『泉御櫛怪奇譚』第八話
第八話『櫛と彼女のエトセトラ』
原案:解通易堂
著:紫煙
~これは、今まで『解通易堂』と縁を結んできた人々のアフターストーリー~
各話バレンタインに因んだ小話ですが、 もし物語の登場人物らが過去に遭遇した『櫛の怪奇譚』にご興味ある方は、下記リンクよりご覧ください。
【片想いチョコ編】『約束の櫛 恋の行方』(四話)→https://note.com/totoyasudou/n/ne50960ab0a4b
【友チョコ編】『禍世の目 現世の櫛』 (六話)→https://note.com/totoyasudou/n/n7570d78ac5db
【家族チョコ編】『拝み虫の鎌 恩送りの櫛』(五話)→https://note.com/totoyasudou/n/n9657565b42bf
――乙女が想い悩む姿がいつの世も蜜より甘く可憐な花の様に見えるのは……『物語』 と言う世界の七不思議でございます。
本日は、様々な『想い』を馳せた乙女たちの、少しだけ特別な日常の物語……。
【片想いチョコ編】
◆
住宅街のそこかしこで、甘い香りが漂っている。
真由の家も例外ではなく、今日は朝から台所全体がチョコレートの香りで埋め尽くされ、まるでデパ地下のお菓子売り場のような雰囲気を漂わせているが、しかし、あらかじめ、雰囲気だけだという事実に念を押しておく。
「ああ、柚子! ボールまだ洗わないで。水気取るの大変だから」
「うあぁ、ごめん……」
真由に止められた柚子は、蛇口にかざしていた手をキッチンペーパーに移動させ、次のチョコを入れる容器を作ろうと汚れをとり始めた。真由は何度も読んだチョコレートのレシピを睨みつけながら、本日5回目の生クリームを泡立て始めている。まな板とその周辺は銀紙やキットが入っていた箱、水が入って凝固してしまったチョコ等が散在している。
ぎこちない風景を見るに、どうやら二人は『調理』の経験があまり無いようだ。
「真由……やっぱ、私に相談するの、間違いだったんじゃないかな……」
柚子がぼやきながら、台所の向こうに見えるリビングに視線を移す。白とピンクがメインの家具、窓際に飾られたミニチュア動物人形。シンプルな家具が基調で参考書が多い柚子の家とは正反対だ。
肩を落とす柚子に、真由はきっぱりと断言した。
「そんなことない! 柚子は私より頭も手際も良いし、このレシピだって、柚子が探してくれたじゃん! 柚子が適任だよ」
「ん~……レシピは買ったチョコレートのQRコード読み込んだだけだよ? 実際……その……こ、恋の悩みとか、そういうの、全然答えられないんだし……」
申し訳なさそうに台所を片付け始める柚子を横目で確認した真由は、スマホを見てはにかむ柚子や、教室で思い出したように木製の櫛 を取り出して髪を梳かす柚子の姿を思い出し、素直に感想を投げる。
「それに、柚子最近可愛くなったよね。元から小さくて可愛いんだけど」
「かわっ!? そんなこと、ない。絶対に、ない……」
柚子の声が尻すぼみになり、ポニーテールが恥ずかしそうに揺れる。真由は珍しくもじもじしている柚子にきゅんとしながら、ハッとして手元の作業に集中する。
「……真由はさ、その……由沢のどこが好きなの……? 隣の席だから?」
作業スペースを一通り綺麗にした柚子が、最後のチョコレートを手で割りながら聞いてくる。真由は初めて作業していた手を止め、褐色気味な肌を艶やかに赤らめた。
