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泉御櫛怪奇譚 第十八話

第十八話『ひな祭りの願い 失せ櫛の故』
原案:解通易堂
著:紫煙

――この国には、季節に肖った年中行事が数多く存在します。正月、節分、ひな祭り、端午、七夕……。
貴方は、これらが開催される本当の由来をご存じでしょうか?
全てを把握するのは難しく、又、興味がない、関係が無い行事に対しては、名前しか知らない人も少なくありません。
本日は、季節に因んだ『ひな祭り』を巡る、とあるご家族を紹介致しましょう……。


 仕事場を後にした和寿が、バイクを走らせて解通易堂へ向かう。今朝配達で届けた大量の段ボール箱を、泉が一日で整理整頓出来るとは到底思えない。それが彼の見解だ。
 解通易堂への道のりは、実は和寿にも分からない。自分の意思で解通易堂に向かおうとしても、辿り着かないことが殆どだ。しかし、解通易堂が彼を求めてきた場合のみ、何故か店に辿り着くことが出来る。今回は無事、解通易堂へ辿り着けた。
 既に閉め切っている店側の方ではなく、裏口の扉を雑に開ける。直ぐ近くに台所があり、対角線上に店の帳場へ繋がる出入口が見える。
 和寿はのしのしと大股でその入り口を無視して、向かって左奥の襖を開ける。すると、丁寧に櫛を包む泉の姿があった。
「ああ、お待ちしておりましたよ……和寿」
 日付が替わろうとしているのに、泉の後ろには今朝和寿が届けた櫛が山の様に積み上げられている。
「旦那ぁ……まさか一日中荷解きしていた訳じゃあねえだろうな?」
「いえ? お昼は、きちんと営業……しておりましたよ」
「そうじゃねえよ。ったく……後ろの箱も明日卸すから早朝便使ったんだろ? おら、場所作れ」
 和寿が容赦なく片足を上げてぶらつかせると、泉は優雅に立ち上がって座布団を取り出してきた。和寿は段ボール箱を一つひょいと持ち上げてその座布団に座り込むと、手際良く箱を開けて中の櫛を取り出す。彼が解通易堂にやって来て、否、好まれ招かれるようになってから暫く経つが、櫛の知識は皆無でも体感と洞察力で泉をサポート出来るようになっていた。泉が丁寧に梱包している間に、和寿は次々と箱を開けて、中の櫛をちゃぶ台に並べる。
 中には、配達中のどこかで柄に傷が付いてしまう物もあった。しかし、それらを的確に避けて、泉の何倍ものスピードであっという間に全て並べ終わってしまう。
「……おら、櫛の仕分け終わったぞ。ったく……なんでまた、繁忙期でもないのにこんなに仕入れてんだよ」
 最後の言葉は、和寿の独り言の様だ。座布団から立ち上がって、今度は段ボールをまとめて資源ごみに出せるよう準備を始める。泉はするりとちゃぶ台に並べられた櫛に手を伸ばしながら、これまた独り言のように和寿の言葉に反応した。
「そう、ですね……実は、櫛ら自ら『お暇』を……いただくことが、あるのですが……偶々今の季節と、重なるんですよ」
「はぁ?」
 思わず手を止めて振り返った和寿を無視して、泉は淡々と言葉と手作業を紡ぐ。
「櫛は、持ち主の……髪に絡んだ『穢れ』……『厄』を、梳き落とします……。ですが、櫛その物に残った『残穢』は……?」
「……ざんえ? まあ、後厄みたいなもんか……で?」
 和寿が続きを促したが、泉は笑顔を残したまま静かに作業を続けてしまった。
「おい旦那、勿体付けてねえで続けろや。いつもの流暢な説法はどうした?」
「ふふ……明日になれば、分かりますよ……」


 スーパーマーケットの店内では毎日様々なBGMが流れている。少し懐かしい邦楽、聞いたことがあるかも知れない洋楽。アニメソング等々。
 ふと、聞き慣れた童謡が耳を通ってきた時、たま子はレジの内側から天を見上げた。
「あら……もう『ひな祭り』の曲が流れる時期なのね?」
 思わず呟いてしまった彼女に、同じくレジ担当の新人が恐る恐る問いかけてくる。
「あの、志村さん……? ひな祭りって?」
「ああ、ごめんねぇ。レジの説明、続けるわね」
 たま子は、このスーパーに25年勤務しているパートリーダーだ。レジだけではなく、商品の在庫管理、薬品コーナーの薬剤師等、恐らく当店の事で知らない内容はないだろう。
「それじゃあ、次のお客様のレジもやってみましょ」
 温和な笑顔を新人に向けながら、たま子は意識を接客に集中させた。
 彼女の仕事は、スーパーだけでは終わらない。シフトの時間が終わると、たま子は夕食用の食材を買って、自転車で自宅へ帰宅する。夫が残してくれた洋風の一軒家は、築年数こそ古いがたま子名義で耐震補強工事も終わらせてあり、後は所有権やら何やらを三人の息子の誰かの名義にすれば、たま子としては安泰だ。
(ここまで、お父さんが全部終活ノートに書いておいてくれたのよね……あの人、私より5歳も年上だったし、持病もあったから、こういう細かい所、気にしてくれたのよね)
 帰る度に夫を思い出す。抱くのは悲しみじゃない。大往生した夫を尊敬しているし、三人の息子を一緒に育ててくれたことにも感謝している。
(私も、お父さんみたいに……誰かの為に残りの人生を謳歌したいわ。その為にも『今』の家族を大切にしなくちゃ)
 曲がった腰をうんと伸ばして努めて笑顔を作ると、玄関の扉を開けた。
「ただいまぁ」
 元気の良い泣き声に負けない位の声で帰宅を伝えると、泣き声にかき消された「おかえりなさい」が聞こえた。荷物を玄関に置き、手洗いうがいを済ませてからリビングに向かうと、たま子の三男、純平の嫁である佳奈恵が、ギャン泣きしている生後9ヶ月の怜美を抱きかかえて泣きそうな顔で途方に暮れていた。
「たま子さぁん……どうしよう、また怜美が泣き止まなくなっちゃってぇ~」
「あらあら、怜美ちゃーん? 今日は何が怖かったんかな~?」
「親子番組の着ぐるみがアウトだったみたいでぇ~……昨日はこのテレビで機嫌が良くなったから今日も同じ様にテレビ点けてみたんですけどぉ……」
 後悔している佳奈恵に、たま子は優しく背中を撫でながら、
「佳奈恵さんのせいじゃないわ。私だってきっと同じことをした筈だもの。今日も一人で頑張ってくれてありがとうね」
 と言って、怜美の抱っこを交代した。
 最近の怜美は音と視覚に過敏になっており、その日によって怖がる物が変わってしまう。昨日は産まれた時から使っている玩具のガラガラ音が嫌になってしまい、その前はテレビのニュースキャスターの顔を怖がっていた。
(純平と佳奈恵さんにとっては初めての育児だし、私にとっても初めての女の子育児だから、迂闊に助言できないのよねえ)
 たま子の長男と次男も結婚して子どももいるが、自他共に認める男所帯である。たま子を含め、近しい親戚の誰もが『女の子』を育てた経験が無い。
「はいはい。怜美ちゃーん。ばあばが帰ってきましたよー」
