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泉御櫛怪奇譚 第十三話

第十三話『八重紅葉荘暗闇事件【前編】』
原案:解通易堂
著:紫煙

――人の情とは複雑なもので、愛情と確信していた物が刹那に壊れたり、友情という言葉で括られた群衆の中に、忌み嫌う者が含まれていたり……。
偽りの感情を顔の表面に貼り付けてその場の情を取り繕っても、内に秘めた憎悪は徐々に、無自覚に、確実にその裏で育まれていくものです。
その憎悪を発散する為の方法を、貴方はご存じですか?
これは、憎悪をとある方法で利用してしまった、悲しい物語でございます――

十三話登場人物


 待ちに待った八月。何日も続いていた雷雨がようやく過ぎ去り、今日は誰が見ても行楽日和。
一部ではまだまだ灼熱地獄が地上を支配しているらしいが、県境にそびえる標高の高い山の中では、寧ろ半袖が涼しいくらいの風を感じる。
 マホロは、木漏れ日の隙間から太陽のある方向を見上げて、隣に居るマリに声をかけた。
「マリ、晴れて良かったね! ちょっと足元がぬかるんでるけど、これくらいなら歩く邪魔にならないよ」
「……」
「ふふ、言わなくても、お姉ちゃんには分かるよ。マリも歩くの好きだもんね」
 マホロが握った手に力を込めてマリの方を見ると、マリは嬉しそうに彼女を見上げて、隣にピタリと寄り添った。マリは言葉を介しての会話が出来ない。マホロや両親はそれでも構わないと、彼女を大切にしている。
「初めての二人旅だもんね。いろんな所へ行って、めいっぱい楽しもうね!」
「……ン」
 マリは喉の奥で空気を出して返事をする。彼女の機嫌が良い時、この声を聞くのがマホロは好きだ。マリは彼女の手を引いて歩きだし、とある山の観光旅館『八重紅葉荘』まで向かった。
 『八重紅葉荘』は、元は誰かの別荘を民宿用に改良した和風の観光旅館。四季折々の絶景も然ることながら、最近は第五の季節『梅雨』つまり、雨上がりの景色がフォトスポットとしてテレビに取り上げられる程有名だ。歴史、文化、自然。大人が好きそうな単語を並べて全国各地に広まったこの場所は、慎ましい新婚旅行や昔から贔屓にしている大手会社の懇親会や暑気払い、慰安旅行などに利用されている。
 デメリットを挙げるならば、カーナビに表示されない細い道を、専用の小型バスが一日5本しか往復していない。旅館付近は、絶景スポット以外は森で囲まれていて室内が薄暗く、景観はあまり良いとは言えない。写真専用SNSの為だけに訪れた若者達は、不気味にも見えるこの旅館内の写真はあまり撮りたがらないらしい。
 マホロが『八重紅葉荘』を知ったのは、小学生の頃。夏休みに旅行をしたのがきっかけで、毎年欠かさず違った季節に予約を取るようになった。普段は遠征には両親のどちらかが同行するのだが、マホロが大学を卒業し、社会人になって初めてのお盆休暇に提案をしてきたのだ。
「実は、マリと一緒に遠征してみたいの。マリと、私だけで……だ、大丈夫だよ! マリのことは私が一番良く分かっているし、八重紅葉荘は毎年家族で一緒に行ってるから、迷ったりしない」
 マホロの提案に、両親は一瞬不安そうに互いの顔を見合わせたが、最後には承諾してくれた。出かける際、父親はマリと視線を合わせる為にしゃがんで、彼女の肩を優しく包んだ。
「マリ、気を付けて行くんだぞ」
「……ン」
「よし、行ってらっしゃい」
 両親に背中を押され、マホロは前を向いて歩きだす。出掛ける時は緊張していたマリも、歩く度に風の匂いが変わる。肌に伝わる温度が変わる。それだけで、彼女の心は兎の様に軽やかに跳ねていた。それはマホロも同じで、この年の離れた妹と旅行が出来る事を、とても嬉しく思っていた。
(うん。きっと大丈夫。マリがいつも通り楽しそうだし、私だって、歩いているだけでこんなに楽しいんだもん!)


