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泉御櫛怪奇譚 第十九話

第十九話『夜桜ノ宴 悲憤ノ櫛』
原案:解通易堂
著:紫煙

――貴方は、大切な人を傷付けられたら、どの様な行動に出ますか?
救済、養護、援助……。方法は様々ですが、古い歴史の中には、大切な人の代わりに『制裁』を加える。といった選択を取る者が数多く居りました。
貴方は、如何ですか? 例えば、傷付けた相手を『制裁』しようと思う程、濃く、赤黒い花が芽生える程の感情を持った事があるでしょうか?
これは、現代では珍しい『仇討ち』を選んでしまった、哀れで悍ましい物語です……。


 今日は、公園の樹が撓る程の強風で、せっかく咲き始めた桜が無慈悲に散らされてしまう。そんな夜だった。
 遠彦は公園に植えられた桜の樹の下で、アルコール度数の高い酒缶を煽りながら、不機嫌丸出しの顔を赤く火照らせていた。
「畜生……なんでこうも上手くいかないんだ……」
 独り言を溢して、再び酒を煽る。彼は勤続3年目のサラリーマンだが、最近は調子が良くないようだ。今日も昼間に後輩から指摘されプライドを傷付けられた為、こうして夜の公園で自棄酒にふけっている。
(ああ……こういう時に人肌が恋しくなるんだよなぁ……冷たい酒じゃなくて、温かい恋人に抱きしめられながら癒されたい……)
 遠彦の悩みは、いつだって人並だ。ありきたりで細やかで、特別欲深い訳でもない。
 思い立って登録したマッチングアプリを開いてみたが、声をかけた女性からは全く反応が無い。メッセージに入って来るのは明らかにお金目的だと言わんばかりの文面や、一晩だけの楽しみを求めてくる様な、情の感じられないものばかり。
(はぁ……馬鹿な女は嫌いだ。年下の女もタイプじゃない。最近明るいニュースもないし……明日仕事行きたくねぇなぁ……)
 アイフォンの画面に映った、近所の女性行方不明事件の記事を流し見して画面を閉じた遠彦は、残りの酒を煽って桜の足元に空き缶を置いた。
 刹那、今夜一強い風が、遠彦の髪型が変わりそうな程強く吹き荒んだ。軽い空き缶は抵抗する術もなく飛ばされたが、酔いが回ってそのまましゃがみ込んだ遠彦は気にすることなく地面を撫でた。
(あ、寝そう……ダメだ。明日も会社だし、職質は避けたい……)
 遠くなる意識を必死に留めようと理性を働かせていると、頭の上の方で突然透き通った声がした。
「あの……缶、飛んできましたよ?」
「……はい?」
 反射的に顔をあげた遠彦は、半分しか開いてなかった目を全開にして『彼女』を見つめた。
「ふふ、ポイ捨てはダメですよ。そこのゴミ箱に入れますね」
 彼女は少しハスキーな声で華麗に笑うと、軽やかな足取りで公園の中に備え付けられた自動販売機の横に置かれた缶用のゴミ箱へ空き缶を捨てた。
「……綺麗だ……」
 独り身の遠彦が一目惚れするには、充分な時間だった。
「お花見ですか? 今日は風が強いので、あまりお勧めはしませんよ?」
 強風が耳元で騒いでいる筈なのに、不思議と彼女の声は澄んだ鈴の様に聞こえた。
(なんてオレ好みの女性なんだ!? 痩せてる訳じゃないけど、メリハリのある身体に、美人系の顔。髪は黒髪ロングで、桜の花びらが滅茶苦茶良く似合う……笑った顔、ちょっと幼くなって、可愛かったなぁ)
「いえ……アナタに会えたので、今日お花見が出来て良かったです」
「はい? 今、なんて……」
 自動販売機の方で耳を傾ける彼女に、遠彦の声は届かないらしい。遠彦は立ち上がって手招きすると、声を張って彼女を呼んだ。
「あの! 良かったらもう少し話しませんか?」
「ああ、良いですよ~。ちょっと待っててくださいね~」
 駆け寄ってくる彼女に、ときめきが止まらない。
「あ、夜なので、足元気を付けてくださいね」
(オレの為に走って来てくれるなんて、もしかしてツンツンな猫系じゃなくて、素直にデレてくれる犬系なのかな? ヤバい。どんどん可愛く見えるじゃないか!)
 遠彦は腐っていた数分前の自分をすっかり忘れて、彼女に夢中になっていた。
「オレは、おちひこです。『餌木 遠彦』って書いて遠彦……歳は28です」
「私は……マミです。下の名前で呼んでください。歳は……すみません、エギさんより年上なの」
「そんな! 謝らないでください。オレ、年上の人がタイプなので」
(出来れば、猫系彼女が好きだけど、大人びていて彼氏にだけ従順な犬系彼女もギャップがあって良いな……どうしたら、仲良くなれるかな? 出来たら彼女にしたい……!)
