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20211013ワークショップ③豊平

開催日時:2021年10月13日 13:30~15:30
場所:グレイスヴィルまいづる-東京(Zoomオンライン)
内容:
1.参加者のご機嫌伺い
2.ストレッチ
2.打楽器で遊ぶ。
  浦岡さん・仲井さんが準備したもの。
  料理用の金属ボールをお玉でたたくとか。
3.ガムラン音楽に合わせてみんなで用意した楽器をたたく
4.音楽なしでみんなで楽器をたたく
5.砂連尾さん主導で「鳴らす人」と「踊る人」に分かれて、途中でガムラン音楽鳴らす。

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豊平豪(文化人類学・torindo)


 今回浦岡さんが指摘しているように、展覧会という形式には「表現の主体」という問題がついてまわる。もし「『共生』を掲げた作品展の多くは、さまざまな障害者の表現活動をあげながらも、結局は『それを良く見せるだめだけの展覧会』になってしまっている」のだとしたら、そうじゃない「主体がある・いる」展示っていうのはどういうものになるのだろうか。そもそもそれは可能なのか。

 たとえば、グレイスの参加者は多くの方が認知症の人だ。砂連尾さんとも毎回出会い直すし、毎回隣に座っている人のこともよくわかっていないかもしれない。
 
 そんな認知症の人Aさんが粘土をもんで形を作ったりする。一か月後、その物体にAさんが色を塗ったとしても、Aさんはその粘土の塊を自分が作ったものだとは認識できない(忘れている)。

 それをぼくらは「Aさんの表現物」とみなしている。

 さて、ぼくらがそれを「Aさんの作品」として展示したとき、それは「主体がある・いる」展示なのだろうか。といって、その横にキャプションでAさんの人生の詳細を書いたとして、それは作品の「主体」を説明するものになるのだろうか。

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 認知症の人の表現を展示しようとするときに露わになるのは、表現の主体は連続しているのか?という疑問だ。

 藤子・F・不二雄の短編漫画に『自分会議』(1972年発表)というのがある。細かいあらすじは割愛するけど、あるとき「自分」の前に「9年後の自分」「23年後の自分」と「33年後の自分」が現れて言い争いをはじめる。それぞれがその時点での自分の利益を主張して争いは収まらない。そのうち「裁定者がいないとだめだ」ということで、「幼いころの自分」を連れてきたりする。

 もうひとついこう。

 小田ひで次の『拡散』(1995年、講談社)という漫画。これは主人公が空気中に拡散してしまうという話だった。自分を自分としてまとめ続けるのには努力が必要で、主人公はそれができなくて、空気中に霧散していく。  
 
 ことほど左様に(?)、自分はなかなか同一ではいられない。常に何かに確認してもらうか、何かを通じて自分を確認しておかないと、あっという間にバラバラになる。言ってることもやってることもくるくる変わる。そのことを漫画表現に落とし込んだ時、上記のような作品が生まれた。

 じゃあ、仮に表現に主体なんて「ない」としても、あきらかに現前している「表現」(たとえば粘土の塊)とは何なのだろうか。

 僕は「表現」とは<痕跡>なんじゃないかと思ったりする。<痕跡>に表現者そのものを読み取ることはできないが、僕らはそのときの表現者の哲学や主張や思ったことなんかを読み取ることはできる。アナログレコードのように盤を回転させ、その溝(痕跡)に針を落としさえすれば音が出るはずだ。

 最近のとつとつでは、ダンスという枠内で、いろいろな「作品作り」をしてきた。俳句を作ったり、詩を作ったり、絵を描いたり、ガムランという体で音楽をつくってみたり。それを一堂にまとめた展示でもするか、っていう話が出てくるくらい作品はいっぱい生まれている。

 それらをこの世に生まれ出た<痕跡>として、とつとつダンスの展示ができないだろうか。観る人が一緒に針となって、その<痕跡>を奏でることができるような。

 それができれば「主体がある・いる」展示ができるのかもしれない。まあ、それができれば苦労はしないのだけど、個人的には9月に伊達伸明さん、砂連尾さんと豊橋でやることができた「おみおくり展」はそのヒントになるのかもしれない、と思う。

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