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『泉御櫛怪奇譚』第二話

第二話『誓いの櫛 潔黒の鳥』
原案:解通易堂
著:紫煙

――幸せの形は人それぞれではありますが、その中でも『結婚』を選んだ男女には、他人ですら末永い幸せを願わずにはいられません。
では、幸せになる。とは、一体なんなのでしょうか……?
おや……ここにひと組、答えを見つけた男女がいるようですよ……――


 白と銀を基調とした眩い店内で、祐介は居心地が悪そうに背中を丸めていた。一応それなりの格好を真似しているようだが、外から見ると場違いなのは明瞭だ。それを自覚しているのか、祐介は眩しい店内を薄目で眺めながら、既に空になったコップをいつまでもいじくりまわしている。
「村田様、お待たせいたしました」
「っ……はいっ!」
 若い店員の声に肩で反応して、うっかりコップを落としそうになる。店員は慣れた手つきで祐介からコップを受け取ると、何種類かの指輪を机の上に披露した。
「エンゲージリングをお求めとのことで、希望価格帯の物をいくつかご用意させていただきました」
「はあ……あの、婚約指輪を……」
「はい? ああ! 婚約指輪とエンゲージリングは同じものですよ?」
「あ、いえ……はい……」
 祐介は緊張しているのか、生唾を飲んで喉を湿らせると、食い入るように指輪を見つめる。店員は笑顔を絶やすことなく机の上の指輪を手に取ると、早口で説明を始めた。
「当店のリングには全て星の名前が付けられていて星の神話に基づいたデザインが特徴なんです! 特にこの『オリオン』が当店の人気デザインでして……」
(うわ! どこで息づきしているのか、分かんないくらい早い……っ!)
 祐介は慌ててポケットからアイフォンを取り出すと、ひび割れた液晶画面をタップしてメモ帳を開いた。
「ちょ、ちょっと、もう一回、言ってもらっても良いですか」
「はい。大丈夫ですよ。せっかくプロポーズするなら、色々拘って見たくなりますよね」
「はあ……色々……」
(拘りたいとか以前に、今何言っているのか理解するので精一杯なだけなんだけど)
 祐介は曖昧に愛想笑いだけして、再び画面に向き直る。本人は隠しているようだが、指の隙間からはケースを補強するように巻かれたガムテープが見える。一通り説明が終わった後で、店員は話題を作るようにアイフォンを見た。
「そのアイフォン、大切に使われているんですね」
 店員の気の利いたお世辞に、祐介は初めて自然と笑顔で返す。
「はい。今の彼女と付き合い始めてから、ずっと使っているんです」
「彼女さんとは何年なんですか?」
「ご……5年になります」
「わあ、長いですね! それだったら、彼女さんの好きなモチーフのリングとかどうですか?」
 店員は声を弾ませて提案するが、祐介の表情は再び曇ってしまった。
「はあ……それが……本当に指輪を贈って良いのか、分からなくて……」
「どうしてですか? 断られるのが怖いーとか、気に入らないから、中古アプリで売られちゃうんじゃないかー、とかですか?」
「いえ、いえいえ! そんなことは絶対にしないと思うんです」
 慌てて首を振る祐介に、店員は説得するように笑顔を作った。
「じゃあ、思い切って贈っちゃっても良いと思いますよ! もし、結婚指輪と同時にお求めでしたら、セットリングもありますし……」
 店員の言葉を出来る限りメモに残した祐介は、指輪は予約せずに店を出た。
 冷房に当てられた肌を、太陽が容赦なく炙っていく。瞬時に額から滲む汗を拭きながら次に祐介が向かったのは、大型ショッピングモールの本屋だった。マリッジ関係の雑誌を食い入るように読みながら、婚約指輪にまつわる記事を抜粋して読み、アイフォンにメモをする。今度はその情報を元に別のジュエリーショップへ足を運び、再び早口な店員の説明を聞くのだ。
(ふう。どこのお店に行っても、同じ内容ばっかりだったな)
 何件か巡ってくたびれた祐介は、自販機でペットボトルを買い、水分で喉を潤していた。自販機に寄りかかりながら休憩するが、真上で照らす太陽が余計に暑く感じる。蝉やら車やら人やら、この国 そのものが騒音といっても過言でないこの季節。今飲み込んだ水分が蒸発していく錯覚すら感じながら、祐介は地面に向かってため息をついた。
(もう昼か……休憩がてら、近くのファミレスに入ろう)
 刹那。ボロボロのアイフォンを使って検索する祐介の耳に、大きな羽ばたきが聞こえた。その音が余りにも近くに感じたため、祐介はびっくりして反射的に見上げる。すると、大きなカラスが一羽、真っ直ぐに飛んで行った。
「びっくりしたぁ……でっかいカラスだな」
(黒猫じゃないけど、黒い生き物に横切られると、なんか縁起悪く感じる……気がする)
 そう思いながらカラスを目で追いかけると、カラスは近くの電柱に止まって、静かに辺りを見渡しているようにも、
(……僕を、見ているのか?)
 こちらの気を引こうとしているようにも感じた祐介は、何故かカラスから目が離せなくなっていた。後を着いて人ごみをかき分けて行くと、カラスは再び飛翔し、誘うようにまた止まる。こうして路地裏を抜け、数分ほど距離を歩いた先で、一軒の店の屋根に止まった。