 浮かれっぱなしの遠彦は、マミの時間が許す限り喋り続けた。幸い、営業職のスキルが活かされている為、彼の話術はとても巧みで、マミは終始笑って楽しそうにしていた。
(おや? 次、告白したら付き合えそうな人だな……今のうちに連絡先聞いて、次も会えないか聞いてみよう)
 遠彦はマミと連絡先を交換すると、明日も会えないか強引に問いかけた。
「あの! オレ、じつは半年前に元カノと別れたばかりで……こんな風に酒浸りの毎日なんです。マミさんさえ嫌じゃなければ、酒の代わりに明日も話し相手になってくれませんか?」
「……私で良ければ是非。実は、最近大切な人を失ったばかりで……」
(よしよしよしよし! これは好感触だぞ! 彼女も人肌を恋しがっているから、声を掛けてくれたんだ)
 遠彦はさり気なく彼女の肩に手を置くと、同情した表情で彼女を見つめた。
「それは……オレで良かったら、話、聞かせてください。お互い、未練があったら吐き出して、楽になりましょ?」
「ふふ……ありがとうございます。それじゃあ、今日はこれで……」
 マミは艶やかな哀愁の表情を遠彦に向けると、消える様に公園を出て行った。遠彦が告白してから恋人になるまで、そう時間はかからなかった。
 それから数日後、テレビでは満開の桜が見頃だと報道を繰り返し、各地で観光客が賑わっていると映像が移り変わる。仕事中の遠彦は順調にノルマをこなして、鼻歌混じりに業務をこなしている。
「餌木先輩、最近調子良いッスよね。なんか良い事あったんスか?」
 少し気味が悪そうな顔をしながら後輩が問いかけると、遠彦は満更でもない顔で見下す様に後輩の方を振り向いた。
「実はさ、最近彼女が出来たんだ。今週末にデートなの」
「あ~。良いッスね。先輩、彼女居た方が仕事出来ッスもんね~」
 後輩は全く興味がない表情で会話だけ合わせると、面倒臭そうに業務に戻って行った。


 遠彦は次の休日までに今月の営業ノルマの半分以上を達成すると、当日、上機嫌な表情を隠さずにあの公園へ向かった。
 マミは待ち合わせをすると、必ず初めて出会った公園の、桜の樹の下で待ち合わせをしてくる。出会いの場を大切にされている気がして、遠彦は更にマミを好きになっていく。
 遠彦は花見に興じている大衆を気にせずマミの額に口付けをした。桜がザワザワと震え、花びらが祝福のライスシャワーの様に二人に降り注ぐ。花見を楽しんでいる周りの人の中には、遠彦の行動を見て直ぐに目を逸らしたり「なにアレ」と怪訝そうな表情を浮かべたりしている。
「お待たせマミ、今日はどこへ行く? 前はオレのお勧めの映画一緒に観てくれたから、今日はマミがデートコースを選んで良いよ」
 マミの頭に乗っている花びらを愛しそうに払い落としながら、恋人の距離で彼女の腰に腕を回す。じゃれつく遠彦を嫌がる訳でもなく、寧ろしな垂れる様に寄りかかって来るマミは、自分のスマホの画面でデートスポットをチェックしながら考えている。通り過ぎた男女が「何してるんだろう?」「酔っ払っているんじゃない?」とヒソヒソと話していたが、遠彦の耳には届かなかった。
「う~ん……映画はこの前行ったでしょ? 公園のお花見をするのも良いけど……う~ん」
「……ふふ」
(真剣に考えてくれるマミ、可愛い。マミと一緒ならどこでも良いんだけど『どこでも良いよ』って言ったら女の子が不機嫌になるよって、死んだ姉ちゃんが言ってたっけ……)
 ふと、幼かった姉とマミが重なって見えて、愛しさが更に膨らんでいく。抱きしめる腕に少しだけ力がこもると、マミは目的地が決まったのか、パッと晴れやかな表情で遠彦を見上げてきた。
「ねぇ、前から行きたかったお店があるんだけど、一緒に行ってくれる?」
「勿論!」
 遠彦はもう一度マミに口付けをすると、恋人繋ぎをして公園を後にした。ざわついていた桜の樹は、まるで何事も無かったみたいに桜並木の一部となって、他の見物客を迎えていた。
 マミは遠彦に場所を教えることなく、指を絡めた手を引いて歩いて行く。
「ねえ、何処へ行くの?」
「うん? お店。楽しみにしていて」
 悪戯っぽく笑うマミに、つられて遠彦もはにかんでしまう。
(まあ、彼女からのサプライズも良いな……何を買うんだろう? 服、化粧品、雑貨? 大学の頃の元カノはネイルが好きな人だったな……いやいや、今はマミがオレの彼女なんだ。彼女のサプライズ……へへ、楽しみにしよう)
 遠彦は深く疑問にすることなくマミについて行く。
 最寄り駅の改札を通り抜け、何本目かの駅を通り過ぎ、更に徒歩を続けていく。ようやく彼女が足を止めた先には、見た事のない風格の店が一軒だけ建っていた。
『解通易堂』とだけ書かれた看板だけでは、何を扱っている店なのか皆目見当がつかない。
「……ここ? 何の店? あの看板は……なんて読むの?」
「ふふ、入ったらびっくりするよ。ほら、行こう!」
 彼女は今までで一度も見せたことのない、楽しそうな表情で遠彦の腕を引っ張ると、躊躇いなく店の出入り口に足を踏み入れた。


 ツンとハッカの臭いがして、遠彦の視界が異国の景色で埋め尽くされる。アジア系ともインド系とも受け取れる店の装飾、外観は閑散としたコンクリートのビルに見えたが、内装は木製の飾り柱で構成されている。
 そして、店内には遠彦が見た事のない数の櫛が出品されていて、櫛の専門店であることは一目瞭然だった。
「ふ~ん。珍しい店だね」
「でしょう? 櫛の店『解通易堂』って言うの」
「と、と、やす、どう……?」
 マミが口にした店の名前をオウム返しにして、店内をぐるりと見渡すと、店内の隅に、店員らしき大男がしゃがんでいるのが見えた。
「……?」
 男は不思議そうな顔で遠彦たちを見ているが、特に声を掛けてくる訳でもなく櫛の品出しを続けている。
(こいつ、店員のクセに、客に一言も無しかよ。不愛想だな)
「……どうも」
 遠彦は威圧感を込めて男に声をかけると、マミが男の目に入らない様に背中を向けて店の奥へ進む。
「ねえマミ……マミって木製の櫛を使うの? 珍しいね……」
「うん。電気屋さんに売ってる美容ブラシも良いんだけど、髪が長いと、どうしても毛玉が出来ちゃうんだ。ここの櫛は梳かす度に毛玉が取れて、朝のセットが楽なの」
「そうなんだ、だからこんなに髪が綺麗なんだね」
 遠彦はマミの頭に顔を擦りつけて、サラサラな髪の感触を楽しむ。マミは擽ったそうに笑うと「お店だから、ね?」と、優しく距離を取った。
「すみませーん。予約していたモノですー」
 マミが帳場の奥に向かって声を掛けると、音も無く長身の人間が姿を現した。店長だと思われるその姿は、中華系の歴史ドラマに出てくるような民族衣装を身に纏い、今時あまり見る事が無くなった丸眼鏡をかけている。遠彦好みの美麗な顔には微笑みを宿していて、男性なのか女性なのか、一瞬見ただけでは判断が出来ない。
「いらっしゃいませ、ようこそ……解通易堂へ。ご来店、誠に……ありがとう、ございます……」
 遠彦よりもやや高い声音だが、確かに男性だと確信出来た店長に、更に遠彦の表情が不機嫌になっていく。
「なんだ、男か……」
(こう言う女性物の店って、普通女性店員が多いはずだろう? なんで店内には男しか居ないんだ……マミは、この店に一人で来たことがあるのか?)
