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『動くためにとまる』第3回

西川勝(臨床哲学プレイヤー・看護師)


 俗に3号雑誌という短命な雑誌があるけれど、このエッセイも3回目で息が切れそうな気配がする。が、五里霧中の航海になるのは最初からわかっていた。吹かれる風に任せてあちこちの小島に立ち寄っていこうと思う。それぞれの小島が夜空の星のようにぽっと光る点になって、読む人が思い思いの星座を描けば良いだろう。

 さて、これまで「とまる」ということがそれほど簡単ではないことを見てきたつもりだ。で、すこし考え直してみると「動く」ということを「移動」の観点から考えすぎていなかったかと反省した。その場にじっとしていても、生き物は動いている。「活動」という切り口から考えてみよう。なにかと移動の制限が口やかましく言われている今日この頃だ。移動はしなくても活動している、というより、移動にかまけないで、ひたすら活動する生命の可能性について、あれこれ気づくことを挙げてみたい。

 ぼくは今年の3月末で退職して子守り兼主婦もどきの生活を送っている。以前に比べるとはるかに「ステイ・ホーム」の優等生だ。日本語では「巣ごもり」なんだろう。お気の毒と言われそうだが、本人は案外に平気で楽しんでさえいる。読書三昧の日々。貝原益軒が『楽訓』(※1)で理想とした生活に近づいた。

 「鳶(とび)の巣の下に渦巻く吉野川」(大峰あきら)という俳句がある。高く飛ぶ大空からも、激流の川面からも離れた巣で、鳶は卵を孵化させ子育てをしている。派手には見えないけれど自分の餌を求め飛び回るよりははるかに大切な活動だ。

 ぼくの敬愛する植島啓治先生の著書『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(※2)を読んでいると、「籠もり(incubation)」(※3)について、「神の加護を求めて寺社などに行き、そこで眠って夢の中でお告げ(託宣)を得る行為である」と書かれていた。ソクラテスが彼の哲学を追求するのに大きな力となったのはデルフォイの御神託だったし、親鸞が法然と出会うきっかけになったのも六角堂での参籠(さんろう)だった。安倍晴明は那智山に千日の参籠をしたと言われる。誰かから強制される謹慎、蟄居(ちっきょ)、幽閉ではなく、主体的な探求行為としての「籠もり」を再認識したい。よく問題視される「引きこもり」にも大きな可能性が隠れているかもしれない。

 葉っぱの上や地面をもそもそ這い動く芋虫は、やがて蛹になって移動をやめる。そして蝶になって舞い飛ぶようになるのだ。蛹になるというのは自らの内に籠もるということだろう。外部との交渉を断ち、ものすごい変化を遂げる不思議。変態の魅力は砂連尾さんのダンスにつながると、ぼくは思っている。

 もう一度、植島先生の言葉を紹介する。「神を感じるとは、何かが自分の中に入り込んでくる経験ではないかと思う。自分がマイナスにならないと神の入り込む余地はない。普段のプラスである自分をやめなければならない。そのためには、いつも思うことだが、話をしない、お願いをしない、触る、温度を感じる、気圧を感じる、湿度を感じる、聴く、匂いを感じる、風を感じる、感覚を開く、そして目の前のものだけを見ることである。そうしないと何が変化したのか感じとることはできないだろう」。

 こうして自分をマイナスの状態にすることで、動かされ流されるだけではない「ほんとのはじまり」の一歩が動き出すのかもしれない。では、また次回。


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※1:西川さんは2017年、舞鶴市の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」で貝原益軒(1630-1714)の『楽訓』(1710)の読書会も行っている。国立国会図書館デジタルコレクションにて、明治43(1910)年に丁未出版社から出された版を閲覧できる。

※2:植田啓司『世界遺産:神々の眠る「熊野」を歩く』(集英社、2009年)

※3:夢の中でお告げを得る行為である「籠もりincubation」は、平凡社の世界大百科第2版の「占い」項目によると、「想像以上に広い範囲に広がっている」とされ、ギリシャ古代史の時代から説明されている。「incubation」という単語自体の意味は「抱卵、孵化、潜伏」など。ちなみに今回の写真は豊平が本日(2021年5月15日)の散歩で偶然みかけた「産卵している亀」。この写真を撮った後に西川さんの原稿を読んだので不思議な感じがしたのでした。

脚注:豊平

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