「ぎゃーーーー!!」
 たま子があやしても、怜美が泣き止む気配はない。たま子は机に備え付けられた引き出しからおんぶ紐を取り出すと、慣れた手つきで怜美を背中に固定した。現状、怜美が唯一絶対に泣き止む方法が、赤ちゃん用に買った新しいハグチェアや最新のベビーベッドが家にあるにも関わらず、たま子が使い込んだこのおんぶ紐でおんぶをする事なのだ。
「それ、いつ見ても凄いです。私も早く覚えたいなぁ」
「教えられる余裕が出来たら良いんだけどねぇ……あ! 佳奈恵さん、明日の準備してないんじゃない?」
 たま子が会話の途中で思い出したのは、佳奈恵が自主的に参加している『ママ友の会』と言う会合の事だ。まだ保育園や幼稚園に入れない乳児を抱えたママさん達が小規模で集まり、情報を共有し合っている。
「あ! そうそう、さっきグループチャットに通知着てたんですよぉ。ちょっと話してきても良いですか?」
「うんうん、行っといでー。怜美ちゃんこのまま見とくから」
 焦る佳奈恵の背中を優しく撫でて落ち着かせると、たま子はまだぐずっている怜美を揺らしながら玄関へ戻って行った。夕飯用の食材が入った買い物袋を持ち上げようとすると、疲れた腰に重みを感じて一瞬躊躇った。
(おおっと危ない……ギックリ腰になったら怜美ちゃんも危険だからね。私も、もう60歳近くなるんだから、無理はしないように……)
「ふぅ~……よし!」
 気合いを入れ直して買い物袋を持ち上げると、リビングを経由して台所へ向かう。リビングでは、佳奈恵が早速アイフォンでオンライン通話を始めており、黄色い声が部屋全体に広がっていた。
「やぁもぉすみませぇ~ん。娘ちゃんが中々泣き止まなくてぇ……そ~なんですぅ! あのあの、そういう時って、皆様どうしていますか~?」
 佳奈恵なりに、育児の問題は母親として解決したいと必死だ。邪魔しない様に台所へ移動すると、冷蔵庫を開けて少し驚いた。
(あら、お夕飯用に朝作っておいたお浸し、無くなっちゃってる……佳奈恵さんがお昼にしたのね)
「うーん……と、なると……もう一品何か考えなきゃねぇ」
 怜美に語りかける様に独り言を連ねながら、手際良く夕飯の準備を始める。
「パパが帰って来るまで後1時間だねぇ。ミンチがあるから、パパの好きなピーマンの肉詰めとー、怜美ちゃんの離乳食用にー、ニンジンとブロッコリーのポテトサラダとー……最近はコンビニでレンチン出来る野菜が多くて便利よねぇ……ん? 怜美ちゃーん?」
「すぅ……すー……」
 いつの間にか怜美は背中で寝息を立てている。これ幸いと、勤務中に聞いた童謡を鼻歌に調理に取り掛かった。
 しかし、やはり予定通りの品数を作るには時間が少し足りず、もう一品を用意することが出来なかった。
(あらやだ、もうこんな時間)
「佳奈恵さーん? ちょっと盛り付け頼んでも……」
 台所からリビングの方へ顔を出すと、佳奈恵はまだオンライン通話を続けていた。
「えぇ~!? そぉなんですかぁ? それってぇ、どうやってやるんですかぁ?」
 佳奈恵は口調こそ軽い後輩の様な声だが、目は真剣そのもので、もう一台のアイフォンをメモ帳代わりに必死で書き込んでいる。
(佳奈恵さん……先輩ママにいっぱい質問してるのね。頑張っているのは分かるんだけど……アレで、もうちょっと時間を気にしてくれたらなー……)
「さーて、パパが帰ってくる前に、後一品頑張らなきゃ!」
 たま子は、じわりと胸に広がった蟠りに気付かなかったフリをして、再び台所へ駆け込んだ。


 純平が帰宅した時、机の上には大皿に盛りつけられたピーマンの肉詰めとポテトサラダ、茹でたレタスとササミのごま油和えが用意されていた。
「ごめんな、母さん。また全部やらせちゃったみたい」
「違うの純平さん、私が時間を忘れて電話しちゃってたから……たま子さん、本当にごめんなさい!!」
 末息子夫婦に謝られたたま子は、両手を振って頭を上げさせた。
「やあねぇ、良いのよー。私の方こそ、小分け出来なくてごめんねぇ。さ、いただきましょ!」
 掌を合わせて、家族で「いただきます」と言える幸せを噛み締めながら、大人たちは大皿に箸を伸ばした。機嫌が良くなった怜美も、キャッキャッと笑いながら反射で握りしめたスプーンを振り回している。
「ほーら怜美、お口あーんしてー」
「あー」
 純平が怜美の食事介助をする。佳奈恵は昼間の不機嫌な娘を知っている為か、ようやく安心した様な笑顔でご飯を頬張った。
「ん~! たま子さんの肉詰め美味しい‼ 今度レシピ教えてください」
「ええ。もし良かったら、一緒に御台所に立ってやりましょ」
「はい! あ、でもそれだと怜美の面倒……」
「あらやだ、そうねぇ~……」
 微笑ましかった嫁と姑の会話がふつりと途切れる。たま子にとっては三人目のお嫁さんだが、長男と次男のお嫁さんとは同じ『息子』を育てている共通点がある為、話が途切れる事はない。
 今、この空間で一番大切な娘が、孫が、歪な足枷になってしまった。
(いけないわ、私が気の利いた事言わなきゃいけないのに……佳奈恵さんに嫌な思いさせたかしら?)
「あ、えーっと……」
 たま子が言葉を選んでいると、純平が当たり前の様に話の間に入ってきた。
「じゃあ、僕も有給取ろうかな。怜美がまだ小さいから外出は難しいけど、この家だったら全部の部屋巡るだけでも怜美にとっては大冒険だし、僕が面倒見ていれば、二人でご飯作れるだろう?」
「そ、そうね! 直ぐは難しいかも知れないけど、純平と私の休みが合えば……」
 たま子が嬉しそうに同意しようとした瞬間、佳奈恵の血相が豹変した。
「ダメ‼ 今の怜美は不安定なの、純平さんには無理‼」
 佳奈恵の余りの剣幕に、部屋の空気が一斉に凍り付く、一拍おいて、荒げた声に驚いた怜美が泣き始めた。
「んぎゃあー‼ ああぁ~うあぁあああ‼」
「うおっと、大丈夫だよ怜美。よしよし、ビックリしたねー」
 怜美の隣にいた純平が、素早く娘を抱き上げてなだめる。しかし、彼の視線は佳奈恵に向けられ、不機嫌な感情を孕んだ言葉が咄嗟に出ていた。
「無理って何? そりゃ、母さんが言ったみたいに、部長に昇進したから休むのは難しいかも知れないけど、怜美の世話が無理って、なんで佳奈恵が決めつけるの?」
「え、違うの純平さん……今は、今の怜美は……」
 佳奈恵は持っていた箸を落とす程動揺している。無理もない。怜美が寝返りを覚え、這いずって移動できるようになり、夜泣きは止まらず昼間も泣き続けている。赤ん坊として当たり前の行為を喜ぶ暇もなく、家族の誰よりも怜美を見てきた彼女が、その大変さを一番理解しているのだ。
(でも……佳奈恵さんは素直で真面目な性格だから、大好きな純平に同じ苦労を掛けたくないのよね。分かるわ、分かるけど……ここで私がフォローを入れても良いのかしら?)