 じわりと嫉妬心が広がる遠彦に、マミは安心させるように腕を絡めて、彼の代わりに店長に問いかける。
「あのー、予約していた『あの櫛』は用意出来ますか?」
「はい。少々、お待ちください……」
 店長は優雅にお辞儀をして、再び帳場の奥に姿を消す。遠彦は不貞腐れた様に口を尖らせて、マミに追及した。
「マミー。もしかして、イケメン狙いでこの店の常連だったり、しない?」
「えー? そんなことないよ。だってイ……あの店長さん、イケメンって言うより美人過ぎない? 男の人だけど、なんか嫉妬しちゃう」
 マミは、店長と自分の容姿を比べて残念そうに溜息を吐く。すると、遠彦の表情は安心した様な笑顔に変わった。
「ふふ、マミの方が美人で可愛いよ」
「本当? 嬉しい!」
 照れているのか、マミは少しだけ頬を赤く染めて笑った。二人がイチャイチャしていると、店長が帳場の奥から一枚の櫛を持って戻ってきた。
「大変、お待たせいたしました……」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
 初対面の時と打って変わって、愛想よく受け答えする遠彦を不思議に思う訳でもなく、店長は持っていた櫛を二人に見せた。櫛は、店長の片手に収まる程度の小さくて薄い櫛で、持ち手の部分には遠彦とマミが出会った、あの桜の樹の花が彫り込まれている。
 その櫛を遠彦の方に向けて差し出されたことに、遠彦は小さな違和感を覚える。
(あれ? オレが受け取るのか? これはマミの買い物で、マミが予約したんじゃ……?)
 遠彦が店長に言おうとする前に、マミが彼の耳元で、甘く囁いた。
「あのね、この櫛は私とお揃いの櫛なの……櫛にもペアルックがあるって知ってる?」
「ペアルック……?」
 マミの言葉に、遠彦の表情がだらしなくにやける。
(ペアルックか……そう言えば、少し前に流行ってたよな。服とか、キーホルダーとか……)
「うん。良いね……指輪より特別感があって、良い」
「本当? 嬉しい。もうお金払っちゃった後だから、受け取って貰えないかドキドキしてたの」
「オレも嬉しい。喜んで受け取るよ」
 幸せそうに笑うマミに向かって微笑み返すと、遠彦は店長から桜模様の小さな櫛を受け取って上着の胸ポケットに大切に仕舞った。
「それでは、良い……休日を」
「はい、ありがとうございました」
 頭を下げる店長に、マミも丁寧に一礼をする。そんな礼儀正しい彼女を誇らしく思いながら、遠彦は解通易堂を後にした。
「なぁ、旦那……」
 不意に、後ろで店員の大男らしい低い声が聞こえた気がしたが、遠彦は気にすることなく、その後もマミとのデートを楽しんだ。
 その日の夜、遠彦とマミはいつもの公園に戻って来ると、熱い口づけを交わして別れを惜しんだ。夜空の方は風が強いみたいで、桜の樹々がやかましく枝を撓らせている。
(うるさいな……今良い所なんだよ。木の分際で嫉むんじゃねえ)
 遠彦は落ち着かない樹を見上げて悪態を吐くと、もう一度優しくマミを抱きしめて、艶やかな髪に顔を埋めた。
「マミ、今日は素敵な贈り物をありがとう。今度はいつ会える?」
「ふふ……会いたくなったら、気軽にメッセして。私たちはいつでも一緒だよ」
 マミも嬉しそうに遠彦の胸に頬を擦り付け、櫛が入った胸ポケットの方に軽いキスを送った。有頂天になった遠彦だったが、時計が終電の時刻を知らせている事に気付いて慌てて公園を出て行った。
「それじゃあ、また連絡するよ。お休み!」
 何度も手を振ってマミの方を振り返りながら走り去る遠彦を優しい笑みで見送ると、マミは一瞬で無表情になって、ゆっくりと荒んだ桜を見上げた。
【……私が居なくなっても、私の……我の感情に影響されるものなのだな……】
 マミの言葉に共鳴する様に桜の樹は騒がしく枝を撓らせ、まるで今直ぐ根っこから飛び出して襲い掛かろうとしている様に見える。
【まあ待て……貴奴が『本物』かどうかは、今夜分かる。我が直にこの『目』で見てくるからな……】
 マミは桜の樹を優しく撫でて宥めると、その場でふっと姿を消した。


 急いで帰宅した遠彦は、玄関で足がもつれながらもなんとかワンルームの自分の部屋に転がり込んだ。爆音で高鳴る心臓の原因は、全速力で走ってきただけではない。
「ハァハァ……ああっ! こんなにも早く手に入るなんてっ……オレはなんて運が良いんだ‼」
 胸ポケットからビニール袋に入った櫛を取り出すと、彫り込まれた桜を穴が開く程見つめた。ビニールが曇る程息が荒く、口の中は唾液でいっぱいになっている。
「ああっ……マミぃ。大好きだよマミぃ……」
 生唾を飲み込んでなんとか落ち着こうとするが、遠彦の興奮は中々冷めず、上着を脱ぎ棄てて『ある場所』まで這いずりながら向かった。
「ああぁ……可愛い。可愛いよぉ……ほら『姉さん』も見てよ……誰よりも可愛い彼女だと思わないか?」
 その『ある場所』は、一見すると三十路を迎える成人男性の部屋にあるにはとても不自然な空間だった。
親指サイズの動物系ドールハウスの家、そこに変色した4体のドールが、家族を模して飾られている。この一家の庭にあたる空間には、女子高生が使うリボンや、カラフルなネイル瓶などが飾られている。遠彦は一番新しいヒビ割れた櫛の隣に今日受け取った櫛を飾ると、満足げに何度も頷いた。
「うんうん……うんうんうんうん……イイ、イイねマミ、可愛い。可愛いよ」
(今度はいつ会おうかな……平日も会いたいな……仕事を頑張って終わらせたら、夕飯くらいなら誘えるかな……?)