 祐介が誘われるように入ったお店は、アンティークな佇まいの櫛屋だった。
(中国の輸入ショップか何かかな? いけね……場違いな店に入ってしまった)
 祐介は直ぐに出ようとしたが、涼しさに負けてしばらく店内を眺める。店内は無人だが、漆が塗られた柱の至る所に不思議な模様が墨入れしてあり、赤と金を基調とした民族風の店内は、視覚の情報量が多くて華やかだ。次いで鼻を擽る香りは、祐介では形容が出来ない。
(花の匂い……? ほんのりスモークしたミックスナッツみたいな匂いもする気がする)
「櫛の専門店って、こんな感じなのかな……?」
「そうですね……少なくとも、店内の装飾品は……私の趣味、ですが……」
「おぅわっ!」
 いつの間にか帳場にいた店主が、にこやかな顔で祐介を出迎えていた。祐介は突然の店主に、声を出して驚く。
「す、すみません。勝手に上がり込んじゃいました!」
「いえ……こちらこそ。直ぐにお出迎え出来なくて……申し訳、ありません」
 店主は店内まで足を進めると、丁度祐介と向かい合う形で優雅に一礼した。布の多い民族衣装がふわりとたなびき、微かに先ほどとは違う花の香りが祐介の鼻をくすぐる。丸眼鏡の向こうの瞳は少し釣り目で、目尻に紅がさしてあり、
(はえ~。僕と同じくらいの歳に見えるけど、お化粧が似合う男の人もいるんだなぁ)
 と、祐介はため息をついた。
「いらっしゃいませ……解通易堂へ。私はここの、泉……と、申します」
「は、はあ。僕は村田です。すみません、えっと、櫛を買いたくて入ったわけじゃなくて……」
「良いのですよ……ここに来たのも、何かの縁……ゆっくりと、お寛ぎください……」
 店主、もとい、泉は、ゆっくりとした物腰で一歩だけ下がると、祐介が歩きやすいように店内を少し明るくした。先ほどの場違いな雰囲気が一気に緩和され、祐介はようやく、ゆっくりと深呼吸をする。
「あの、僕……全然、櫛について知らないんですけど……えっと、ここの櫛は、どういうアレなんですか?」
「どういうアレ。ですか……ふふ……面白いお問い合わせ、ですね」
「ああ、すみません。僕、余り喋るの、得意じゃなくて」
 祐介は恥ずかしそうに顔を伏せた。しかし、泉は嫌な顔一つせずに、ゆっくりとした動作で櫛を一つ手に取る。
「そうですね……うちの櫛の特徴で言うと、持ちやすい形で使いやすい……ですかね」
「使いやすい。ですか?」
「ふふ……今、そんな謳い文句はどこの櫛も一緒……と、思いませんでしたか?」
「ああ、いや……はい。すみません」
 祐介はバツが悪そうに頭をかいて、取り繕うのを止めた。
「でも、色んな特徴とか、難しい作り方だとか、デザインの拘りとか、そう言うのがあった方が、その……」
「そこは……そうですね。お客様に合わせた……お見立てを、心がけております」
 泉は言の葉を思い出すように声を編むと、祐介に向かって少しだけ首を傾げた。
「村田様は……例えば、全く知らない櫛について、伝統やデザインの拘りを説明されて……全てを受け止めきれますか?」
「‼」
 泉の問いを聞いて、祐介は目から鱗が落ちる。
「ああ、なるほど! いえ……僕はそこら辺、サッパリなので。シンプルな方が、良いです」
「ええ。お店の主役は『櫛』ですが……それを見るお客様が『何を知りたいのか』を、聞いて引き出すのが……『私』の役目、です」
(ああ、そうだ。僕は今、どの店よりも喋っている気がする……ジュエリーショップではメモを取るのに必死だったし、本屋さんでも店員に尋ねることはしなかった)
 祐介は初めて自分の変化に驚き、今まで当たり前のように動かしていた口に触れた。
「気づきませんでした。僕、本当に口下手で……」
「いえいえ……私は、聞かれたことにしか、答えておりませんよ? 村田様が……櫛に、すこうしだけ興味を持ってくださったから、こうしてお話が出来るのです」
「そうですか……」
(なんだか、自分の言葉をきちんと受け取ってくれている感じがして、話しやすいな。もしかしたら、僕よりずっと年上なのかも?)
 気を良くした祐介は、思い切って普段遣わない言葉を選んでみる。
「じゃあ、なんで持ちやすい櫛なのか、えっと……櫛を使わない僕でも、持ちやすさの違いが分かるのか……そこら辺をもっと具体的に知りたいです」
「ええ……喜んで、お話しましょう……」
 泉は快く返事をすると、帳場の方から桶胴太鼓のような椅子を用意してきた。と、言っても、なんとも不器用に椅子を引きずって持ってくるので、途中から祐介が自分の分を運んだのだが。
 気が付けば、祐介は櫛の話に夢中になっていた。泉の話し方は独特な間があるが、祐介にとっては聞き取って理解するのに程丁度良い早さで、メモを取る必要も、まして、何度も聞き返すような必要さえもなかった。
「いやぁ、専門の方のお話って、気後れしちゃって上手く聞くことが出来ないんですけど、今日、一番ちゃんと聞きたいことが話せている気がします! ……泉さんの調子で指輪の説明をしてもらえれば、こんなに悩むこともないのに……」
 ひとしきり会話を終えた祐介は、いつの間にか用意されていた麦茶を一口含み、つい愚痴をこぼしてしまう。
「実は、さっきまでジュエリーショップへ行っていたんです。でも、店員さんが凄く早口で、指輪の話を聞きに来たはずなのに、星の神話とか、セットリングが云々とか、なんかこう……よく分からなくなっちゃって……」
「おや……もしかして、結婚指輪……ですか?」
「いえ、いえいえ! その前の、婚約指輪です」
「ほう……意中の方が、いらっしゃるのですね」
「はい。もう5年も付き合ってくれている、僕のかけがえのない、彼女なんです……」