 たま子は反射的に伸ばしていた自分の手の所在を失くして、仕方なく立ち上がって泣いている怜美を純平から預かった。
「はいはい、怜美ちゃんビックリしちゃったのねー。今日はパパもママも疲れちゃっているみたいだから、少しばあばと一緒にいようねー」
 たま子は夫婦を二人きりにしてあげると、リビングに移動して机の引き出しから先程片付けたばかりのおんぶ紐を取り出した。あっという間に怜美をおんぶする。こんな時、姑が干渉してはならない事を、たま子はなんとなく理解していた。
 まだ泣き止まない怜美を背中で揺すりながら引き出しを元に戻そうとして、ことんと異物が当たった音に手が止まる。
(あら? 何かしら……)
 たま子が引き出しを覗き込むと、そこには入れた覚えのない小さな櫛が鎮座していた。人が使うにしては髪を梳く歯の幅が短く、桃の花が彫り込まれたセット櫛だ。しかし、髪を整える為の先端部分が欠けてしまっている。櫛を見た瞬間、たま子の昔の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
「あ‼ この櫛、こんな所にあったのね!」
(でも、なんでかしら? リフォームしてから一度もこの引き出しに入ってる所、見たことなかったのに?)
 たま子は懐かしそうに櫛を取り出して、スーパーで聞いた童謡を思い出す。
(そうだわ、もうひな祭りの時期だったから、出てきてくれたのかしら? 明日、久し振りに押し入れを開けてみようかしら?)
「ふふ……怜美ちゃん、明日はばあばと、お雛様に会いましょうか?」
 たま子は徐々に泣き止んできた怜美の方を振り向いて、楽しそうに提案した。


 翌日、たま子の起点は上手く行ったようで、昨晩の言い争いなど無かったかの様に夫婦は一緒に玄関から出て行った。
「行ってきますたま子さん‼ 純平さん、駅まで一緒に行こうよぉ!」
「うん。それじゃあ母さん、行ってきます。怜美をよろしく」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 背中ですよすよと眠る怜美と共に夫婦を見送ったたま子は、リビングに戻って引き出しから櫛を取り出すと、いそいそと仏間に移動して大きな押し入れを全開にした。ふわりと広がる埃を避けて一度喚起をすると、寒暖の差で怜美がぐずり始める。
「んうぅ……ああぁ~」
「あらあら、そうねそうね。怜美ちゃんお外寒かったわねー、ちょっと待ってね」
 仏間の空気が入れ替わるまではリビングの赤ちゃんスペースで怜美を自由に遊ばせ、序でに昼食前の離乳食を与える。乳児の食事回数は家庭や子どもの成長速度に合わせて様々だと聞くが、怜美は一日に大体5回に分けて人工ミルクの授乳と離乳食を繰り返している。たま子の時代は、母乳が出ずに人工ミルクに頼っていた彼女を『母乳を与えないと子どもは健康に育たない』と差別し、迫害する者が少なくなかったが、
(今は離乳食さえレトルトで済ませられる……素敵な時代にママになれた佳奈恵さんや、お兄ちゃんたちのお嫁さんが、ちょっとだけ羨ましいわ)
 と、たま子はご飯を食べて再びうとうとしている怜美をおんぶして、喚起が終わった仏間へ移動した。
 埃が舞い上がらない様に、ゆっくりと押し入れの中の桐箱を取り出していく。昔ながらの雛台は重く押し入れの方へ押し込まれてしまっている為、一旦押し入れを閉めて桐箱の中身の確認から始める。
「あらぁ! 昔と何も変わってない。可愛いわねぇ……」
 最初に開けたおひな様の人形を見て、たま子の表情が綻ぶ。約50年以上前の人形たちは、仏間を管理していたたま子の義母や、入院する前まで義母の役割を引き継いでいた夫のお陰で何一つ傷んだりカビが生えたりする事なく保管されていた。
(毎年、防虫剤と防腐剤を入れ替えるだけで、こんなにしっかり見たのは久しぶりだわ)
「お内裏様とお雛様、三人官女に五人囃子。文官様と武官様、三人仕丁……あらあら、どれも着物がくたびれてるし、御髪が少し乱れてるわね」
 たま子が手入れ道具を取り出すと、そこには人形用の白粉道具や折れていないセット櫛が丁寧に仕舞われていた。
(あら? 櫛もちゃんとある……じゃあこの櫛は、やっぱりあの時の……?)
 考えながら人形一つ一つを整えていく。身体に馴染んだ手際であれど、総勢十五体ものひな人形を整えるのには時間がかかる。休憩を挟みながら、自分の鼻歌をBGMにコツコツと作業を進めていると、一日はあっという間に過ぎてしまった。
「ただいまぁ~。あれ、たま子さ~ん?」
 ママ友の会から帰宅してきた佳奈恵の声が玄関に響く。しかし、玄関に一番近い仏間に居るにも関わらず、ひな人形に集中していたたま子には聞こえなかった。
「たま子さ~ん、怜美~?」
 佳奈恵が仏間を開けると、そこには見た事のない昔ながらの日本人形がずらりと並べられ、その前で黙々と作業をしているたま子と背中で眠る怜美が、まるで、呪いか何かの類でもしているのではないか。と言わんばかりの光景に見えた。
「ぎゃっ‼ たま子さん、何やってるんですか⁉」
「わぁ‼ あら佳奈恵さん、お帰りなさい。もうそんな時間?」
 人形の髪を整えている途中のたま子が振り返ると、恐怖と違和感で顔を青くしている佳奈恵の姿があった。佳奈恵は半ば無理矢理たま子の背中から怜美を抱き上げると、仏間の出入り口まで後ずさる。
「な……なにしてるんですか? これ、人形?」
「そう、ひな人形。せっかく佳奈恵さんが家に来てくれて、怜美ちゃんが居るんだもの。ひな祭りまで飾ってあげないと、勿体ないじゃない?」
「えぇ……」
 佳奈恵は怜美が起きてもこの光景を見ない様に娘の頭を自分の肩の上に固定させると、目線をたま子に合わせ、最小限の声で抗議した。
「たま子さん、昨日の怜美を見ましたよね? こんなに沢山の不気味な人形見て、泣かない可能性の方が低いと思わなかったんですか?」
「不気味だなんて……これは『ひな祭り』の飾り物で、縁起の良い物なのよ?」
「ひな祭りは知ってますけど……ひな人形を飾らなくても、ひな祭りって出来ますよね? ママ友会でそんな話、一度も出ませんでしたよ。それに、今時日本人形って……怜美が泣いてトラウマになっちゃったら、どうするんですか……?」
「佳奈恵さん……」
(佳奈恵さんの言うことは間違ってないわ。怜美ちゃんがテレビのマスコットキャラクターで泣いちゃうくらい繊細な今、リスクは犯したくないものね。でも、私にだって孫や義娘を想う気持ちがある事はしっかり説明しなくちゃ……引き出しで見付けた櫛があの時の物なら、尚更私が伝えなきゃいけないわ)