 遠彦は震える手で飾った櫛を撫でると、隣の割れた櫛に指が当たり、ことりと音を立てて倒れる。
「ああ、ああぁ……真奈美ちゃん。ごめんね、大好きだよ、真奈美ちゃんも大好き……」
(結局、朝倉さんとはあんまりお話出来なかったんだよな……やっとの思いで声を掛けたのに、いきなり叫ばれた時は焦ったな)
 遠彦は丁寧にヒビ割れた櫛を元に戻すと、順を追って並べられた物を撫で始める。
「ふふ……指輪は新卒で入社したオレを指導してくれた先輩。優しいイイ人。好き。なんでオレ以外と結婚してたんだろう? 線路に突き落とした時は絶頂したなぁ」
(オレの感情は受け取れないって丁寧に断られたけど、理由が結婚して、更に妊娠もしてたなんて思わなかった……助けるフリしてこの結婚指輪を手に入れられたのはラッキーだった)
 狂っている。餌木 遠彦は、明らかに思考と言動が狂っている。
「ああ! 違うよ、これは浮気じゃないよ。だって、キミはもうオレと一つになっているじゃないか、へへ……へへ、へへ」
 女性物の手鏡で自分自身を映しながら、遠彦は不気味に笑って見せる。
(彼女だけだったな。オレの『祭壇』を見付けたのは。勝手にクローゼットを開けるなんて思わないじゃないか。そりゃあ、浮気したオレが悪いんだけどさ)
 遠彦は手鏡を元に戻すと、ネイル瓶と同時に撫でながら、いやらしく笑いかけた。
「へへへ……ここにいれば、みんな仲良しだよね……ねえ? 姉さん……?」
 ぐるりと視線を移動させて、一家団欒の象徴として並べられている動物モチーフのドールから、女の子らしいワンピースを着せたドールを摘まみ上げた。そのまま床に寝転がって人形に頬ずりをすると、猫なで声で話しかけ始める。
「姉さん、イイよね? マミもみんなと一緒になってイイよね? オレ、マミだったら一生一緒に居られそうな気がするんだ。本当は朝倉さんと一緒になれれば満足だと思ったんだけど、マミに出会ってから、彼女が運命の人だって気付いたんだ……ねえ、姉さん……姉さんんんンン……」
 変色したドールにしゃぶりつきながら、遠彦は至って真面目に、冷静に考え始めた。
「んぅ~……次はどうやって『一つ』になろうか……」
(さて……朝倉さんは突然過ぎてしくじった。今でも警察が動いて行方不明のままだけど、まあ見つかってもオレまで嗅ぎ付けられる事は無い、と、思う……マミは他の人みたいに事故か自殺にしないと……そうだ、姉さんみたいに、誤飲で窒息事故に見せかけようか……?)
 ゴロゴロと寝返りを打ちながら遠彦が思考を巡らせていると、仕舞い忘れた季節外れのマフラーが目に留まった。咥えていたドールを離してマフラーを掴み取ると、新しいゲームを思いついた子どもの様な無邪気な笑顔で呟いた。
「そうだ……そうだ! 最近風が強くて冷たいから、マフラーを持って行ってあげよう!」
(即効性の睡眠導入剤で眠らせて、首に跡が残らない様に絞め殺そう。マミはどこからどう見ても美しい、完璧な女性だ! ああ、でも……首を締めている途中で起きちゃったら、どんな風に顔が歪むんだろう? ああ……考えているだけで)
「……楽しみだぁ」
 遠彦は恍惚とした顔でマフラーを鞄に仕舞うと、涎まみれのドールを『祭壇』に戻した。そして、再びマミの櫛を手に取って口付けすると、ふと違和感を覚えた。
(あれ? この桜……良く見ると、なんか……鬼? 角度を変えると、歪んだ鬼に見える?)