 時は遡り六年前。珍しく雪が積もった年末のこと。
 祐介は高校卒業後、直ぐに今務めている部品工場に就職していた。自分より年上の後輩に気を遣い、上司に気を遣い、部品の型番が違えば取引先に気を遣う。そんな味気ない毎日を過ごしていた。
 その日、会社の大忘年会に嫌々参加していた祐介は、上司の隣で機嫌持ちをしていた。子どもの頃にドラマで見た、ビール瓶を持ってお偉いさんに挨拶をするような文化は流石に廃れているが、いつの世も、男所帯の会社で一番面倒な席に座らされるのは、若い女性か勤続の長い社員である。
 しかし、この年の忘年会は有志の催しでビンゴ大会があった。強制参加させられた祐介は、そこで偶然にもビンゴを当ててしまった。
「び……ビンゴです」
「私も! ビンゴしました!」
 祐介と同時に手を上げたのが彼女だった。互いの目線が重なった瞬間を、祐介は今も覚えているという。
 祐介が受け取った景品は、彼は聞いたことがないが有名なメーカーのバスセットだった。彼女が受け取った景品は、工場らしい業務用の軍手の束。受取り手が真逆な景品内容に会場は大いに盛り上がった。拍手の中で、酔っぱらった上司が「交換してあげろよ村田ァ」と叫んでいるのが聞こえた。
「あ……あの、交換、しっしませんか?」
「良いんですか! 良かった」
 声が裏返りながら彼女に声をかけると、彼女は快く交換に応じてくれた。
忘年会が終わり、二次会の誘いを断って上司をタクシーに放り込んだ祐介は、軍手の束を抱えて帰路に着いていた。
「あの! 村田さん!」
 突然後ろから声を掛けられ、反射的に振り向く。小走りで駆けてくる彼女に驚き、しどろもどろになる祐介は、辛うじて聞き取れる日本語で会話を試みる。
「え……あの、なんで、名前……」
「村田ぁって、呼ばれてましたよね?」
「はあ……あ、はい。そうです。村田です」
 彼女はぶっきらぼうにしか返せない祐介の態度に気分を害することなく、連絡先を聞いてくる。大人しそうな容姿なのにとても明るく社交的な彼女に、祐介は好印象を受けた。
 二人は、工場は違えども連絡を取り合って、徐々にデートを重ね、次の年の大忘年会の帰りには、彼女の方から告白をしてきた。
「私を、祐介さんの彼女にしてください!」
「う⁉ う……うん。うんうん!」
 頷くことしか出来なかった。焦った勢いで落としてしまったアイフォンには大きなヒビが入ったが、祐介はそのヒビを見るたびに当初を思い出して幸せな気持ちになるらしい。
 五年後の現在。ある日のデートの帰りに、彼女が恥ずかしそうに言ってきた。
「私は付き合ってくださいって言ったからね。その先は、祐介くんが決めてね」
「え……それって……⁉」
「私からは、言わないからね。言わないけど、待っててあげるからね!」
 遠まわしにプロポーズを促され、祐介は帰宅後、直ぐに近くのジュエリーショップを探すのだった。


