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ペニー・レイン(16章)

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読み終えた途端、あまねはA4用紙に打ち込まれたゴシック体一つひとつが、「涙」と変換されていくかのように泣き出した。

槇村に対して何か意味のあることを言いたくても、そう思えば思うほど涙は溢れ、その涙だけがかろうじてメッセージとなっていた。あまねは、ほとんど何に対して泣いているのかさえ分からなかった。

「私、何も言えなくて……ごめんなさい」
「いや、私が」
「いえ」
二人は、そんな風に堂々巡りの言葉の欠片をかけ合った。それは、あたかも気まずいお見合い中の会話のようで、どこまでも不毛なまま進んでゆくようだった。

「とにかく、私が見当違いなことをしてしまいました。何も言えなくて当然です」
「でも、私は読めてよかったと思いますし」
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが」
そう歯切れ悪く言った槇村の表情には、手紙を見せたことの後悔よりも、あまねを中途半端に巻き込んでしまったことに対する自責の念が浮かんでいた。

「あの、いきなり変なことを言うようですけど……私『ペニー・レイン』が好きなんです」
あまねは、鼻声で言葉通り唐突に話を切り出した。
「ペニー・レイン?ビートルズの曲の?」
「はい。何故かは分からないんです。でも、この手紙を読んで思い出しました。『銀行屋さんはどしゃ降りの時も絶対にレインコートを着ない。とっても不思議』という歌詞を」
「雨からの連想ですか?」
「たぶん。それで、恥ずかしいことに高校生の頃初めて曲を聞いてからつい最近まで、ペニー・レインのレインは雨のことだと思ってたんです。でも、私は改めて日本語訳を見てみても、やっぱり雨でもおかしくないって」
「そんな雨があってもいいですね」
槇村は、穏やかな調子であまねに同意した。

「そう思いますか?」
「ええ。響きとしては確かに雨の方が綺麗じゃないですか。雨の音が、曲に乗って届いてくるようで」
「素敵ですね。どうして、レインコートを着ないのかな?」
そう言ってひとしきり感傷に浸ると、あまねは心のしこりがほぐれてある種の安堵が芽生えてくるのを感じた。すでに槇村の目が見えても見えなくても構わないと思えていた。

「もう一つ、実は私の名前、初めは雨の音で『雨音』だったんです。でも、お父さんがなんとなく幸薄そうだからって平仮名にしたんですよ」
「ペニー・レインと雨の音ですか……なるほど」
槇村はそう言うと、満足げに二度頷いた。

「ところで、あまねさんは雨の匂いをはっきりと思い浮かべられますか?」
「はい、おそらくは」
「ナイアガラという名前のぶどうは知っていますか?」
「食べたことはあると思いますけど。マスカットに似たやつですよね?」
「ええ。変な質問をしてしまいましたね。妻が以前、ナイアガラは雨の匂いと同じだと言っていたので。その感覚は分かりますか?」
あまねは、アスファルトからじんわりと湧き立つ雨の匂いを思い出し、すすけてしまった木炭のように曖昧なナイアガラの記憶と照らし合わせてみた。

「きっと、小糠雨の匂いも同じなんですよね?」
「優しいですね、あまねさんは」
「いえ」
気がつくと、二人の間に夕暮れ時の到来を告げるような薄闇が降り立っていた。子供たちで賑わっていた動物園もどこか哀愁を漂わせ、客の帰りを促しているようだった。

「また少し、歩きましょうか」
「上野駅からお帰りですか?」
「そうします」
「いつもはどちらから?」
「鶯谷です。ちょっとだけ近いので」

(続く)

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