「……まぁ、いっか」
 遠彦は何も無かった様に素面に戻ると、祭壇をダミーカーテンで隠して寝る仕度を始めた。
勿論、マミ宛てに『おやすみ』のメッセージを欠かさず打ち込み、彼女の返事を待ってからベッドに横になった。


 マミとの次のデートは、平日の夜、ホテルでディナーに決まった。ホテル前で待ち合わせにしようと遠彦は提案したが、マミは相変わらず『公園の、桜の樹の下で待ち合わせましょう』と、そこだけは譲らなかった。
 既に彼女と『一つ』になる事を目的としていた遠彦は、睡眠薬の液体が入ったミニボトルをハンカチに包んで隠す様に仕舞い込み、季節外れのマフラーは、出退勤時に首に巻いて行くことにした。社内では直ぐにマフラーを外して隠す為、必要以上に注目を浴びることも無かった。
 デートまでの数日は、遠彦にとって幸せな時間だった。遠足の前日、文化祭前の準備期間、彼にはそんな楽しいひと時だったのだ。
 そして当日、いざ定時退社しようと準備をしていると、バツが悪そうに後輩が声を掛けてきた。
「あの~先輩、今、先輩の取引先から電話来てるんスけど、繋いでいッスか?」
「はぁ、今? オレ、後5分で定時なんだけど……」
「いや、多分確認だけっぽいんス。俺、この取引先のことノータッチなんで、おなしゃス」
「……はぁ」
(チッ。なんでよりによって今日なんだよ……早くマミに会いたいのに)
 遠彦は大きな溜息を吐くと確認だけと言う後輩の言葉を信じてデスクの外線を繋いでもらった。
「はい。餌木です、お世話になっております。はい……はい……。はい?」
 資料のファイルを取り出しながら、電話向こうの内容に不穏な雰囲気を察して、こっそりと個人用のアイフォンを取り出す。
(『マミ、ごめん。仕事でちょっと遅くなりそう』っと……)
 遠彦はマミの返信を待つ暇もなく、本当に『資料を一から確認するだけ』の対応に、約1時間以上も残業してしまった。
(なんで、なんでなんでなんで!? 打ち合わせで散々説明しただろ? 確かに今日中に確認しないと向こうは契約取り消し出来ない案件だけど、だけども! それだってオレ説明したよな!?)
 ワクワクしていた遠彦の感情はイライラに変わり、叩き付けたくなる受話器を辛うじて残っていた理性でそっと置いて通話を切ると、荒々しくまとめてあった荷物を持ち上げて誰も居ない会社を飛び出した。
「マミ……マミ、会いたい。待ってて、マミ……!」
 遠彦は直ぐにアイフォンを取り出して、マミに着信を送る。普段は何回目で出るか楽しい時間の筈のコール音が、今は凄くもどかしい。
『……もしもし?』
「マミ!? 本当にごめん。今、仕事が終わった所で……」
(ああ、マミの声、少しハスキーなマミの声だ、安心する)
 慌ただしくタクシーを拾って、ホテルの場所を指定する。
「今、予約したレストランに向かっているから、マミもそこに向かって」
『ううん。いつもの公園で待ってる。桜の樹の下にいるから、そこに来て』
「ええぇ……分かった」
(まあいっか。この時間だったら最悪人が居ないし、上手く誘えば『一つ』になれるかも……)
 遠彦は妥協して通話を切ると、発進してしまったタクシーの運転手に目的地を変更してもらい、急いで公園へと向かった。


 タクシーが公園に向かった時、既にレストランの予約時間には間に合わない可能性の方が高い状態だった。しかし、遠彦はデートを諦めておらず、タクシーを公園前に待たせて、マミが待っている桜の樹へ真っ直ぐ向かう。
「わっ!? あれ……?」
 毎日の様に通っては見上げていた桜の樹が、今夜はなんだか散り際の花が悍ましく見えた気がして、本能的に足が止まる。
「あら! お仕事お疲れ~」
 その恐ろしい桜の下で、マミはなんでもない顔で手を振って待っている。その美しく整った顔が可愛らしく微笑むのを見て、遠彦の不安が一気に解消される。
「ああ、マミ……ごめん、お待たせ」
「ううん、大丈夫? 大変だったね」
 遠彦の疲れた表情を労わってくれるマミを思わず抱きしめて、美しい髪に頬ずりをする。
「大丈夫、マミに会えたから元気出たよ。さ、レストラン、まだ間に合うと思うから直ぐに行こう」
 マミの手を引いてタクシーに向かおうとすると、突然、マミの身体が太い樹木の様に動かなくなってしまい、遠彦が後ろにバランスを崩してよろけた。
「ん? え⁉ マミ……?」
「ううん、もう、良いの……もう『終わった』から……」
 遠彦は振り返った先に立っているマミを見て、自分の目を疑った。マミの髪が風もなく宙を漂い、露わになった肩が怪しく蠢いている。
「ま……マミ?」
【やっと……やっと、見付けましたよ『お花見様』……】
「おはなみさま? マミ、何を言って……」
 狼狽する遠彦の真後ろから、突然どこかで覚えのある声が聞こえた。
「こんばんは、夜分に……失礼、いたします……」
「うわぁ!?」
 驚いて振り返った遠彦は、勢いで手持ちの鞄を放り出した。鞄は鈍い音を立てて土の上に転がり、閉めが甘かった開け口からマフラーがまろび出る。
 彼の目の前に音も無く現れたのは、タクシーの運転手ではなく美麗な櫛の店の店長だった。店では着ていなかった桜模様の羽織を身に纏い、夜更けにも関わらず薄い色のサングラスをかけている。
 その風貌からはとても櫛の店の店長だと連想できず、遠彦が思い出すのに時間を要した。
「あ……アンタ、あの、なんとかって店長……」