 たま子はひな人形を優しく桐箱に仕舞うと、佳奈恵の方へ体を向けて深く頭を下げた。
「た、たま子さん!? 私、そこまでして欲しくて言った訳じゃ……」
 突然の土下座に、佳奈恵は慌てて片手を伸ばして彼女の肩を掴んだ。しかし、たま子は頭を上げずにゆっくりと話し始めた。
「佳奈恵さん。怜美ちゃんのことを、大切に考えて言ってくれたのはとても分かるわ。でも……私にひな人形を買ってくれた親や、今日まで保管してきた私の思いだけは、どうか最後まで聞いて欲しいの」
 そこで真っ直ぐに顔を上げて佳奈恵と目を合わせる。気圧された佳奈恵の表情は怯えていて、たま子が伝えたい意思とは違う受け取り方をしている様だ。
(あ、これは多分、私が強引にひな人形を飾らせたいと誤解している顔だわ。違うの、無理に飾りたいんじゃなくて、飾りたい『理由』を伝えたいだけなのよ)
 たま子は慌てて笑顔を作って自分に触れている佳奈恵の手を優しく握ると、今度は口調を和らげて続けた。
「そんなに身構えないで。ばあばの古い思い出話を聞いて欲しいだけなの。その上で、ひな人形を片付けるのを手伝って?」
「は、はい……片付けるのなら……はい」
 片付けることを前提で警戒を解いた佳奈恵は、たま子と一緒にリビングへ移動した。机の上には、引き出しで見付けたセットする為の先端が欠けた櫛と、押し入れの手入れ箱から出した何処も欠けていない櫛が並んで置かれてある。たま子は深くなった自分の顔の皺を触りながら、穏やかな声で語り始めた。


 これは、今から50年以上前。たま子の歳がまだ片手で足りる程の頃だ。
 たま子の実家も男所帯で、一人だけ女の子のたま子は、名前通り珠の様に親戚規模で可愛がられていた。毎年立春を迎えると、たま子だけの為に飾られるひな人形が誇らしくて、彼女はずっとこの季節を楽しみにしていた。
 たま子の母親と、同居している父方の祖母が押し入れを開けるのが、ひな人形を準備する合図。たま子は自ら進んで飾り付けを手伝っていた。
「あかりをつけましょ、ぼんぼりにー」
 まだ幼子のたま子が出来る手伝いは、七段あるひな壇の一番下の段の飾りを手ぬぐいで拭いて置くことだけだったが、彼女はそれで充分楽しかった。
(おっきくなったら、おひなさまもおだいりさまも、わたしがかざるの!)
 漠然とそんな夢を抱きながら童謡を歌っていると、祖母は嬉しそうに笑ってたま子を眺めた。桃の花模様が彫りこまれた、歯の幅が小さいセット櫛を器用に使って人形を梳き整えるのが、誰よりも上手なのが祖母だった。
「たまちゃんは、本当にお雛様が好きね~」
「うん! これ、たまこだけの、おひなさま。だから、だいじにするの‼」
 最初は、ただの特別感だけだった。親戚の従兄弟達に自慢して、小学生になってからは友人に自慢した。七段全てのひな人形が飾られている家は当時でも珍しがられ、たま子はその度に優越感に浸っていた。
 彼女が初めてひな壇に違和感を抱いたのは、小学校を卒業する年のひな祭りの時期だった。流石に見せびらかすような事はしなくなったが、その頃には自分で人形を整えて最上段まで一人で飾れるようになっていた。
 ひな壇を飾る少し前の季節、学校で近くの商店街がひな祭りで出店を開くと話題になった時、たま子は当たり前の様に実家にあるひな壇の話をした。すると、クラスメイトの男子がポツリとたま子に問いかけたのだ。
「なあ、なんで女子ん家ってひな人形飾るんだ? ひな祭り終わったら直ぐに片付けるのってなんで? 意味ねーじゃん」
「そ!? それ、は……」
 たま子は電流を流された様に全身が硬直し、咄嗟に言葉が出てこなかった。彼の質問に答えられるだけの知識を持たずに今まで当たり前に飾っていた人形がただの承認欲求の為だと自覚して、恥ずかしさで顔が真っ赤になったのを覚えている。
 帰宅したたま子は、直ぐに専業主婦の母と祖母にひな祭りの意味について問いかけた。
「ねえねえ! なんでひな祭りってあるの? どうして女の子だけのお祭りにひな人形を飾るの?」
 彼女の質問に、二人は顔を見合わせてたま子と同じ反応をした。
「そ、れは……そうねえ? 女の子が健やかに育ちますように……とか? ほら、五月にだって男の子の為に鯉登りを出すでしょう? あれと同じよ」
「じゃあ、なんで鯉登りやひな人形を飾るの?」
「う~ん……おばあちゃん、ひな祭りの意味分かります?」
 母親に話を振られた祖母も、ほんわかした表情で「そうねぇ……」と考えて、抽象的な答えを口にした。
「ばあちゃんが教えられるんは、たまちゃんが大人になるまで見守っててくださいって事と、ひな人形を仕舞い忘れるとたまちゃんの婚期が遅れることくらいだってだけかなあ」
「それって……お母さんもおばあちゃんも、ちゃんとしたひな祭りの意味は分からないってこと?」
(なんか、聞きたかった答えと違う。おばあちゃんもお母さんも、分からないでずっとお雛様飾ってたの? 私も知らないで友達に見せびらかしてたんだ……恥ずかしい)
 その後も学校の教師や親戚の有識者に聞いて回ったが、立春が近づいても未だたま子が納得する答えは見つからなかった。
(どうしよう……こんな気持ちで、本当にお雛様を飾って良いのかな? 私はお人形の名前は言えても、全部の役職が分かる訳じゃない。なんで、今まで平気な顔で飾れていたんだろう)
 短い人生で初めて己の無知を恥ずかしく思ったたま子は、休日に母親と祖母に隠れて勝手にひな人形を取り出した。
(まだ立春じゃないけど、ひな人形の箱の中に説明書とか入ってないかな? それか、人形を作っている会社が分かったら、お手紙を出して聞くことが出来る)
 縋るような気持ちで一つ一つの桐箱を開ける。しかし、十五体ある人形のどれにも説明書はおろか紙一枚入っておらず、箱や人形の裏には読めない漢字が一文字だけ彫られているだけで、会社らしい文字は何処にも見当たらない。
(多分、この人形を一つにまとめた大きな包みとか箱があって、そこに社名とかが書いてあったんだ……ここにそれが無いってことは、きっともう捨てられちゃったよね)
「道具箱にも……なにも無い、かあ……」
 修理用の道具箱を雑にひっくり返して中を確認するが、どうやらこの箱は実家が別で用意した物らしい。白粉、筆、紅。良く見るとどれも違う店で揃えられている。
(仕方ない。今日おばあちゃんに、どこのお店でひな人形を買ったのか聞いてみよう)
 床に落とした道具をかき集め、順番に箱に仕舞っていく。全部拾い上げて道具箱を見た瞬間、
「あれ……櫛が、ない……?」
 毎年欠かさず使っていた人形用のセット櫛が、箱の中にも床のどこにもない。焦って部屋の隅や押し入れの奥まで探したが、櫛は一本も見つからなかった。