 マホロとマリの移動手段は、基本的には徒歩と公共交通機関である。特にマホロは、マリと一緒に歩けるようになった時から、徒歩での移動を何より優先していた。
「本当に晴れて良かったねー! 去年は車で移動したけど、高校生の頃はお母さんに『バスと電車の乗り方は覚えなさい』って、旅館までの道を教え込まれたんだ。だから安心してね」
「……ン!」
 予定通りのバスに乗り、駅の改札を抜けて新幹線に乗り換える。旅館の最寄り駅まで順調に移動している途中の駅で、どこからか果実の甘い香りと紅茶の香りが漂ってきた。
「あ! ここのカフェ、ずっと入ってみたいって思ってたお店なんだよね! マリは初めてでしょ? 入ってみる?」
「……ン」
 スマホを確認すると、時計アプリが11時30分を伝えてくる。
(シャトルバスの時間は、10時、12時、13時半、16時半、18時半の5本だけ……私のチェックインは17時だから、旅館の最寄り駅には早めに出発しても、13時までに着けば確実に間に合う……せっかくだから、休憩がてら寄り道しても、良いよね)
 マリに店の場所を教え、美味しそうな香りが漂う建物の扉を開ける。そこはマホロが想像していたよりも賑やかで、彼女の心を躍らせる空間だった。
「いらっしゃいませ。お客様、出口付近のお席がよろしいですか? それとも静かなお席がよろしいですか?」
「あ、出口に近い席でお願いします」
 マホロとマリは席に案内してもらうと、お勧めメニュー等を伝えてくれたウエイトレスにお礼をして、レモンの入った水で喉を潤しながら初めて入った店の雰囲気を楽しむ。
(色んな花が飾ってあるんだ……一番近くに飾ってあるのは向日葵だって分かるけど、後は名前が分からないなぁ……香りが独特だから、南国の花なのかも)
「良い香りで一杯だね、マリ。それに色んな人が歩いてる。足音がタップダンスみたいで面白いね」
 食事が届くまでのひとときを楽しんでいると、突然マリの足元から陶器の様な物が叩きつけられた音がした。
 華やかな雑音が、一瞬だけ静かになる。
 音はコロコロと転がっていき、マホロの足先に当たって止まる。大きさから、それがコップだと理解するまでにそう時間はかからなかった。
「も、申し訳ございません!」
 先程のウエイトレスの声ではない。恐らく新人であろう若い女性の声がマホロに頭を下げる。その余りの勢いに、風でマホロの髪が僅かになびいた。
「わ、私は大丈夫です。マリ? マリは大丈夫?」
「……ン」
 心配するマホロに対して、マリは特に気にしていない様子だ。ウエイトレスは慌ててマリの足元にしゃがむと、コップとその中身を確かめる。
「すみませ、申し訳ございません。コップは割れていないのですが……すみません。足元を濡らしてしまいました……」
「良かった……濡れているだけなら大丈夫です。私が……」
「俺が拭きますので、店員さんは彼女に新しい物を持って来てあげてください」
 マホロが鞄からハンカチを取ろうと店員に背を向けた瞬間、知らない男性の声が高い位置から聞こえた。男性の中ではやや低めの声だが、マホロの父親と近い音域。煙草を吸っているのか、声は掠れているが鼻濁音の入った美しい発音に、彼女は思わず声のする方を見上げた。
 マホロとマリの席の前に立っていたのは、半袖のワイシャツにジーパンのラフな装いで、光の反射で茶色っぽく見える髪を耳が隠れる程度までの短さに切りそろえた、清潔感のある男性だった。唇の右端にホクロがあり、女性受けの良さそうな雰囲気を醸し出しているが、マホロは他の席から彼に熱い視線を送る女性達と違い、容姿に反応を示さない。
「君はそのままで大丈夫ですよ。俺が拭きますので」
「いえ、あの……」
「大丈夫です。このコはつま先が濡れているだけなので……それよりも、君の靴の方が飲み物で濡れてしまっているので、そのままじっとしてください」
「え? はい……」
 擦れた声の男性は、マリの足をポケットから取り出したハンカチで軽く拭いた後、わざわざハンカチを広げて布の面を変えてからマホロの足に触れてきた。細いが節ばった指が特徴的で、指輪などは付いていない。
(わ、わ! 凄い親切にしてもらっちゃった。お礼しないと……)
「ありがとうございます。あの、何かお礼を……」
「いえ、気にしないでください。俺達はもう行く所なので……」
 男がハンカチをポケットに仕舞うと、店の奥の方から別の男性の声が近づいてきた。
「ダイちゃん、トイレ空いたよ……? どうしたの、知り合い?」
 二人目の声は男性にしてはやや高い音域で『し』の発音が独特だった。舌足らずな発音と言えば可愛らしいだろうが、果たして男性の声に対して表現しても良いかどうか、判断が難しい。
「ううん。さっき、俺とぶつかった店員さんがこのコに飲み物かけちゃったんだ。俺にも責任があるから、今拭いてあげたところ」