「桜の樹の下には、死体が埋まっているという都市伝説を聞いたことはございませんか?」
 遠彦の言葉を無理矢理断ち切って、店長は自由に語り始めた。
「死体が埋められた桜は、死体の養分を吸って……一層美しく咲き誇る、というのが……この都市伝説の、理屈だそうです。この公園で、一際美しいこの桜の下には……『誰が』埋まっているんでしょうね?」
「はぁ!?」
 遠彦は全身に冷や汗をかきながら「話が見えない!」と怒りを隠さずに叫んだ。
「アンタ、なんなんだよ突然! こっちはタクシー待たせて、急いでるんだよ!」
「ご安心ください。少し、確認したいことが……あるだけ、ですので」
「なん……っ‼ そう言うのは後にしてくれ‼」
 残業の原因だった『確認』と言う言葉がトラウマになっている遠彦の口調が荒くなる。店長は取り乱す彼を無視してガラの悪いサングラスを外すと、紅を刺した目で真っ直ぐ見つめながら歩を進める。
「半年前、一人の女性が……行方不明に、なりました……彼女は桜がとても好きで、毎年この季節になると……桜で有名な、この公園に……足しげく通って、いたそうです」
「だ、誰だよそれ……オレはそんな名前のヤツ、知らない!」
 近付いて来る店長に威嚇する遠彦は、言動と打って変わって目を泳がせながら落ち着かない様子で後ろの桜の樹を気にしている。
「おや? ご存じでは、ありませんか……テレビや、ネットニュースで……何度も何度も、取り上げられている……今、最も有名な女性……なのですが」
「……っ!?」
(しまった、朝倉さんの事件は敢えて公開情報を見ないようにしていた。そこまで大々的に報じられていたのか)
 遠彦はぐっと店長を睨みつけて黙秘を始めると、切れ長の瞳がついと三日月型に吊り上がった。まるでオークション商品を値踏みする悪党の様な笑顔に、遠彦の背筋がゾッと冷たくなる。
 店長は笑顔のまま遠彦を通り過ぎると、桜に向かって歩き続け、ぽつりぽつりと話を続けた。
「世間では、あまり大きく取沙汰されてはいませんが……この国では、行方不明者だけでなく……様々な不審死を、遂げる女性が……数多く、存在します。その殆どは、自殺や事故として……まとめられ、忘れ去られてしまいます……」
 遠彦の後ろで不気味に笑った店長は、片手の指を一本ずつ使って数えながらある共通点を持った女性を取り上げていく。
「例えば、貴方のお姉様……高校3年の夏、就寝中に……部屋に、飾っていた人形が……偶然、彼女の口に落ちて……そのまま窒息死を遂げて、しまいました。大学生の頃には、お付き合いしていた女性が……登山旅行中に、仲間とはぐれてしまい……後日、ご遺体で発見されております。翌年には、女性と同じサークルだった女性も、同じ山道で……自殺が確認、されておりますね」
「なっ……!?」
(なんで、どうしてピンポイントで彼女たちの話が出てくるんだ!? 皆出身も住所地もバラバラだし、一緒になった方法も違うから連続の事件性は無いはず)
 思わず店長の方を振り返った遠彦は、そこで信じられないものを目の当たりにした。店長の隣、桜の樹の下に居た筈のマミが、今までにない殺意の念を込めた表情で、遠彦の事を睨みつけていたのだ。
「ま……マミ? どうし……」
「二年前、妊娠した主婦が……電車に飛び込み、自殺したと言う……痛ましい事件が、ございました……。彼女はマタニティブルーで、夫に悩みも打ち明けられず……当日は結婚指輪を外して、投身自殺を図った……と、ニュースでは取り上げられて……おりました」
 遠彦の言葉を遮り、店長は淡々と彼の祭壇にあった遺品の持ち主を挙げていく。この謎の男の真意が分からず混乱する遠彦に、遂にマミが口を開いた。
【お前は……我の『お花見様』までも……手にかけた】
「マミ!?」
 マミの声はハスキーを通り越してノイズが混ざった濁声をしていて、おおよそ人の声には聞こえない。いよいよ顔を青ざめて事の異常さに逃げ出そうとした遠彦だが、足に力を入れようとした瞬間、腰が抜けて勢い良く尻もちをついてしまった。
「あ……ああぁ……」
 情けない声を漏らす遠彦に、マミは店長と共に容赦なく彼を追い詰めていく。
【我は……毎年我を見に来てくれるお花見様を敬愛していた。今年も変わらず我を見に来てくれるのだと……それなのに……お前は……‼】
「ど、どうしたんだよマミ……キャラが変わってるじゃん……はは、なんだよ……お花見様って……」
「お花見様、とは……半年前に、貴方が路地裏で追い詰め……縊り殺し、あまつさえその四肢を……切り刻み、この桜の樹の下に埋めた……『朝倉 真奈美』様です」
「は、はぁ!? どうしてそこまで知って……っ‼」
(しまった、迂闊に反応した)
 咄嗟に口を噤んだ遠彦だったが、月夜の光を反射した店長の表情を見て、もう言い逃れが出来ない程、彼らが『知っている』ことを確信した。
 もう、黙秘する意味さえどこにも無かった。
「す……好きなんだ! 好きで好きで、大好きで……愛していたから、一緒になりたくて。そうだ……オレはただ、愛した人と『一つ』になりたかったんだ‼」
 遠彦から、悲鳴の様な本性が吐露された。刹那、マミは瞬く間に歪に身体を変形させ、桜の樹よりも大きな『バケモノ』に変形した。マミの顔は阿修羅の様に三つに割け、正面はマミの鬼の様な表情。右には幼い少女、左には顔が判別出来ない程滅多刺しにしたはずの、真奈美の顔が現れた。