「どうしよう……何処にもない」
(失くしたってバレたら、絶対に怒られる。どうしよう……お雛様飾る日までに、なんとかしないと……)
 心がぞわりと震える。温厚な祖母は悲しむだろうが、家族で唯一たま子に厳格な母親は、もしかしたら手を上げてくるかも知れない。
「どうしよう……おもちゃ屋さんに行ったらあるかな? でも、あんなに細かい花柄が彫りこまれた櫛だから、もしかしたら凄く良い物なのかも……どうしよう、どうしよう……」
 たま子は震えた手で道具箱と人形の入った桐箱を押し入れに仕舞い込むと、縺れそうな足で自分の部屋に逃げ込んだ。
「どうしよう……知らないなんて嘘吐いても、お母さんには気付かれる。おばあちゃんは悲しむ……どうしよう……どうしよう」
 おろおろと部屋を動き回っていると、本棚の上に置いてある豚の貯金箱が目についた。咄嗟に持ち上げたその陶器は、最後に持った時より重く感じた。
「……っえい‼」
 貯金箱のお腹に嵌められた蓋を開けて、貯まっていたお小遣いを振り落とす。かき集めた身銭は僅かな額だが、たま子は自分の全財産をポケットに詰め込んで家を飛び出した。


 玄関先で祖母から声を掛けられた気がしたが、たま子は構わず走って近くの駄菓子屋へ向かった。
 子どもが唯一子どもだけで着ても不思議がられない昔ながらのその店は、不愛想なお婆さんが一人で経営していた。常に和装で石の様にカウンターから動かず、誰に対しても愛想が悪く、会計も最低限しかしない祖母より年老いた老婆を、学校では『ガンコババア』なんと呼ぶ男子も居た程だ。
 たま子は息を切らして駄菓子屋の暖簾をくぐると、取り敢えずは店内をぐるりと見渡した。
(ここには、お菓子だけじゃなくて玩具とか文房具とかがあるから、もしかしたらって思って来てみたけど)
「な、ない……か……」
 念の為と踏み台まで使って棚の隅々まで探したが、おままごと用のグッズ以外の雑貨類は売られていない。肩を落としたたま子は、カウンターに鎮座してこちらをちらりとも見ようとしない老婆の方を向いて生唾を飲み込む。
(うう……ガンコババアってちょっと怖くて、声かけるの嫌なんだけど……でも、この人なら一番ここら辺の事知ってそうなんだよね)
 深呼吸をして汗ばんだ手を服で拭う。意を決して発した声は、たま子が思っているよりも緊張で裏返っていた。
「アのっ……!? あの、お婆さん。こんにちは……」
「……」
 老婆はちらりと目だけでたま子を一瞥したが、それ以上の反応は見せてこない。覚悟していた対応ではあったが、たま子は勇気を出して話しかけ続けた。
「あの、えっと……ひな人形の櫛を探していて、木の櫛で、桃の花が彫られていて……そう言う雑貨が売られているお店、知りませんか?」
「……ウチじゃあ売ってないね」
 老婆はぼそりと一言だけ口にして、たま子から視線を逸らした。これ以上どう話を進めれば良いのか分からないたま子は、小銭が入ったポケットを握りしめながら下を向く。
(どうしよう、次の、言葉……出てこない。本当にこの人、苦手だ……私が店員さんになったら、絶対にこんな人にはならない様にしよう……じゃなくて、えっと)
 たま子が思考を巡らせていると、突然、後ろから「にゃーん」と鳴き声が聞こえた。振り返ると、暖簾の下に全身が真っ黒な猫がお座りしている。
「え⁉ ねこ?」
「にゃーぁ?」
 黒猫はたま子の声に反応した様にもう一鳴きすると、当たり前の様に店の中に入ってカウンターまで真っ直ぐに進んできた。たま子のことは障害物の一つとしか思っていないのか、股の間をするりと抜けていく。
(あ、後ろ足の片方だけ、ちょっと毛が白い)
 すれ違った猫の背を見ながらたま子が唖然としていると、視線の向こうにいた老婆は初めて表情を変えてカウンターに飛び乗る黒猫を迎えていた。
「なんだいボッチ。えらいご無沙汰だったじゃないの」
「みゃぁお」
「そんな媚び売ったって、カツ節はもう片付けちまったよ」
(あ……あの『ガンコババア』が、笑って喋りながら猫を撫でてる!?)
 見た事のない老婆の行動に驚きを隠せないたま子を置き去りにして、老婆はヨロヨロと立ち上がって店の裏へ行ってしまった。
「……あの人が動く所、初めて見た……」
「にゃーぁ?」
 黒猫はたま子の方を見ながら、不思議そうに尻尾を左右に揺らしている。可愛さに抗えなくなったたま子は、つい近寄って控えめに猫を撫でてみる。
「わ、見た目よりフワフワ……それに、よく見たらあなた、女の子なのね」
「ンンにゃぁお」
 猫は人馴れしている様子でたま子の手を受け入れていたが、カウンターの奥から老婆がやって来るとあからさまに喉を鳴らしてきた。
「グルルルル……」
「……ほれ、アンタ……手ぇ出しな」
「はい!? 私ですか?」
 老婆はたま子に向かって、カウンター越しに仏頂面で手を伸ばしてきた。反射的にたま子が両手の平を上にして伸ばすと、粗削りのかつお節を一掴み分手渡された。
「あ、え?」
「うにゃぁん!」
 黒猫は『それワタシの!』と言わんばかりに前足でたま子の手を掴んで寄せると、美味しそうにかつお節を食べ始めてしまった。
「わ! はぇ……ね、猫ってかつお節、食べるんですね。知らなかったです」
「……」
 老婆は先程の笑顔が幻覚だったのではと疑う程仏頂面でたま子と黒猫を見ると、出入口の暖簾を顎で指してぼそりと言った。
「……櫛なら、このコについて行きな」
「え、猫に? なんで……」
 たま子が聞き返そうとして途中で止める。老婆はかつお節を食べる黒猫を、木製の櫛で梳かしていたのだ。皺だらけの手で柄までは分からないが、直感的に家にあった櫛と同じ店の物だと悟った。
(どうせ聞いても、答えてくれないだろうし……意味は分からないけど、言われた通りにしてみよう)
 かつお節を食べ終わった黒猫は、暫く気持ち良さそうに櫛に梳かされていたが、満足すとするりとカウンターから降りて店を出ようと歩き始めてしまった。
「あ、待って! あの、お婆さん……ありがとうございました」
 たま子は格好だけでもと老婆に向かって頭を下げ、直ぐに猫の後を追おうと振り返った。黒猫はたま子の事情などお構いなしに歩道を歩く。少しだけ歩幅が合わないたま子は、小走りで黒猫を見逃さない様について行くので精いっぱいだ。ポケットの小銭が擦れ合って鈴の音の様に鳴り続けている。
(猫ってこんなに足早いんだ!? ペットとか飼ってないから知らなかった……このコ、首輪付けてないから野良猫だよね? 飼猫だったら飼い主さんの家に向かってるって分かるけど……このコは何処に向かっているんだろう?)
