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『動くためにとまる』第1回

西川勝(臨床哲学プレイヤー・看護師)


 「動くためにとまる」を大きなテーマとして、これから毎月なにかを書くことになりました。このテーマはぼくが考えたものではありません。最近、砂連尾さんが気になっていることらしいのです。
 ぼくと砂連尾さんが「とつとつダンスワークショップ」で一緒に何かやるときは、いつも事前の打ち合わせはありません。何も知らないところから砂連尾さんのダンスワークショップに参加して、そこに集う人たちと対話を始めるのです。ですから、この連載の大きなテーマが、ぼくの考案ではないことも、「とつとつ」らしいと思っています。

 さて、さて、さて・・・。大海原に向かって航海をはじめたとはいえ、目的地は定かではなく小さな島影も見えない今、頼りにできる櫂と帆は「動くためにとまる」という言葉だけです。どんな風が吹いてくるのか、どんな潮流に巻き込まれるのか、難破も覚悟の上で進んでみるしかないのです。どうぞ、お付き合いしていただければと願っております。

 幼い頃に観たテレビに、ある少年が「時間よ、とまれ!」と言うと、すべてのものが止まってしまうという番組がありました。ネットで調べてみると、手塚治虫の原作で「ふしぎな少年」(※1)というタイトルでNHKが1961年に生放送したもので、この台詞は流行語にもなったらしいです。だから、憶えているのかもしれません。あんなふうに、自分のまわりをすべて思いのままに止めたり動かしたりできれば、さぞかし愉快だろうと思ったものです。

 今回は、この小さな思い出からはじめてみたいと思います。「時間とは何か」と問うと、やたらに難しいことになりますが、運動のないところに時間を見いだすことはできません(多分、はっきりと自信はありませんが)。ほんとの時間は時計の針の動きで測られるものではないというベルクソン(※2)という哲学者もいました。これは鷲田先生(※3)の講義で教えてもらいました。

 時計でなくとも自分の呼吸や心臓の動きなど活きている身体の動きさえも止まってしまい、世界に何一つ動きがないとしたら時間を知ることはどのようにして可能なのでしょうか。

 比喩的に「時の流れ」と言いますが、流れは空間の中での動きなのです。時間そのものは目には見えないのに、そう言うしかないのです。目には見えない思考も流れをもっているかに思えます。前の考え、後の考えなど、やはり空間的な比喩を使って表現しています。難しいことはよく分かりませんが、現代の物理学では時間と空間は別の独立したことではないとされているようです。

 すると、「とまる」ということは単に空間的な運動の次元だけではなく時間の次元においても一緒に起きていなければなりません。一枚の薄い紙を破るとき表と裏が同時に破れるようなものでしょうか。目に見えていた動きが止まったように見えることは、別段不思議なことではありません。

 赤信号では「とまれ」と教えられて、そんなことは絶対に不可能だとは思わないでしょう。ただし「時間を止める」となると、「ふしぎな少年」でなければできない相談です。こうして考えていくと、ほんとうに「とまる」ということは、時空の世界から外れてしまうという、なんとも想像しがたい出来事のように思えるのです。

 哲学的に言うと時空に影響されない存在を「実体」とよびます。プラトンのイデアがそうです。神や仏の世界も実体の世界と言えるかもしれません。あれこれと考えているうちに、早くもぼくの小舟は暗礁に乗り上げそうです。


 閑話休題、見まわしてみると、自分自身もふくめて世界のすべては動いています。動物だけが動くわけじゃない。「万物は流転する(パンタ・レイ)」は、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉です。ぼくが二十歳ぐらいの夜学哲学科の学生だった頃、初めて書いた文章はヘラクレイトスでした。 

 還暦をとうに過ぎた今も、物事のわからなさでは同じ自分ですが、わからないことを考えるのは、わくわくします。で、こんなことも考えてみました。自分で動いているつもりでも、じつは動かされているだけなのかもしれない。流されているのにそれに気づいていないだけかもしれない。自分の体にしても、随意筋と不随意筋があって、すべてを自分の意思で動かしているわけではないのです。

 呼吸に関しては随意と不随意の両方に足をおいている感じですが、睡眠中には明確な意識なくして呼吸しています。はっきりと自分の意志で呼吸するためには、一度は意識して呼吸を止める必要があります。苦しくて、もう一度、呼吸を始めなければならなくなります。でも、呼吸を止め続けるという選択を意志の力だけで実現することはできません。呼吸は自分の勝手に扱えるものではないのです。

 さて、さて、さて・・・。この話、次はどこへ漂着するのでしょう。また、来月に。
 

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※1:ふとしたきっかけで時間を止める力を持ってしまった少年の、奇妙な体験の数々を描いたSFサスペンス。手塚治虫著作。1961年5月から1962年12月まで『少年クラブ』(講談社)にて連載。1961年から1962年までNHKにて実写テレビドラマも放映もされている(ほぼ生放送)。

※2:アンリ・ベルクソン(1859-1941)。フランスの哲学者。『時間と自由』(岩波文庫)など。鷲田清一が、朝日新聞に毎日連載している(現在休載中)。「折々のことば」の1762回目(2020年3月20日)にて「それらの事物は私と同じく生きてきたし、私と同じく老いたのだ」とベルクソンのことばを紹介している。

※3:臨床哲学者の鷲田清一先生。西川さんと一緒にいると、鷲田清一先生と植島啓司先生をほんとうに思考の血肉にしているのに驚かされる。鷲田先生には2015年に行った<とつとつダンス>の仙台公演『とつとつダンスpart2 愛のレッスン』のアフタートークにも登壇していただいた。

脚注:豊平


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