 マミだった身体の背の部分からは、多関節の腕が飛び出してきて、虫の様に蠢いている。その手は全て女性のもので、中には爪が綺麗に飾られている手や、左の薬指が無い手もある。遠彦は一目見ただけで、このバケモノが祭壇に飾る女性達のモノだと理解できた。
 声にならない悲鳴を上げた遠彦は、しかし、未だ自身の悪行を正当化しようと自身を奮い立てている。
「な、なんだよ……なんなんだよ! 関係ないだろ‼ オレは好きな人と一つになりたかったんだ。人として当たり前の感情だろう? それに、好きな人が死んだのは偶々で……」
「偶々、ですか……ふふ、貴方も中々……往生際が、お悪いですねえ」
「うるさい! 人が喋ってんだから黙ってろ! それに、オマエはただの櫛売りだろう!?」
 遠彦がなけなしの声量で威嚇すると、店長は「ああ、そうでした」と、掌に自分の拳をポンと置いて、中華風衣装の胸元に手を差し込んだ。
「そう言えば……貴方には『間違えた』櫛を、お渡しして……いたのでした」
「まちがえ……はぁ?」
「大変、申し訳……ございません。当店の不手際で、お客様にご迷惑を……おかけして、しまいました」
店長が自身の胸元から取り出したのは、大きさこそ無いが、持ち手の部分にバケモノの正面の顔に似た、能の鬼女が彫り込まれた厳かな櫛だった。
「こちらが、マミ様よりご依頼……されました『般若柄』の、手付櫛で……ございます」
「な、何を……? 何の話をしているんだ!?」
 余りにも話の趣旨が見えない遠彦を置き去りにして、店長は飄々と櫛について説明する。
「……誤って渡してしまった、桜柄には……諸説ございますが『可憐さ、儚き命』などと……言った意味がございまして。般若には『情熱、知性、勇気』の象徴の他に……『嫉妬』と言った意味が、ございます。俗説では、番になった桜が『私だけを見て、浮気は許さない』と言った……妬みや嫉みを抱き、変化した姿が『般若』だとも。貴方が持っている桜の手付櫛は……『彼女』の拠り所、でございます」
 店長が掌で指し示したバケモノの形相は、まさしく『般若の面』である。マミから受け取った桜の櫛が鬼の様に見えた事を思い出して、遠彦は絶叫した。
「より、どころ……っぁぁああぁあぁあぁあああああぁぁあああ!!!!!!」
 遂に、店長とバケモノが『見たモノ』に気付いた遠彦は、何とかして足を動かし、待っている筈のタクシーまで逃げようと振り返った。しかし、芋虫の様にしか動けない彼の背中に、バケモノは容赦なく全ての腕を貫く。
「ふっ……ぐえ!?」
 背中から内臓にかけて広がる圧迫感に、遠彦が地面に倒れて情けなく嘔吐く。
(痛い。気持ち悪い……なのに、なんで……)
 確かに貫かれた筈なのに、実際には皮膚やら何やら物理的な物の損傷はない。遠彦に刺さった場所は黒いシミの様な何かがじわりと滲んでいるが、彼には理解する程の余裕がない。
「い、いやだ……かき、まぜるな……うぷっ! やめて、おねがい、おねがいぃ」
 遠彦の抵抗も虚しく、バケモノの全ての腕が彼の心臓と脳に到達し、遠彦が生きがいとしてきた『好きになった人と一つになりたい』と言う欲望をざわりと刺激される。
「ひ……ひやだ、嫌だ嫌だイヤだ! やめて、それは取らないで‼ オレから姉さんを取らないでっ‼」
 遠彦の視界が、精神的な激痛でチカチカと明滅する。瞬きの間に見える幼い姉や好きになった女性達の、一番好きだった表情が握りつぶされそうになっているのが分かる。
 大人びた笑顔、艶やかな視線。それらが苦痛で歪み、自分の鮮血に絶望する表情。彼女たちの記憶が黒い何かで覆われていく様子に、遠彦は本能的に叫んでいた。
「もうしない! もうしないから、しない、から! 止めてやめてヤメテ!!」
 必死に懇願する彼を、バケモノは潰れた空き缶を見る様な目で見降ろし、呆れた溜息を吐いた。少しだけバケモノの動きが止まり、懺悔の猶予を貰えたと思った遠彦が早口で頼み込む。
「お……お願い、します……もう、もうしませ、しません……だから『それ』だけは奪わないで……くだ、くださっ……」
 彼の言葉を勢いよく遮ったのは、冷徹なバケモノの怒号だった。
【否、絶対に許さぬ。数多の罪なき者を手にかけ、裁きを逃れたお前に、慈悲などない。我の、たった一人のお花見様をも非道に扱ったお前を、我が仇討ちしてやる‼】
 バケモノの手が、ずるんと遠彦の身体から引き抜かれた。
「い、いやだああああぁあぁぁぁあぁあああぁあぁぁぁぁああああ!!!!!!!」
 彼には一滴の血も流れていないが、バケモノが彼の身体に刺し込んでいた腕にはどす黒い粘液が纏わりついており、二本の手には怪しい塊が握りしめられている。
「あ……ああぁ、うぁうぁ」
 遠彦は暫く反射で痙攣した後、だらしなく口から涎を垂れ流しながら、言葉にならない声を溢してその場で蹲ってしまった。
【……狂気を失った途端に人として保てなくなるなど……貴奴は人間の面を被ったバケモノだな】
「……ええ、そうかも……しれませんね」
 塊をじゅるりと飲み込んで再びマミの姿に戻ったバケモノは、壊れてしまった遠彦を無視して桜の樹の下でしゃがみ込むと、真奈美が埋められた土を優しく撫でた。
「お花見様……もう少しご辛抱くだされ……我が、貴女様の魂をきっと天に運びます」