「……隣の席で、安心するって思ったから……」
真由と柚子、そして、渦中の人である『由沢 諒』は学校の同じクラスである。真由曰く、部活の影響と大柄な性格で誤解されてしまう彼女が、諒には素の自分を出すことが出来るとのことらしい。
「ほら、私さ、ごついしバスケやってるし、男子から『ゴリラ女~』なんて言われているけど……由沢君は、私が少女漫画読んでいても、可愛いハンカチ持っていても、そう言うの、気にしないでくれるんだよね」
「……そう、なんだ……」
自分にも心当たりがあるのか、柚子の頬も真っ赤になっていく。二人は恥ずかしそうに作業を進めて、ありったけの想いをオーブンに託した。
「柚子は、自分で作ったチョコ誰にあげるの? 家族?」
「えっと……お父さん、と……」
「『と』!? 柚子も好きな人にあげるの?」
「違う違う! そういうのじゃなくて……でも義理でもなくて……」
「じゃあ、何チョコ?」
「……感謝チョコ……?」
歯切れ悪く言葉をひねり出した柚子に、真由は堪らずクハッと笑った。
「なんか怪しいなぁ~……でも……うん。お互い、ちゃんと渡せると良いね」
「……うん」
甘い香りはまだまだ続く。果たして、真由は無事に5回目のチョコ作りを成功することが出来たのだろうか。
◆
翌日、スマホを見ながら 、神社の周りをウロウロしているのは、柚子だった。
学校からの帰りらしく、制服の肩が見えなくなるほどのモコモコのマフラーと耳当てを付けている。
(多分、ここら辺の近くだと思うんだけど……うう……ピンボケした写真だけじゃ、どこだか分からないよ……)
冷たい手に息をかけて温めていると、黒猫がひょっこり現れる。その黒猫は、前足の片方だけが白い毛で、柚子にとって見覚えのある猫だった。
「あ! ミスタ‼」
柚子が思わず声を上げると、突然呼ばれたミスタが毛を逆立てて反応する。駆け寄ろうとした足に急ブレーキをかけて、ミスタが怖がらないようにしゃがんで視線を合わせると、
「あの……えっと、ミスタだよね? 久しぶり。私のこと、覚えてる?」
(確か、前に店員さんが、ミスタは『何軒もの櫛の店を歩いていて、嗅いだことのある櫛の匂いでメロメロになっちゃう』みたいなこと言ってたっけ)
ミスタが匂いだけで店を特定できるくらいの櫛好きということを思い出した柚子は、 持っていた櫛をそっと近づける。
ミスタは恐る恐る櫛に鼻を近づけて、ようやく緊張を解いた。
「この櫛は覚えてる? 良かった……あのね、また解通易堂に行きたいんだけど、道が分からないの。もう一回、案内してくれる?」
「……ぶなぁー」
ミスタは面倒くさそうに鳴いたが、柚子が彼の頭を撫でると「仕方にゃい」とでも言いたげに道案内をしてくれた。
(なんか、夏休みに戻ったみたい……あの時は、色んな人に声をかけられて……タクシーに乗って……)
思い出に浸りながら、ようやく解通易堂に着くと、入り口の前で泉が立っていた。
「あ、あの……お久しぶりです」
慌てて駆け寄り、挨拶をする柚子。 頭を下げようとするが、モコモコのマフラーで顔が埋もれ、顔を引っ込めただけになった。
「これは、これは……ご来店、ありがとうございます」
泉は丁寧にお辞儀をすると、柚子を店内に招き入れた。
柚子は、帳場の奥にある台所のような空間で、温かい紅茶を用意してもらう。
「ありがとうございます……今日は、ラムネじゃないんですね」
「……ご要望でしたら、お取り寄せ……しますが、ラムネの風習は……夏限定だと、お伺いしております……」
