『動くためにとまる』第2回
西川勝(臨床哲学プレイヤー・看護師)
もう何年か前のことである。砂連尾さんと一緒に長崎に行った。そこでワークショップをしたのだ。「足で地面に蹴るようにして歩いてください。地球を回すつもりでやってください」と、彼は参加者に指示した。終末期医療に関心を持つ真面目な参加者からはなんのブーイングもなかったが、ぼくは砂連尾さんの真意を測りかねていた。今も、よくはわからない。だから、気になり続けていた。
さて、前回の話の続きをしよう。自分で動いているつもりでも、何かに動かされているのを知らない(忘れている)だけかもしれない。これは、自分ではとまっているつもりでも、実は動かされているのを知らない(忘れている)だけだということにもなる。現代に生きる私たちは、地球が自転していることを常識として知っている。それどころか、地球が太陽の周りを公転していることも、さらには太陽系を含む銀河系自身が回転しながら、銀河団のなかで移動していることも天文学上の知識だ。
ぼくの持っている教科書によると、地球の自転によって、地上の一点にいる人は、赤道では4万キロメートルを1日かかって1回転するから、その速度は毎秒460メートルだという。地球の公転速度は毎秒30キロメートル。太陽系の回転は毎秒250キロメートル。銀河の固有運動は毎秒数百キロメートルだという。足場のない大宇宙の中では、私たちは動いていないつもりでも、凄まじい速度で移動しているのが事実なのだ。
もう一つ、砂連尾さんが小学4年生を相手に、「鏡に映る自分より早く動いてください」と指示したことがあって、学級担任の先生からストップをかけられた思い出がある。それはいくら何でも無理でしょう、という良識的な大人の判断だろうが、月にある鏡に写った自分が見えるのならば、鏡に写った自分よりも早く動くことは可能だ。
地球から月までは38万キロメートル。光は秒速30万キロメートルだから、往復するのに2秒ちょっとかかる。新幹線の名前が、「こだま」(音速)から「ひかり」(光速)、さらに「のぞみ」(想像)へと進展したことを思い出すと、大人の常識を打ち破る子どもの想像力に訴えかけた課題だったのかもしれない。そう思ったのは最近のことで、砂連尾さんに確かめたわけではない。
何だかよくわからない砂連尾さんの一言は、こうしてぼくの思考をずるずると引き回す。だから「動くためにとまる」は、ぼくへの呪いか託宣なのだと覚悟して考え続けよう。
思いついたことを少し書いてみる。川魚は流れに逆らって泳ぎ続けないと、海へと流されてしまう。川の流れの中で、自分のテリトリーに留まるためには、流れの反対方向へと懸命に動く必要があるのだ。同じように、大宇宙の中である定点(そんな基準が見つかるのか不明だが)に自分の位置を保とうとするなら、どれほどの動きが必要になるのだろう。
ともかく、「とまるために動く」というのは何かしらの真実を含んでいる気がする。宮沢賢治が「農民芸術概論綱要」(※1)で述べた「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」という言葉が、ほんのわずか、ほんの少しだけであるけれども、自分に近づいてきた気がする。
今回は、これぐらいで。また、次回。
***
<脚注>
※1:「農民芸術概論綱要」は、宮沢賢治が1926年(大正15年)に宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」での講義用として執筆した文章。「綱要」というタイトル通り、「序論」から「結論」に至る10章ごとに10行前後の短い命題によって構成されている。体系立てられてはいないものの、賢治が残した数少ない芸術論として知られる(wikipedia「羅須地人協会」項目参照)。『農民芸術論綱要』はこちらの青空文庫からも確認できる。
脚注:豊平
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