 マミの表情は、遠彦と話していた時よりも無表情に近い。しかし、その控えめな微笑みは、マミの本当の感情を表すに足りるものだった。
「さあ、泉様……取り返しに参りましょう」
 マミから泉と呼ばれた店長は、再びサングラスをかけて、和やかに微笑んだ。
「はい。最後まで、お供いたします……」


 人間性を保てなくなった遠彦を放って置いて、泉は女の姿に戻ったバケモノと共に、落ちていた遠彦の鞄から鍵と個人情報を取り出した。
 遠彦が待たせていたタクシーに乗り込むと、彼のアパートの住所を伝え、車を発進させる。アパートは公園から更に一駅分遠い場所にあり、彼が毎晩公園に通い詰める異常性が垣間見えた。
 遠彦の部屋の中にある祭壇、もとい『自分が殺した女の遺品コレクション』は、本棚柄のダミーカーテンの中かに隠されていた。
「実姉に禁断の劣情を抱き、歪んだ愛の表現を見付けてしまった……男の末路が、これですか……。私も櫛を通して、この光景を目の当たりに……した時は、驚愕いたしました」
 バケモノの視界を共有していた泉は、異様な光景と遠彦の言動から年月と女性の特徴を割り出し、デートを約束していた日までに彼の悪行を調べ上げていたのだ。
 泉は懐から白い手袋を取りだし装着すると、マミに扮したバケモノが宿る手付櫛だけを取り出し、他は証拠品として見やすい様にカーテンを外した。
「おや…?」
 彼女達の証拠品は祭壇に限らず、いくつか雑多に仕舞われていた。その中に、ニュースで取り上げられていた若い女性の写真を見付けて、マミに差し出す。
「マミ様……いえ、今は『桜の精』と……お呼びすべきでしょうか?」
「どちらでも構わん。が……マミはお花見様の『真奈美』から捩った名だから、我としてはそちらで呼んでもらいたい」
 マミは床に転がっている酒の空き缶を足で蹴り飛ばしながら、つまらなそうに答えた。
「では、マミ様……この割れた櫛は、恐らく人の法に……必要な物なので、動かすことは叶いませんが……この写真であれば、マミ様にお譲りして……差し支えないかと」
 マミが受け取ったのは、満天の桜を背に晴れやかな笑顔で自撮りをした真奈美の写真だった。恐らくSNSに投稿された画像を紙媒体にしたのだろうか。
 真奈美の笑顔を見た瞬間、マミの瞳が一瞬で潤い、大粒の涙が零れた。
「ああ、お花見様……今年も、ようやくお会い出来ました……お花見様っ!」
 マミは嗚咽を嚙み殺して感情を抑えると、泉に短く、
「泉様、仇討ちの協力に感謝を。そして、この写真と我の櫛は、後日、桜の樹の下で焼いて欲しい……」
 と感謝をして、遠彦のアパートから音も無く姿を消した。泉が彼女を見送った先、窓の外には、満天の桜が咲き誇っているのが見えた。
 マミを見送った後、泉は最後の仕上げに、遠彦のアパートを出て優雅に歩を進め、今時珍しい公衆電話に向かった。小銭を入れずにボタンを三つだけ押して、直ぐに繋がった連絡先に、ゆるりと詳細を伝える。
「恐らく、事件です……ええ、この公衆電話から……はい、真っ直ぐ東に進んだ先の公園です。一本だけ色の濃い桜の樹の下から……はい、異臭が……いえ、私は通りがかりで……第一発見者と思われる男性が、付近で取り乱していて……ええ、ええ……よろしくお願いいたします」
 泉は公衆電話の重たい受話器をゆっくり下ろして通信を切ると、片手に持っていた櫛と写真を大切に懐に仕舞って、解通易堂への帰路に着いた。

――遠彦が起こした一連の連続殺人事件は、今、この瞬間に幕を下ろした――


 時は少し巻き戻り、休日の昼間。遠彦がマミに連れられて解通易堂に訪れた頃の事である。
 和寿がいつもの様に顎で使われ、品出しの手伝いをしていると、突然凄い形相の男が、一人で解通易堂へやって来た。
「ふ~ん。珍しい店だね……と、と、やす、どう……?」
 男は何かブツブツと呟きながら、焦点の合わない目で店内を見渡している。
「……いらっしゃい」
 和寿がぼそりと言うと、男はぐるんと彼の方を向き「……どうも」とだけ威圧する。
(なんだ? 気の短そうな、気味の悪ぃ野郎だな)
 和寿がしらばっくれて品出しの続きをしていると、男はフラフラと店内を彷徨いながら、独り言を永遠と繰り返している。
「ねえマミ……マミって木製の櫛を使うの? 珍しいね……そうなんだ、だからこんなに髪が綺麗なんだね」
 やがて泉が現れると、男は「なんだ、男か……」と言って泉を睨みつける。
 しかし、泉が櫛を持ってくると、男は快く櫛を受け取って、ニヤニヤしながら店を出て行った。
「ふふ、ありがとう。大事にするよ……マミも同じ柄の櫛を使っているの? へぇ……オレは家で使うよ……うん」
 去り際までブツブツと独り言を続けていた男にゾッと背中が冷えた和寿は、帳場の奥へ戻ろうとした泉を慌てて引き留める。
「なあ、旦那……」
「はい、どうしました……和寿?」
 何も無かったかの様に振る舞う泉にぎょっとして、和寿は戸惑いながら疑問を口にした。
「さっきの男……一人でブツブツ言いながら櫛を買って行ったが、あれで良かったのかい?」
 努めて真面目に問いかける和寿には、復讐の化身が見えていない。しかし、泉は和寿に敢えて説明をせずに、
「さあ……私には、関係の無い事……ですので」
 と、あっさりと白を切って帳場へと戻って行った。

【完】

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