「ふふ、大丈夫です。言ってみただけなので」
柚子は笑うと、カップで手を温めながら見覚えのある景色をぐるりと見渡した。
「……えぇ~っと……あの……えっと」
(お、落ち着け。大丈夫、シミュレーション通りに……)
ぐるぐると視線を動かしながら、足元に置いてしまったスクールバッグの中身を気にしていると、泉がふわりと声をかけてきた。
「柚子様……その後、櫛の調子は……いかがですか?」
「へ……? あ、櫛! 櫛、とても良いです。この季節は髪がマフラーとかにくっついて毛玉になっちゃったりするんですけど、櫛を使ってからそういうの無くなって……後、この櫛の柄、ミスタですよね。後で気付いて……とても嬉しいです。ありがとうございます」
「そう、ですか……ご好評頂けて、私も嬉しいです……」
泉が紅茶に口を付ける。会話が切れたタイミングを見つけた柚子は、勢いよく鞄を引っ張り上げて、泉の横に移動した。
やや震えている手でチョコの入った包みを取り出し、泉に向かって用意してきた言葉と共に贈る。
「これ、バレンタインのチョコです! や、大和さんの分も……あの、この前の、感謝の気持ちだけなので! 今日は、それだけなので!」
「ほう……。お心遣い、ありがとうございます……もうじき和寿が戻って来るので、直接、お渡ししたら……」
「いえいえいえ! 明日も学校なので 、私はこれでっ!」
慌てて立ち去ろうとして、柚子は真下を向いて出入口迄駆け足になる。しかし、暖簾をくぐる前に、店内に入ろうとした誰かとぶつかってしまった。
「きゃっ!」
後ろに跳ね飛ばされそうな柚子を寸での所で抱き留めたのは、なんと和寿だった。
「ぅおっと……」
「わ! あわわわわ! や、大和、さん……」
「ん? ……なんでオレの名前を知ってる?」
柚子の顔が赤くなる。和寿は柚子のことを思い出すのに少し時間がかかったようで、険しい顔で柚子を睨みつけている。
「以前、貴方に……送迎をお頼みした、お客様です……」
「……おお。あの時の! 柚子……さん?」
「は、はい‼ 柚子です」
名前を呼ばれただけで、ちらりと見える首まで赤くなる柚子を見て、おやおやと口元を隠す泉。
「これ! これ、あのっ……はい!」
「お!? おう……?」
一人だけ何も分からない和寿に向かって、柚子は慌てて袋ごとチョコを押し付けて帰ってしまった。
全力疾走で何度も道の角を曲がって、ようやく足が止まる。早鐘を打ち続ける心臓を服の上から押さえて、恥ずかしさが最高潮に達している。
(どうしよう……どうしよう! 何も言わないでチョコだけ押し付けて来ちゃった‼ うぅ~私らしくない……しかも、お父さんの分まで押し付けちゃった……絶対多いって思われる……うぅ~!)
一方、結構な数のチョコを袋ごと受け取ってしまった和寿は、いよいよ訳が分からないといった様子で泉を睨みつけていた。
「旦那ァ……これあどういう……?」
「ふふふ……ささやかな『感謝』の気持ち……だそうですよ?」
「それにしちゃあ、多くないか?」
首を傾げる和寿だが、泉が珍しく紅茶を淹れてくれたので、勿体無いからと渡されたチョコレートを口に頬張った。
「うん……うめぇ」
「おや、意外……ですね? 甘いのは、お好きなの……ですか?」
「ん? おお……」
好物を頬張る和寿を見て、泉はとても楽しそうに、紅茶のカップに口を付けた。
【友チョコ編】
◆
斑目葎には、少し変わったパートナーがいる。
