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ペニー・レイン(18章)

18

「コスモスの香りがしますね」
あまねは、槇村の言葉に合わせてフラワーマーケットの店先を一瞥した。発色のよくない秋の花々が買い手がつくようにと、取り澄ましているように見える。

「綺麗ですよ、とても」
商業ビルと一体化した上野駅のメインには飲食店が立ち並んでいて、そこを歩くとまずパン屋のショーウィンドウから艶やかなデニッシュやプレッツェルの誘惑を受けることになる。様々な人種の人間が行き交うこの場所では、常に需要と供給が鎬を削っているようだった。

中央改札口の上には『自由』というタイトルの壁画があり、思い思いの格好で文字通りのんびりする人々の姿が描かれている。惜しむらくは、その淡い色合いとソフトタッチのために、駅構内に溶け込みすぎてしまっていた。

「聞きたいことがあったんです」
あまねは、緑の窓口の前まで来ると、立ち止まって口を開いた。

「何ですか?」
「どうして、常設展を頻繁に見にきてたんですか?」
「ああ、それは若い頃の妻の声にそっくりな人がいまして」
槇村は、あらかじめ正解を用意していたかのように淡白に答えた。

「それで、ですか?」
「ええ。それが、あまねさんだったというわけです。黒門の前で注意してくれたときも、宝物館を案内していただいたのも偶然だったのですが、お陰であなただと確信できたわけです」

さまざまな属性の乗客が、改札の向こう側に吸い込まれてゆくのが見える。溌溂として先を急ぐ者もいれば、気だるそうに引きずり歩く者もいる。あまねは、そんな様子をぼんやりと眺めながら行き交う人々の波間に「私」という主体が溶け出てしまうような感覚にとらわれた。

「それなら、私も告白していいですか?」
あまねは、少し間を空けてから口を開いた。

「何でしょう?ちょっと怖いですね」
「さっきふと、槇村さんが百済観音像に似てると思ったんです」
「それは、仏像みたいだということですか?」
槇村はそう言うと、口元にゆったりとした微笑を浮かべた。

「顔そのものというより、イメージなんですけど」
「この世のものではない、イメージ?」
「そんなこと……でも、失礼ですよね」
「いや、どちらかといえば褒め言葉ですよ」
あまねはそれを聞いて、本筋から大きく外れたことをあえて告白と言った自分を滑稽に思った。

「あまねさんは、山手線ですね?」
「はい」
「私は常磐線なので」
槇村はそう言って、見送ってくれなくてもよい旨をほのめかした。

「何というかその、楽しかったです」
「それはよかった。動物園ではどうなることかと思いましたが。こちらこそ、付き合ってくれてどうもありがとう」
槇村は、あまねから十五度ほどずれた空間に顔を向けて会釈をし、去っていった。あまねは、少し右肩を下げて歩く後姿を遠くに見送りながら思った。

《きっともう、来ないだろうな》

(続く)

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