 馴れ初めを聞いた泉は、表情を変えることなく、祐介に麦茶のお替りを差し出した。誰がいつ注いだのかは分からなかったが、祐介は話すのに夢中でその違和感に気づかない。
「なるほど……それで、指輪を予約してきたと……」
「いえ、実は……予約しないで帰ってきちゃいまして」
「ほう? デザインやサイズが合わなかったのですか?」
「最初は、そう思っていたんです。でも……今、こうやってて話していて、予約しなかった理由が分かりました」
 祐介は、今度は麦茶を全て飲み干して、胸の内の蟠りを吐き出した。
「僕は、高卒で出世も期待できない……良くて主任に昇格出来れば万々歳の低賃金労働者です。顔も背も普通で……この前、都内の一流企業に入社した弟に初任給を聞いたら、勤続11年の僕より多くて、思わず笑っちゃいましたよ。はは……」
 乾いた笑いを溢しつつ、視線は無意識に一つの櫛へ移っていく。三本足の烏が焼き印された櫛は、他の櫛より焦がした範囲が広い為、目につきやすかったのかもしれない。
「そんな僕に、彼女は5年も恋人として付き合ってくれたんです。幸せにしたい。でも、苦労をかけてしまうのは見え見えだ……一体、どう言えば結婚を受け入れてくれるか……ショップへ行っても、本を読んでも、書かれていることは『幸せにするための』『一生守り続ける』『何があっても支える』なんて、僕の不安とは真逆の言葉ばかりで。でも、じゃあなんてプロポーズすれば良いのか、頭の悪い僕には分からないんです」
 少しだけ、無音の間があった。それは一つの物語が終わったような余韻にも、次の物語が始まる静けさにも感じる。
 泉は、祐介が見ていた櫛を手に取ると、彼の視線を誘導するように、自分の前に櫛をかざした。祐介の視界に、優しい眼差しの泉が入り込む。
「ふふ……結婚とは……なにも、苦労なく幸せにすることだけが……男の使命とも、限らないのですよ……」
「それって、どういう意味でしょう……?」
 首を傾げる祐介に、泉はふと微笑んで、つらつらと話を始めた。
『むかしむかし、あるところに。その日の飯にも困るほど貧乏な百姓がいました。名前を権兵衛と言い、両親はいませんでした。一人で田畑を切り盛りしていましたが、年貢を納めるのに精一杯で、色恋にかまける暇もなかったそうな。
 そんなある日、権兵衛は大名行列がやってきたので、頭を地面にこすりつけて見送っておりました。大名行列の際は皆土下座をして一行を見送る風習があったので、権兵衛以外にも、そこに暮らす全員が、頭を下げておりました。
 しかし、目の前に落ちてきた櫛を拾った権兵衛は、思い切って顔を上げました。勿論、冷たくあしらおうとする家来達はたくさんおりましたが、それを制して、権兵衛から櫛を受け取った武家の娘に、彼は一目惚れをしたのです。
 娘が一人の時を狙って権兵衛が声をかけると、娘は気を悪くする様子もなく笑いかけてくれました。小汚い百姓の話を親身に聞き、時に笑い、二人はとても楽しいひと時を過ごしました。
――まごう事なき、恋だったのです。
 それから二人は、人目を忍んで逢瀬を繰り返し、再び大名行列が始まるその日まで、確かな愛を育んでいきました。
 しかし、当時は身分違いの結婚など御法度。その上、水飲み百姓の権兵衛がどんなに努力をしても、娘に苦労をかけてしまうことは明らかだったのです。
 それでも、権兵衛は娘を嫁にしようと決意しました。
 権兵衛は、家も何もかもを手放し、かき集めた金で美しい櫛を買うと、娘が村を離れるその晩に、彼女を外へ呼びました。
「オラと一緒だと苦しいことも多いだろうが、それでも、死ぬまで共に生きて欲しい」
 権兵衛はそう言って、苦(く)と死(し)の名を持つ贈り物をしたのです。
 娘は喜んで快諾し、二人はその晩に駆け落ちをしました。新転地では、文字通り苦難を乗り越えながら、夫婦は仲睦まじく過ごしましたとさ……』
「……ああ、そうでした。めでたし、めでたし」
 話を聞いた祐介は、今までの悩みが全部晴れた様子で泉を見つめた。泉は八咫烏の櫛をゆっくりと祐介の前に差し出す。
「…元来、櫛は…苦と死の両方の音を持つ、縁起の悪い物。と、されていますが…言い回し次第では『苦労も死も分かち合いながら、それでも笑って生きていこう』の方が……指輪よりも、ロマンチックだと思いません?」
「はい……はい! 僕、今、凄く彼女に会いたくなりました……会って、ちゃんと僕らしいプロポーズをしようと思います! これ、お守りに買っても良いですか?」
「ええ……。お買い上げ……誠にありがとう、ございます」
 祐介は、泉から差し出された櫛を一つ購入して、櫛屋の扉を開けた。刹那、真上から大きな羽ばたきを聞いて、反射的に空を見上げる。
 あの真っ黒なカラスが、夕焼けの空に溶けて消えていくのが見える。祐介は何となく烏に手を振って、傷だらけのアイフォン画面に視線を落とした。そわそわしながらコール画面を見続け、画面に通話の表示が出た瞬間耳に当てる。
「うん……あのさ、今、空いてるかな? うん……僕さ、ちゃんと伝えられるように、なったから……うんうん……そう、電話じゃなくてさ、僕から、会いに行くよ」