「龍様、おはよう」
独り暮らし用のアパートに備え付けられた簡素な洗面台。立てかけられた鏡に向かって、龍の目が描かれた木製の櫛を傾けると、目はぎょろりと視界を巡らせて葎の方を見上げた。
この櫛が、正確には、櫛の中で蠢く龍の目が、葎のパートナーだ。『龍の目』と表記したのは、櫛には二つの威厳ある目と、片方だけ焼き付けられた髭があるだけなのだが、葎が説明を受けた際『魔除けの龍の目』と紹介されたからだ。
どうして櫛の柄が動いて見えるのか。という疑問に対しては、この物語では割愛するとして。
「うん。おはよう。あのね、龍様……今日は、バレンタインって日なんだけど……」
水色のインナーカラーが入った髪を梳かしながら、葎は気恥ずかしそうに喋り始める。龍の目、もとい、龍様は、片髭で『?』マークを作って意思表示をした。
「えっと……バレンタインって言うのはね……元は、家族とか、愛してる人を大切にする日らしいんだけど、この国では、好きな人に告白したり、友達に渡したりすることが多いんだけど……えっと……」
葎の頬が少しだけ赤らむ。短くなった前髪を櫛で伸ばす様に梳く仕草は彼女の癖で、龍様は、また葎が何か新しいことをしようという感情を受け取った。
「えっと……ニーナに、ね……友達になってくれたニーナに、私からチョコを贈りたいな……なんて、思って……」
龍様の髭がピンと伸びる。葎の前向きな感情が嬉しいのか、櫛そのものの力なのかは分からないが、瞬く間に梳かした髪が艶やかに煌めく。
「い……良いかな? 龍様が良いって思ってくれたら、私、頑張れそうな気がするの……」
龍様の髭が左右に揺れる。肯定的な雰囲気に、葎の表情がようやく和らいだ。
「良いよね、良いよね‼ あのね、チョコと一緒に櫛も送りたいんだけど……あの、なんて言ったっけ……龍様と出会ったお店で買いたいんだけど…名前忘れちゃって」
顎に指を当てて考え込んでしまう葎に、龍様は必死で髭を振る。一本しかない髭をなんとか駆使して『ト』や『と』の字を作ろうとしているが、タイミングが合わずに見て貰えない。
「……まあ、櫛だったら雑貨屋さんにも売ってるよね……どこで買うか、よりも、何を贈るかを重視したいし……よし! 頑張ろう!」
葎は嬉しそうに櫛を握りしめて、顔を上げて専門学校へ行く準備を始めた。
◆
バレンタイン当日、葎がチョコの入った紙袋を持って学校へ行くと、既にはち切れそうな人の塊が見えた。そこには葎にしか見えない、黒くてドロドロの『何か』 も湧きだしていて、葎の顔が一瞬曇る。
『何か』とは、妖怪や怨霊、怪異の類とされている。確証は無いが、葎がある人から教えて貰った情報である。
(ううぅ……まだ『何か』には慣れないな……龍様のお陰で、私には全く寄り付かなくなったけど……気持ち悪い見た目なのは変わらないんだよね……)
なるべく『何か』と視線を合わせないように、下を向いて忍び足でロッカーに向かう。すると、塊の中から知っている声が聞こえた。
「あ! りっちゃん! オハオハ~」
「っ!?」
反射的に顔を上げてしまった葎の目に飛び込んできたのは、夥しい数の『何か』がこびり付いたニーナだった。
「あ……か、川田さ……」
「あれ~? 今日のりっちゃん前髪で顔隠れてるヨ? せっかくニーナとお揃にしたのにぃ~」
ニーナはそう言って近づくと、余りにも自然な動作で葎の髪に触れた。指にへばり付いていた『何か』が津の髪にもくっ付いて、思わず硬直してしまう。
