとは相反して時間は鈍く滞り、靴底にこびりついたガムのように引き延ばされていた。

「どうしてそんな必要があったか、そう思うでしょう?」
あまねはただ、恐る恐る首を縦に振った。
「理由は、妻の遺書にあります。こんなことを口にするのは恥ずかしいことですが、私は妻を深く愛していました。そして、その遺書の意味を理解できない自分がどうしても許せなかった」

二人の間に沈黙が降りた。あまねはソフトクリームのコーンを握りしめながら続きを待ったが、槇村はもまた何かを待っているようで、互いにどちらの話す番か分かりかねている。あまねは、濃厚で甘ったるいバニラアイスで乾いた喉を潤そうと小さく唾を飲み込み、口を開いた。

「それを理解するために、見えなくしたということですか?」
「ええ、少なくとも妻を失ったそのときは、そうするしかないと思いまして。ただ、分かったことといえば、目が見えなくてもそこそこ慣れることができて同じだけ時間が流れていくという、実感くらいのものでしたが」
「でも……でも、きっとそれをやった意味はあると思います」
あまねは、槇村のストイックさに言葉を失い、震える声で間に合わせの慰めの言葉を発することがやっとだった。

「もしよければ……読んでいただけませんか?」
槇村はそう言うと、あまねの答えを待たずにゆっくりとショルダーバックのジッパーを開け、擦り切れた茶封筒を取り出した。あまねは、無言のまま恭しく受け取り、三つ折にされた白い紙を丁寧に広げた。

いつもお世話さまです。

先生は、薬は順調に効いているとおっしゃっていたけれど、
正直、私はもうそろそろだと感じるの。こんなことを言うと、
あなたに「頑張らなきゃ駄目だ!」なんて怒られちゃうわね。
いずれにしても、いつ昏睡状態になるか分からないから、
遺書でも(大袈裟かしら?)書いておこうと思います。

あなたはよく、目が見えない感覚を知りたがりましたね?
私はいつも、うまく説明できたらと思っていました。
だから、足りない言葉でどうにか表現してみます。

まず、目の見えない私は、ずっと雨の中にいるのと同じです。
あなたには、雨が見えますか? 見えるでしょう。
あなたには、雨が聞こえますか? 聞こえるでしょう。
あなたの雨は、きっとそういうもののはずです。
でも私の雨は、見えも聞こえもしないものです。

見たり聞いたりできないのは、私が雨を知らないから?
あるいは、私が「雨」という言葉しか知らないから?
それとも、私自身が雨みたいなものだから?
どれでもあって、どれでもないのかもしれないけれど、
ただ一つ言えることは、私には傘がいらないということ。

光を持たない私には、多くの人が傘をさしてくれます。
でも、あなただけは、私の傘になろうとしなかった。
あなただけは、いつも変らず私の雨でいてくれた。
あなたが雨でいてくれたから、私はそれだけ救われました。

傘のいらない優しい小糠雨のような、あなたに。
私なりに精一杯説明したつもりだけど……
やっぱり分からないかしら? ごめんなさいね。
とにかく、私はあなたの雨の中で本当に幸せでした。
ありがとう、隆司さん。

(続く)

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