 知らない道を歩かされ続けている内に、たま子の胸に不安が広がってゆく。何回目か分からない曲道を抜けた先には、一軒の店が建っていた。
「はぁ、はぁ……なに、ここ……」
 『解通易堂』と書かれた看板下の暖簾を、黒猫はすまし顔でくぐっていく。慌ててたま子も入ると、そこにはありとあらゆる櫛がずらりと並べられた空間が広がっていた。
「うわ‼ 全部櫛……ここ、櫛の専門店!?」
 驚くたま子の前にふわりと現れたのは、天井まで届きそうな高身長の、髪の長い大人の男性だった。切れ長の眼に青灰色の瞳、仕立て屋の様な西洋スーツにインバネスコートを羽織った、たま子が親戚中の男衆を思い出しても比べ物にならない程美麗なその人は、彼女の目線に合わせて膝をついてゆっくりとお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、ようこそ……解通易堂へ」
「わ、わわ‼ あの、お邪魔します」
 どう答えて良いか分からないたま子は、つい友人宅へ招かれた時の口上を口にしてしまった。
(お、お店にいちいち『お邪魔します』なんて言わないよね!? うわぁ、やっちゃったー‼)
 顔を真っ赤にして動揺しているたま子に、男性は安心させるようにゆっくりと微笑んでなんてことない様に振る舞ってきた。
「私は、この店を……任されている、泉と……申します」
「あ、えと……たま子です。じゃなくて、えっと……!」
(落ち着け私! お母さんがお店の人と話す時を思い出して、櫛のことを聞くんだ……大丈夫。男の人の方が、親戚のお兄ちゃんとか叔父さんとかと話してるから、慣れてる!)
 たま子はごくりと唾を飲み込んで深呼吸をすると、泉と名乗った男性に問いかけた。
「あの、あの……このお店には、お人形用の櫛は、売っていますか? えっと、持ち手が尖ってて、歯の幅が普通のよりもこう、これくらいの櫛なんですけど」
 両手を駆使して櫛の形状を再現しながら一生懸命説明するたま子に、泉は最後まで聞いてから「ほう……」と指を顎にあてて考える素振りを見せた。
(う、上手く伝えられたと思うんだけど……どうだろう?)
 ハラハラしながら答えを待っているたま子に、泉は至極真剣な表情で問い返してきた。
「当店は、お客様のご用途に……合わせた櫛を、取り揃えて……おりますが、たま子様がお持ちのお人形の髪は……どの様な材質で、いらっしゃいますか?」
「え、材質!? わ、分かんないです」
(材質? 気にしたことも無かった……日本人形の髪ってなんだ? やっぱり人毛とか使ってるのかな……? うわっ、気味悪い事考えちゃった)
 たま子の全身がブワッと泡立ち、序でに慌てて飛び出してきたせいで上着を着忘れていた事にも気付く。祖母が何か言っていたのは、彼女の上着のことだったのかも知れない。
「えっと……ひな人形に使っている櫛です。木製で、桃の花が彫り込まれていました」
「さようで、ございますか……ひな人形の御髪は、スガと呼ばれております。材質は……しっとりとした風合いの、生絹糸……それか、光沢感が特徴的な……ナイロン糸が、一般的でございますね」
(あ、良かった。人毛は使われてないんだ)
 ホッと肩の荷が下りたたま子は、先程まで家で触っていたひな人形を思い出しながら、両手で何度も人形の形を作りながら説明した。
「うちひな人形は、多分絹糸の方だと思います。これくらいの大きさで……一体ずつ桐箱に仕舞ってあって……あ、それで、毎年おばあちゃんが仕舞う時に防虫剤と防腐剤を取り換えています」
「なんと、ご立派な大きさで……ございますね。ひな壇は、何段ですか?」
「七段です。私の身長より、ここまでの高さにお内裏様の烏帽子? が、見えるので……」
「素晴らしい……仕丁まで揃っているひな壇は、さぞ壮観でしょうね……」
 店内にはひな壇らしいものは無かったが、泉はたま子の説明だけでひな人形の役職と配置を把握出来る程博識だった。
「そうなんです! 十五体全部並べ終わると、すっごく綺麗で……ずっと出していたいくらい、大好きなんです」
(凄い。女の子同士だってこんなに話せる人が居なかったから、喋るのが楽しい! この人なら、ひな祭りの意味やひな人形のこと、詳しく聞けるかもしれない)
 たま子は目を輝かせて泉を見つめると、ずっと蟠っていた疑問を投げかけてみた。
「あの……櫛の店の人にこんなこと聞くの、変だと思うんですけど……どうしてひな祭りってあるのか、分かりますか? お母さんとおばあちゃんは、女の子のお祭りだって、こんき? が遅れない様にする為だって……でも、私にはもっと色んな理由があると思って……でも、誰に聞いても、みんな同じようなことしか知らなくて」
 つい早口になってしまったたま子の言葉を、泉は簡潔にまとめてゆっくりと確認して来る。
「成程、たま子様は……ひな祭りを、心から親愛していらっしゃって……より深く、正しい知識を……得たいのですね」
「あ……そうです、そうなんです! 私は、ひな祭りが分からない人に、きちんと教えられるようになりたいんです」
(そっか。このモヤモヤした気持ちは、曖昧な知識のままで人形を飾りたくないって事だたんだ……大好きな行事を深く知りたいって、凄く単純な事だったんだ‼)


 何処かスッキリした彼女の手を優しく握った泉は、ゆっくりと立ち上がって帳場の奥までエスコートした。
 備え付けの蛇口とコンロ、視線を上げると換気扇も存在している。たま子が直感的に台所だと思った空間に案内した泉は、恐らく食卓用にあつらえた机の前にたま子を座らせて、本人は更に奥の部屋へ続く襖を開けて姿を消した。
(ここ、お客様用の場所なのかな? ただの台所にしか見えないけど……)
 たま子が落ち着かない様子でチラチラと周りを見渡していると、泉が襖の奥から不思議な香りのするお茶を用意して戻ってきた。
「粗茶で、ございますが……どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
(台所があるのに、違う部屋から温かいお茶が出てきた。なんで?)