「ほら、ここで分け目作ってって、言ったじゃん」
つい。と開けた視界に、ニーナの顔半分を覆う『何か』と目が合った。葎にとって、これが現界だった。
「きゃぁ! ごめんなさい‼」
葎は咄嗟に身体ごと避けて、ニーナから走って逃げた。ニーナは不思議そうに顔を曇らせているのだが、『何か』のせいで葎には分からない。
◆
学校のお昼休み。葎が非常階段下の狭い空間で美味しくなさそうにお昼を食べていると、ポケットの中で何かが動くのを感じた。もそもそと手を突っ込んで櫛を取り出すと、怒ったような龍様と目が合う。
「……でもさ、龍様……私、やっぱりまだ怖いよ……」
弱音を吐く葎に、龍様は片方しかない髭をブンブン振って抗議している。
「うん……分かってる。龍様のお陰で、怖いのは大分減ったけど……でも、ニーナがドロドロなのは見てて辛いと言うか……生理的に嫌だなって……」
「ナニがイヤなの?」
「‼」
突然空から降ってきた声に反応すると、太陽を背負ったニーナがいた。
「ひょあ!? かかかっ川田さん……なんで……?」
非常階段の上から身を乗り出しているニーナに、葎は爆走している心臓を力いっぱい抑えて見上げる。
「あぶなっ‼ ……とっ……た‼」
葎が放り投げてしまった櫛は、ニーナが慌てて空中でキャッチした。
「ヤバーーー‼ 凄いすごいスゴイ見た今の!? ショート動画にしたら絶対バズってたヨ!? 見たみた? りっちゃん!」
「へぁ……ありがとう……」
ニーナの手に握られた龍様と目が合う。龍様も驚いていたようで、髭があらぬ方向で絡まっている。
ニーナは軽やかなステップで階段を駆け下りると、まだ目を白黒させている葎の手を引っ張って櫛を渡した。
「ハイ! コレはりっちゃんのお守りだもんねぇ~」
「ん……うん、うん。ありがと」
「それで、ナニ一人で喋ってたノ? こんな狭い所でさサ?」
「それは、えっと……!」
そこまで話して、葎はハッと目を見開いた。
ニーナの周りに『何か』が一体も憑いていない。常に人の輪の中心にいる彼女は、葎の視界にはとても悍ましい『何か』の集合体に見える。しかし、今のニーナは櫛の残り香が厄除けになって『何か』を寄せ付けない身体になっているようだ。
ニーナは、蛍光ピンクと白に染めた髪をアニメのキャラクターの様に奇抜な形にワックスで固め、コスプレ衣装を改造した自作のワンピースを着ている。言葉だけでは誤解されそうな容姿であるが、なんと彼女は違和感なく、魅力的に着こなしているのだ。具現化された『可愛い』を目の当たりにした葎は、思わず生唾を飲み込んだ。
「か……川田さんって、本当に可愛いね……明るい色の髪も、カラフルなアイシャドウも……とても似合ってて……可愛い」
改めて感想が零れた葎に、ニーナは珍しく頬を赤くして、恥ずかしそうに手を振った。
「え⁉ ええ~~~~~‼ 何なにナニそれ~~~‼ りっちゃんに真正面から言われるのめっちゃ照れる~~~」
「えっ⁉ ごめ……」
「違うちがう。めっちゃ嬉しい‼ ニーナね、可愛く作った自分を褒められるの超好きなの‼ だからネ……」
アクセサリーまみれの両手を合わせて、しなやかに指を絡める。
「初めて……初めてりっちゃんがニーナのこと『可愛い』って言ってくれて、めちゃくちゃ、ホントーにハイパー嬉しい‼」
「……っ‼」
ニーナのまっさらな笑顔に、葎はボッと顔が熱くなった。櫛の中の目がぎょろりと動いて、片方の髭が懸命に鞄を指している。