 とあるよく晴れた朝。有名な大社で、静かな結婚式が執り行われている。雅な白無垢に包まれた女性の表情は見えないが、隣に寄り添う祐介の顔は、緊張しながらも、とても幸せそうに微笑んでいる。
本殿前で写真を撮る際、新婦の袖から一本の櫛が落ちた。
「あ、僕が拾うよ」
 祐介が咄嗟にしゃがんで櫛を拾い上げる。櫛を渡そうと上を見上げて、ふと動きが止まった。心配そうにしゃがもうとする新婦に、慌てて首を振って見せる。
「ああ、違うんだ。何でもないよ……昔話を、思い出しただけなんだ」
 仲睦まじく写真を撮っているその姿を、神木の傍で見守る影がふたつ。真っ黒な着物に何故か女性物のレースを被る泉に向かって、彼に日傘をかざしている男がうんざりと問う。
「なんでい。珍しく朝っぱらから呼び付けるもんだから何かと思えば、一見さんの結婚式かい」
「おや……和寿が一度だけ見たお客様を覚えているなんて、意外ですね」
「旦那が珍しく長話してる客なんて、滅多にいねえからな」
 和寿と呼ばれた男は、仏頂面で新郎新婦を睨みつけている。一見すると何か恨みでもありそうな形相だが、本人は怒っている訳ではないらしい。
「それに、あんな昔話、聞いたことねえぜ。気になって少し調べたりもしたが、どこにも書いてありゃしねえ」
 一体、どんな文献に書いてあったんだと聞く男に、泉は意味ありげに笑って見せた。
「ええ……あれは、私が考えた昔話……ですから」
「ホラ話ってことかい? よくまあ、いけしゃあしゃあと」
「ですが……ね……?」
 泉の言葉を遮るように、大社の瓦に留まっていたカラスが一羽。大空へ飛び立った。
「ですが……歴史にも、文献にも残らない恋があっても良いじゃないですか……理想的な幸せに囚われて、動けなくなる若者が雑誌や教科書に載るより……あったかもしれない法螺話の方が、余程ロマンチックだと思いません?」
「さあな。俺にゃあ、ロマンなんざ分からねえさ」
「でしょうねぇ。ふふ……」
 泉は丸眼鏡を少し外して新郎新婦をもう一度見た後、満足したかのように踵を返した。日傘持ちの男が、素直にその後をついて歩く。
 ふたりは再びあの櫛屋に戻るのだろう。新たな『お客様』を、お迎えするために――

【完】

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