 一瞬脳裏を過った疑問を、首を振ってかき消す。些細な違和感よりも大事な話を聞きに来たのだ。たま子は頂いたお茶をゆっくり飲んで体を温めると、湯飲みで両手の暖を取りながら泉が話し始めるのを待つ。
泉もお茶を一口飲んで体を落ち着けると、微笑みを絶やさずにゆっくりと話し始めた。
「そうですね……。たま子様が、今……得ている知識も、概ね正しいと……私は、思います」
「え⁉ 女の子が健やかに成長出来ますように、とか、結婚出来ますようにって事ですか?」
「はい……数多ある諸説の一つでは、ございます……さて、どこから……お話、しましょうか」
 泉は指を顎にあてて思考を巡らせると、胸ポケットから櫛と一枚の紙を取り出して、たま子の前に広げてきた。櫛の方は、たま子が知っている人形を直す為の歯幅が小さいセット櫛だが、広がった紙は簡易的な人の形をしていて、逆にそれ以上の情報が無くて動揺する。
「あの……これは?」
「これは、この国で最初に作られた……ひな人形で、ございます」
「え⁉」
 たま子は泉と紙を何度も見返しながら、斜め上から降ってきた真実に驚きを隠せなかった。
「あ……えっと、本当なんですか?」
「はい。こちらは『流し雛』と、呼ばれ……人を模した人形、又は形代に……人間の『穢れ』や『厄』を、引き受けてもらい……川や海に、流し祈ることで……一年の無病息災を、願っておりました。この願いが、時を重ねる毎に……子供の病気や災厄を、引き受ける……身代わりとして『立ち雛』へと、形を変えて……ゆきます」
「へぇ……」
(凄い……今までしっくり来なかった情報が、歴史を知ることで凄い説得力になった! そうか、知りたいと思ったら、先ずは歴史から調べれば良かったんだ)
 泉の知識と教え方の上手さに、たま子は感動した。そして、曖昧だと思っていた情報に信憑性があった事を嬉しくも感じた。
「では、たま子様のご家族が……おっしゃっていた『婚期が遅れる』とは、いつ……どこから来たので……しょうか? これは『立ち雛』の、ひな人形が……『結婚式』を模して、作られている事に……繋がります。しかし、この説には……少しだけ、誤解がございます」
「誤解……ですか?」
「はい。何しろ、千年以上昔からの……文化で、ございますから……当時は特に、先程申し上げた『厄』のせいで……成人まで、生きられない子どもが……沢山おりました」
 泉の声が少し悲し気に震えた。たま子は話を聞きながら、夏になると必ず戦争の話でお酒を飲む父と祖父を思い出した。詳しい話を傍で聞いたことは一度も無かったが、泉もあの時の彼等と同じ感情を抱いたのではないだろうか。
「そこで、当時の人々は……『子どもの成長と幸せな人生』を『結婚』と言う……分かりやすい象徴として、ひな人形を作りました……」
「はい……あれ? でも、たまたま『幸せの形』が『結婚式』だっただけで、それだけで婚期が遅れるって言うのは、大袈裟ですよね?」
(しかも、話だけ聞いていると、ひな祭りって女の子だけじゃなくて、男の子の成長を願う行事だって言っているみたいに聞こえる。いつから、ひな祭りは女の子だけのお祭りって思われるようになったんだろう?)
 新しい疑問に頭を抱えるたま子に、泉は焦らず丁寧に説明を続けた。
「ええ。これは、ひな祭りの期間が……一ヵ月と満たない事に、繋がってゆきます。子どもの『穢れ』や『厄』を、風邪や厄災が多いこの季節に……代わりに引き受けた、人形たちは……川や海に、流される代わりに……箱の中で、ゆっくりと浄化させることで……また来年、再来年と……子ども達の身代わりを、担うことが出来るのです。これを『早く仕舞わなければ、結婚式が挙げられない』と、素直に受け取ってしまった誰かが……『ひな人形を仕舞い忘れると結婚式が遅れる』と、更には……『女の子がお嫁に行くのが遅れてしまう』と、広めてしまったのです……」
「そうか……そうだったんですね!」
(私は、ずっと飾っていたいって思ってたけど、ひな人形にそんな役割があったなんて知らなかった……じゃあ、早く仕舞って休ませてあげることも、大事な意味があったんだ)
 たま子は何度も頷いて、忘れない様に指で数えながらひな祭りの原点を反芻すると、泉に向かって顔を輝かせた。
「うん! なんかしっくり来ました! そっか……早く片付けるって行動の意味が、どこかの時代でごちゃごちゃになっちゃったんだ……最後の片付けの意味まで知れて、良かったです」
「ごちゃごちゃ……ふふ。そうですね、良い表現だと……思います」
 泉はたま子なりの解釈にふわりと微笑んだ。からかっている訳でも、馬鹿にしている訳でもなく、素直な表現力を彼なりに評価しているようだった。
「私は……昔の人々の願いも、現代の人が考える意味も……根底は同じだと、考えております……子どもが健やかに育ちますように、そして……その先でもしも、結婚と言う道を選んだのだとしたら……心から、幸せになって欲しい。と……」
「そっか……あの、教えてくれて、ありがとうございました! それで、えっと……その櫛は、ひな人形用の櫛、ですよね?」
 たま子が机に置かれたまま一度も触れられていないセット櫛を指さすと、泉は「はい」と微笑んで櫛を手に取った。泉の手で大人しくしている櫛には桃の花が焼き付けられていた。
「実は、現代のひな人形と……櫛の影の役割は、少しだけ……似ている所が、ございます」
 泉はゆっくりと櫛をたま子の視線迄持ち上げると、次の瞬間、両手からパッと櫛を消してしまった。
「え⁉ なに、手品?」
「ふふ……。櫛にも、ひな人形の様に……髪から梳き落とした『厄』を、自らを休ませることで……ゆっくりと浄化する、習慣が……ございます」
「しゅうかん? え、櫛にもお休みする時があるんですか? 自分で消えちゃ、う……えぇ!?」
 混乱しているたま子を眺めながら、泉は楽しそうに櫛を空中から出し入れしている。その仕草は手品と言うより、先程たま子が店内で一生懸命説明した時の手振りに似ていて、何度見ても消えたり現れたりする仕組みが分からない。
「櫛は、ひな人形の様に……引き受けた厄を落とす期間が、設けられておりません。それ故に、櫛は……自身が引き受けられない程の、厄を溜め込んでしまうと……持ち主から隠れて、自身の身体を……自然浄化させ、このように……再び持ち主の、厄を受け取る準備をして……戻って来るのです」
「へぇ~……?」
「ふふ……今は私がどうして、ひな祭りに詳しいか……それだけでも、理解していただければ……」
「あ、はい! 詳しいのは充分伝わりました。ありがとうございます!」
(よく分からないけど……もしかしたら家の櫛も、私が失くしちゃったんじゃなくて、櫛の方が一回お休みする為に隠れたって言いたかったんだよね? 私、もうそう言うおとぎ話みたいな感じの内容を素直に信じられる年じゃないんだけど……今は合わせておこう)
 たま子は泉の手からするりと現れた櫛を受け取ると、ポケットに入っていた全財産を机の上に置いて頭を下げた。一日中歴史の授業を聞いた感覚だったが、ふと壁掛けの時計に目を向けると、まだ夕方にもなっていない。不思議な感覚で店の外へ出ると、あの黒猫が退屈そうに待っていた。
「あ‼ あなた、いつの間に外に居たの?」