「あっ‼ そうだ……あのねっ川田さん、あの……」
はじける様に思い出した葎は、慌てて鞄に手を突っ込んで、ラッピングされたチョコと小ぶりな櫛を取り出した。
「あのね、今日、バレンタインだから……あの……」
「ニーナに!? 用意してくれたの?」
ニーナは嬉しそうに手を伸ばして、しかし、受け取る前にはたりと動きが止まる。
「……? 川田さん?」
「……ねえねえ、りっちゃん。それ、誰にあげるチョコ?」
「え? だから、川田さ……」
「だーれ?」
手の代わりに顔を近付けて聞いてくるニーナに、意図をくみ取った葎の顔が更に赤くなった。
「えっと……」
「さっき、実は『私』のこと呼んでるの、聞いちゃったんだよね」
「‼ ……に、ニーナ……」
「そうそう! もう一回、ちゃんとニーナに手渡して」
ようやく両手を差し出したニーナに、葎は思い切ってチョコと櫛を押し付けた。
「ニーナ! 友チョコ……と、櫛……私から、です……‼」
「やったー! あ、ニーナもチョコ用意してあるんだ。一緒に食べよっ」
非常階段の下に甘い香りが広がる。葎は美味しそうにチョコを食べながら、ニーナと櫛の話に花を咲かせた。
【家族チョコ編】
◆
小さなアパートから、赤ちゃんの泣き声が響く。矢吹と書かれた表札をくぐると、なんとも愛らしい乳児が、ゆりかご式のベッドで何かを主張していた。
「は~い。ひめちゃん、姫芽ちゃーん! お母さん行くからねー、待ってね~!」
車椅子に座り、首を固定した姫奈が、ゆっくりと姫芽に近づく。指先のレバーだけで器用に障害物を避ける様子を見るに、彼女自身不便さは無いようだ。
「あ~! げんきなうんちの臭い~! ちょっと待っててね」
泣き叫ぶ我が子の隣まで移動した姫奈は、手首をクルクルと回して自由に動くことを確認すると、ベッドの格子をゆっくりと下ろして姫芽との壁を取り除く。姫芽の下に敷いてある毛布ごと引っ張り、手際よくオムツを取り換える。首が固定されている為、少し歪な形になってしまったが、姫奈は満足そうに姫芽を見つめた。
「よし! 今日は溢さないで取り換え出来た! どこも汚れてない!」
泣き止んだ姫芽と取り換えたばかりのオムツを写真に撮って、母親のチャットアプリに送る。すると、直ぐに感想とダメ出しの返信が更新された。
「ふふっ……『もう少しテープをしっかり止めないと、次は失敗する』だってさ。う~ん……姫芽ちゃん! ママもっと頑張るね!」
辛口のコメントは半分だけ受け取って、ゆっくりと姫芽を抱き上げる。まだ首が座っていない為、支えている腕が緊張で震えた。
「ふわー‼ 姫ちゃんまた重くなったねー‼ 嬉しいけど、このスピードじゃあママ直ぐに抱っこ出来なくなっちゃうよ~」
姫芽のフワフワのほっぺが、もにょもにょと動いている。姫奈は我が子の額に優しくキスをして、大事そうにベッドに戻した。
「ふぅ……もっと抱っこしてあげたいのにな……」
少し痙攣している手首をさすりながら、ベッドの格子を戻して我が子を見つめていると、唐突にインターホンが鳴った。
「あ……はーい!」
姫奈はもう一度格子が固定されていることを確認して、軽やかに車椅子を移動させた。しかし、玄関からそう遠くない距離でも、姫奈にとっては中々の道のりだ。
玄関前まで移動した姫奈は、ふと、普段は何度も音が鳴る玄関だが、今日は一回押されたきりでその後の反応が何もないことに気付いた。
(……もしかして、帰っちゃったのかな? 不在票入ってないと良いんだけど……!)
