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ペニー・レイン(5章)

5

「もしもし」
「話しても、大丈夫?」
「うん、帰り途中」

あまねは、なんとなく響太の声が聞きたくて、電話をかけていた。
「あのね、この前言い忘れたんだけど、今普段は出さない伎楽面の展示やってるよ」
「ギガクメン?お面?」
「うん。一年に一度だけ、より貴重なものを出すの」
「ふーん、見る価値ありそうだね。それも宝物館?」
「そう。私は十五時四十分から三十分間一階だから」
「じゃあ、そのくらいに行くよ」
「ありがとう。そうそう、今日すごい嫌なおばさんがいてさ。ああいう人って文句言うのが趣味なのかな?しかも、二回も怒られたんだよ」
「どんな感じで?」
「うまく言えないけど、とにかくイヤミ」
「まぁ、どうせ更年期過ぎの肥えた金持ちオバサンだろ」
「そう、ホントそんな感じの。それでね、もう一人不思議なお客さんがいるんだけど……」
「あ、ちょっと待って。コーンフレークとか買っていい?」
「それなら切るよ」
「そう?」
「うん。また、明日ね」
「おやすみ」
「おやすみ。バイバイ」

あまねが響太と付き合い始めたのは大学二年のときで、あと一カ月ほどで丸三年を迎える。出会った当初、二つ年上の響太は花形サークルである学祭実行委員の委員長をやっていて、サークルの単なる構成員であるあまねから見た響太は、あくまで憧れの存在に過ぎなかった。

だが、響太が順当に就職先を決め、優雅な学生生活を送れるようになると自然に話すようになり、長い夏休みには二人で出かけるくらいの親しさになった。

あまねは、付き合うことになった日のことをよく覚えている。それは、四度目のデートに竹橋の東京国立近代美術館に行った日で、十一月十一日だった。

響太はチャコールグレーのカーディガンを羽織り、オイルコーティングされたこげ茶のパンツを履いていて、「今日って、ディカプリオの誕生日だね」と言い、絵画を見ながらレオナルドという名前は、母親がダ・ヴィンチの絵の前にいるときにお腹の中で動いたからだと教えた。

そして、夕暮れ前の千鳥ヶ淵を眺めながら気象庁の前をぶらぶら歩いているとき、そばを通った真っ黒で艶やかな毛並みのラブラドールを見て、響太はこう言ったのだった。

「俺さ、ラブラドールみたいな人が好きなんだ。憧れるっていうかね」
「ラブラドール?」
「うん。余計なことを言わずに賢くて、しなやかで、瞳も澄んでてかわいいし」
「好きなんですね、ラブラドール」
「あまねちゃんてさ、何かラブラドールみたいだよね。ベージュの方の」
「私が、ですか?」
あまねは、ただどぎまぎしてそう答えた。
「それで、さっきからずっと思ってたんだけど……手つないでもいい?」

あまねは軽いパニックを起こし、顔を真っ赤にして俯いたまま「はい」とかすれた声を出した。響太は微笑んで、あまねのひんやりとした手を優しく握る。そんな十一月十一日だった。

その後、二人が大学生活を共に過ごしたのはほんの数カ月だったが、響太は授業がなくてもあまねのために毎日大学に行き、そのままどこかに繰り出す日々を楽しんだ。あまねの実感としては、キャンパスライフイコール響太、彼がすべてだった。

(続く)

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