 思わず問いかけたたま子を無視して、黒猫は後から店を出てきた泉の方へ、喉を鳴らしながらすり寄って来る。何かを囁きながら黒猫を一撫でした泉は、同じ手でゆっくりとたま子の背を押した。
「ご来店、お買い上げ……誠にありがとうございました。この時間は車が多いので、どうぞ彼女に……道案内をお任せください」
「は、はい。本当に、ありがとうございまし……あ、待って!」
 黒猫が走り出してしまった為、たま子は最後に泉の表情を見る事が出来なかった。帰り道は行よりも短く、駆け足だったせいか、駄菓子屋の前を通り過ぎる頃には汗だくになっていたあの日を、昨日の事の様に覚えている。


 最後まで話し終えたたま子が視線を櫛から佳奈恵に移動させると、佳奈恵は自分の腕の中で眠る怜美を見下ろしていた。
「佳奈恵さん……こんな、こじつけみたいな話に付き合ってくれて、ありがとう」
「……」
 たま子が話し終わっても、佳奈恵は何か考え込んでいる様で、反応が無い。照明の反射で表情も伝わらない為、たま子は最後に要点だけまとめた。
「私は、あの時に失くした櫛が今出てきた事で、泉さんが言っていた意味がようやく分かった気がしたの。怜美ちゃんと佳奈恵さんの幸せの為に、ううん。家族の健やかな幸せの為にひな壇を飾ろうとしたの。今は分かってもらえなくて良いわ。ワガママな行動しちゃって、ごめんなさい」
「いえ‼ いいえ、あの……謝らないで、ください。私の方こそ、あの……」
 顔を上げた佳奈恵の眼から、みるみるうちに涙が溢れ出てくる。怜美に涙が落ちない様に片手で慌ただしく頬を擦りながら、佳奈恵は声を震わせた。
「私……知らなくてぇ……小さい頃、私……お雛様とお内裏様でおままごとして……お母さんに怒られちゃってぇ、それ以来かざっ、飾ってもらえなくてぇ……っ!」
「あらあら! 擦っちゃダメよ。お化粧も落としてないのに……」
 たま子が一番近い所にあったタオルを引っ張って佳奈恵に渡すと、彼女が力ない手で伸ばされた手を掴んでくる。
「かなえさ……!?」
「違う……違うんです。こんなことが言いたいんじゃなくてぇ……私、怜美の泣き顔ばかり見てて……怜美が泣き止む事しか考えてなくて……たま子さんの方が、よっぽど私たちの事考えてくれたのに……私ぃ……」
「うんうん。佳奈恵さんは、怜美ちゃんの事一番大事に考えてくれているわ。今はそれだけ、お互いが分かっていれば良いと思わない?」
「思わないですぅ~‼ お雛様、飾りましょうよぉ~。玄関か、私と純平さんの寝室とか……それで、全部嫌なモノ、引き受けてもらいましょうよ~!」
「佳奈恵さんがひな人形を飾ることに前向きになってくれたのは嬉しいけれど、純平とも話し合って決めましょう? ちゃんと、昼間の怜美ちゃんの事も話して、ね?」
「はいぃ~。話す……話しますぅ……うぇーん‼」
 佳奈恵はタオルに顔を埋めると、昼間の怜美の様に大泣きした。たま子は初めて佳奈恵を優しく抱きしめると、手にした人形用の古い方の櫛で、彼女の髪を梳く様に頭を撫でた。
(今度、ちゃんとした人用の櫛を、佳奈恵さんと買いに行きましょう……もう泉さんやあの黒猫は居ないかも知れないけれど、駄菓子屋さんがあった辺りに行けば……もしかしたら近くにお店はあるかも知れない)
 随分と長い話をした気がして、ふとテーブルに置かれた時計の方を振り返る。すると、純平が帰って来るよりも遥かに早い時間帯であることに驚いて、思わず笑ってしまった。
「ふふ……あのお店に居た時みたいね。それじゃあ、佳奈恵さん……先にご飯、一緒に作りましょうか? さっきの、ひな祭りでおままごとのエピソード、聞かせてちょうだい」
 ぐずる佳奈恵はまるで、本当の子どもの様で。たま子は再び笑うと、我が義娘を愛し気に抱きしめた。


 夜が明けて、今日も解通易堂は変わりなく開店する。配達の本職が非番だった和寿は、徹夜で作業を手伝わされた挙句、営業中の店の雑務まで押し付けられていた。
「はぁ……俺ぁ、こういう客の前に出続けるのが向いてねぇから、今の仕事続けてんだよ」
「ふふ……ですが、今日は一段と……客足が多い日に、なりそうなので」
 そう言って微笑む泉の予想は、見事に的中した。二人で梱包した櫛は午前中だけでも半分程が客の手元に渡ってゆき、瞬く間に在庫が減り続けている。
「……こらぁ、一体なんの騒ぎだ?」
 イベントに乗じて度々繁盛するならいざ知らず、なんでもない休日にここまで一足が多いのは『店が人を選んで呼んでいる』と噂されている解通易堂では滅多にない珍しいことだ。
 首を傾げながら品出しをしている和寿の後ろで、複数人のお客様と対応している泉は、至って当たり前の様に接客をしている。
「いらっしゃいませ……本日は、どの様な櫛を……お求めですか?」
 訪れたお客様は口をそろえて「櫛がなくなってしまった」と言う。一重に「失くした」と言っても、理由は様々だ。
「大学生活の為引っ越しをしたら、実家に忘れてきたみたいで……でも実家に連絡しても、櫛が見つからないんです」
「年度が替わるからちょっと掃除をしていたら、いつの間にかなくなっちゃったのよ~」
「普通に櫛の手入れをして、いつもの場所に置いておいた筈なのに、気付いたらそこから消えていて……まるで、自分から隠れちゃったみたいに」
 お客様一人ひとりの声を聞きながら、泉はそれぞれに櫛を誂えて、決まって同じ台詞を唱えた。
「年度の境目で、寒暖の差も大きいこの季節……貴方の『厄』や『穢れ』を梳き、身代わり続けた櫛は……ひな人形の様に、ゆっくりと時間をかけてその身を浄化し……再び活躍できる状態になったら、戻って来るものなのです。今はひと時の暇を貰っているだけなので、気長に待ってみてください」
 お客様は泉の話を不思議そうに聞いている。代わりの櫛を買って帰る者も居れば「じゃあ、見つかるまで待ってみます」と、その場で帰る者も居る。
 泉は全てのお客様に向かって丁寧に頭を下げると、ひと段落した店内を見渡して、和寿にこう続けた。
「昨晩、櫛が『お休み』すると言った……意味が、伝わりましたか?」
「……旦那がまだるっこしい性格だってぇのは、よーく分かったぜ……」
 重たい溜息と共に、和寿は箒を持って店の外へ出る。寒波が続いていたが、今日は肌着が一枚余計だと感じる程温かい。
「もうじき春……か……」
 和寿は徹夜明けの眼を擦りながら独り言を呟いて、沢山のお客様が歩いて行った出入り口付近の土汚れを払う。
 すると、遠くの方から、老婆の明るい声が近づいて来るのが聞こえた。
「ああ! やっぱり、まだあったわ! 佳奈恵さん、こっちよー!」
「お義母さん、待ってぇ~! 背中の怜美がめっちゃ熱いのぉ。上着一枚脱がせるの手伝ってぇ」
 後から続く若い女性の声は、心なしかまだ喋り慣れていない様子で、おぶっている娘の心配をしている。視線を上げた和寿には、初々しいその『親子』がとても仲睦まじく見えて、無意識に泉の台詞が口から零れた。
「いらっしゃい……ようこそ、解通易堂へ……」
 瞬間、和寿を見た老婆の表情が少女の様に輝き、頬を桜色に染めて大きく手を振ってきた。
「はーい、おじゃましまーす!」

【完】

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