心なしか焦りを覚えながら、玄関に備え付けられたリモコンでオートロックを開ける。
「はい! あの、鍵開けたので、開けて大丈夫でーす! あのー……」
姫奈が車椅子である状況を説明するより先に、躊躇いなくドアが開いた。
「……ヤマネコ運輸です……」
「あ……はい……」
(ひゃあ……駿人君より大きい人だぁ~‼)
姫奈は思わず口を開けながら配達員を見上げてしまった。三白眼がジロリと睨みつけてきたが、彼女は珍しい動物を見るような目で見上げ続ける。
「……あの、矢吹様……のお宅で、お間違いないですか?」
「あ……‼ はいっ! そうです! ピンポン一回しか鳴ってなかったので、てっきりもう帰っちゃったと思って……」
「? ……いえ、玄関に『赤ちゃんいます』と『車椅子です』のシールが貼ってあったので……」
配達員は居心地が悪そうに小箱の宛名を確認して、姫奈の目線に合わせて両膝を床に付けた。彼の外見では想像も出来ない、と言ったら失礼だが、余りにも繊細で丁寧な接客に、姫奈は目を丸くした。
(え? あのシール見ただけで、ピンポン一回しか押さなかったの? ほぇ~……気にしてくれる人も居るもんだな~)
配達員は、まだ大きな背中を丸めて、姫奈に受領証を求める。そのシルエットに既視感があった姫奈は、連想ゲームのように想像を膨らませる。
(なんだろう……あ! 駿人君と動物園で見た、トラとかライオンがご飯食べる時に似てる! うんうん、特に、ライオンさんが寒そうに縮こまってご飯食べてる時が、こんな感じだった気がする!)
走馬灯のように駆け巡る思い出に、姫奈の表情がふにゃふにゃに和らぐ。配達員がギョッとした目で見つめてきたが、それ以上何かを言うこともなく、受け渡しのやり取りはスムーズに終わった。
「……では、ありがとうございました……」
「はーい! ご苦労様です~」
玄関を丁寧に閉めてくれた配達員にずっと手を振り続け、ようやく届けられた箱に視線を移す。
「……あれ? こんなの頼んだっけ……?」
姫芽のいるリビングに戻り、姫奈は文房具立てにあったカッターを手に取って、箱を雑に開けた。
中に入っていた木製の櫛を見て、パッと記憶が蘇る。
「そうだ! あの『なんとか堂』の通販だ、確かパソコンで……」
普段の配達は、パソコンのメールアドレスに『配達完了通知』が届く様になっている。しかし、姫奈がいくらメールボックスを更新しても、いつもの通知が更新されることはなかった。
(あれ……? どこのサイトで注文したんだっけ……あれれ?)
「……姫芽ちゃん、どうしよう……ママ、サイト分かんなくなっちゃった……」
◆
その日の夜、帰宅した駿人と夕食を囲みながら、姫奈は興奮気味に今日の出来事を話した。
「でねでね! そのライオンさんがね、凄い優しかったの! 赤ちゃんシール見ただけでピンポン一回だけ押して待ってくれたりとか、私を見て身体をちーっちゃくして接客してくれたりとか……」
「へぇ~。名前なんて人だったの?」
「それが……名札確認するの忘れちゃった……」
「ハハハ、姫奈らしい。確か、ああいうのは配達区域? が、あるはずだから、多分また会えるよ」
駿人はそう言うと、食べ終わった食器をまとめて台所に移動した。その隙を狙って、姫奈がこっそり車椅子を移動させる。
「姫芽ちゃーん、オムツチェックするよ~」
「さっきもチェックしたよ?」
「えへへ~。だって、気になるんだもん」
(よし! 駿人君にバレてない! 姫芽ちゃん、ママのプレゼントずっと隠していてくれてありがとー!)
姫芽が寝ている毛布の下に手を滑り込ませて、小包の中身だった物を取り出す。我が子の温もりが伝わって、姫奈は思わず笑みが零れた。
「はーやーとぉーくん!」
「ん? ちょっと待ってね、この皿片付けたらそっちに行くから」
「ん~ん。そっちに行かせてー」
コロコロと車輪が回る。レバーを起用に動かして、姫奈は大好きな人の元へ向かった。
「姫芽ちゃんパパ、お話があります!」
「その言い方恥ずかしいから止めてって……」
駿人が振り返った刹那、姫奈は固まった関節をいっぱいに伸ばして、彼の視界にプレゼントの櫛を見せた。
「ハッピーバレンタイン! お産の時のお礼もまだだったから、私からのプレゼントです!」
「バレ……ん? 櫛?」
駿人は姫奈の台詞と櫛が結びつかないようで、目を白黒させている。姫奈はしたり顔で笑うと、自分のポケットから、妊娠中に駿人から受け取ったカマキリ模様の櫛を取り出した。
櫛そのものは新品の木櫛だが、不思議なことに、カマキリの模様が毎日違って見えると夫婦の間で話題になっていた。
「むーふーふー。実はね、この櫛は神棚に置こうと思ってるんだ。だから、こっちの新しい櫛を、駿人君と、姫芽ちゃんと、家族みんなで使おうと思って!」
「うん? ……うん、良いと思うけど、そんなに腕伸ばしてたら疲れちゃうよ」
駿人はゆっくりと状況を把握しながら、さりげなく姫奈の腕を車椅子のひじ掛けに戻す。
車椅子を押してリビングに戻ると、姫芽が寝ているベッドの横で車輪が止まった。
改めて新しい櫛を見ると、そこには親子のカマキリが焼き付けられている。珍しい柄に駿人が驚いていると、姫奈が得意げに説明した。
「あのね、ネットで『櫛』と『カマキリ』で検索したら、この櫛がポンッて出てきたの。値段もお手頃だったし、うん。これ買おう! って、決めたの」
「うん……『でも、なんでもない日に贈るのは勿体ないから、一番近かったバレンタインのプレゼントにしよう』って?」
「そうそう! 流石は駿人君」
姫奈は嬉しそうに指をパラパラと動かして、もう一度、今度はゆっくりと手を伸ばして彼を求めた。
「高校生の時からチョコを贈ってるけど、櫛を贈ったのは初めてだね。男の人に櫛って、ヘンかな?」
伸ばされた手を優しく握り返して、駿人も照れたように笑う。片膝をついて視線を合わせると、二つの櫛を受け取った。
「……櫛を贈って貰ったのは生まれて初めてだよ。おれが男でも女でも、姫奈から贈られた物は何でも嬉しい。でも、姫奈は凄いね! 毎回おれの予想を超えてくるんだから」
「そうかな? そうかも! 男の人に櫛を贈るなんて、世界に私だけかも!」
「世界かぁー、姫奈のそういう所、おれ好きだよー……それにしても……」
子どもの様にはしゃぐ姫奈の頭を撫でながら、駿人はふと櫛に視線を移した。
「カマキリ模様の櫛なんて、良く見つけたね。あれからおれも調べたけど、こんな櫛どこにも無かったよ?」
「私もビックリ! あれから通販サイト探そうとしたんだけど、注文の後何回も検索しても見つからないの」
「それ本当? サイトの名前とか覚えてない? それか、中古屋のサイトとか……」
「ううん……名前はね、漢字は覚えてるんだ。理解の『解』に……」
姫奈は自分の手の平に『解通易堂』と文字を並べた。駿人もアイフォンの検索アプリでその文字を打ち込むが、一件も検索には引っかからない。
「どう読むのか分からなくて……よみがな検索も出来ないんだけど、櫛届いたから、良かった! って……」
「そう……そうだね……うん。今回は良かったけど、次からはちゃんとブックマークに入れといてね、せっかく素敵な商品を買わせてもらったんだから、高評価押さないと……」
「そーじゃん! 私すっかりグッドボタン押し忘れてた! うわー‼ 今度見つけたら絶対にリンク保存しとく!」
姫奈が大きな声で驚くと、ベッドにいた姫芽がカッと目を見開いた。猫の様に黒目を細めて、次の瞬間には盛大な泣き声が轟く。
「きゃあ! ごめんね姫芽ちゃん‼ びっくりしたねー‼」
「ひめ! 姫芽ちゃん、ごめんごめん。今抱っこするから、待って待って」
新米夫婦が慌てて我が子を覗き込む。握りしめられた櫛の中のカマキリが、やれやれと鎌を擦ったように見えたのは、泣いている姫芽だけだった。
【完】
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