「流石はダイちゃんだな! 気配り上手」
「その『ダイちゃん』呼び止めろ。いつまで子供の頃のあだ名引きずってるんだよ」
 二人の男性は仲良さそうにマホロの前で会話をしていて、傍で聞くだけで信頼感が伝わって来る。
(私より大人っぽいな。私が座ってても背が高いのが分かるし、一人目の人の手……大きかったけど、細くて綺麗な手だったから、お父さんみたいな技術系のお仕事はしていなさそう)
 二人の会話に和んでいると、掠れた声の男は「じゃあ、行ってくる」とお手洗いの方へ向かって行った。高い声の男性が、心配そうにマリの方を覗き込む。
「大丈夫? お疲れ様だねぇ」
「……ン」
(マリが家族以外の人に返事した! 珍しい……!)
 マホロが驚いた表情でマリの方を見ていると、視線を移した高い声の男が申し訳なさそうに握手を求めてきた。マホロが触れた手に応じて左手を差し出すと、彼の薬指にはめた指輪の感触が伝わる。
「本当は、何かお詫びをしなくちゃいけないんだろうけど、どうか、僕の友達を許してあげてくれないかな?」
「そんな! もう充分です。握手まで……ありがとうございます」
「良かった。お互い素敵な一日になると良いね」
「はい……お二人は仲良しなんですね」
「うん。ダイちゃ……ダイキは幼馴染で……親友なんだ」
 男は照れくさそうに握手を解いて、少しだけ声を顰める。おそらく擦れた声の男性には内緒にしたいだろう単語を聞かせて貰ったマホロは、堪らず笑顔になった。
(本人が居なくても、親友って言うの恥ずかしい人なんだな。でも確かに……友達って言うのは簡単だけど『親友』って……私でもこの人! って言える人がパッと出てこないから、よっぽど大切な言葉なんだ)
「……なあ、そっちでいつまで女の子口説いてんの? オレも混ぜてよ」
 不意に、背中の上の方から声が聞こえた。
「ねえねえ、もしかしてきみ一人?」
 高い声の人と知り合いらしい声は男性のもので、耳元で囁かれると腹の裏に響きそうな重低音だ。音楽で例えればベースの一番低い音。マホロが真っ先にイメージしたのは、父親が使っているマッサージ機の振動だった。
「え? 私ですか?」
「そうそう。きみ一人? 良かったらそこのお兄さんとオレとで相席しない?」
「え、いやあの……」
 マホロが断ろうとすると、彼女の傍にいた高い声の男性の手が、優しく彼女の肩に触れた。制止されたと察したマホロは、咄嗟に口を噤む。
「ゲン。相席も良いと思うけど、そうしたら誰か一人立たなきゃいけなくなるよ。どっちの席も四人掛けだから、椅子が足りない」
「え? 彼女一人じゃないの?」
 覗き込むように椅子がずれる音がして、三人目の男性の顔がマリに近づく。マリは真っ直ぐ彼を見つめた後、興味無さげに視線を元に戻した。
「あー……そっか、残念。仲良く出来そうな雰囲気だったのに」
 低い声の男性もマリに興味が無いのか、軽い口調で椅子を元の位置に戻す。高い声の男性はマホロから手を離すと、こっそり彼女に耳打ちした。
「悪いヤツじゃないんだ。実は本命のコが居るんだけど、そのコにはこんな風に気さくに話せないんだよ?」
「え⁉ 全然イメージと違います!」
「でしょ?」
 そう言って笑うと、機嫌を損ねた低い声の男の席へ戻って行った。
 マホロの背中の方の席で、直ぐに楽しそうな男性の笑い声が聞こえてくる。
(三人目の人も、幼馴染で親友なのかな? 良いなぁ。大人になっても遊べる関係……ちょっとだけ、羨ましい)
 再び華やかな香りと賑やかな世界に包まれたマホロは、少しだけ彼らの仲睦まじい会話にこっそり耳を傾ける。
「でさ……ゲンは、いつ告白するの?」
「うるせえな。ショウヘイと違って、オレはもう少し遊んでいたいの」
「ゲンは嘘が下手だなぁ。本当は……」
 お手洗いから戻ってきた掠れた声の男と合流すると、話題は高い声の男に集中する。
「ショウ、ちゃんと結婚指輪持ってきたか? 旅行が終わったら直ぐに彼女に渡すんだろ?」
「うん。ダイちゃんがお勧めしてくれたお店で、良いのが買えたよ」
「でも意外だよな~。オレはてっきり彼女はショウヘイじゃなくてダイキを選ぶと思ってたのに……」
 低い声の男が何気なく言った一言で、掠れた声の男の雰囲気が少しだけ変わる。
「……俺には勿体無い女性だよ。ショウじゃなくてゲンがあの子と結婚するってなったら、何が何でも阻止してた」
「ああ? てめえ喧嘩売ってんのか?」
「冗談。そもそも、振られた俺に彼女をどうこうする権利はないよ」
(あれ? 掠れた声の人、今ちょっと言葉に棘があったような……? まあ、男性の会話なんてこんなもんか……)
 小さな針がマホロの胸を突いた気がしたが、彼女は直ぐに忘れて、彼らが店を出るまでマリと時間を忘れて楽しんでしまった。


 結論から言うと、マホロとマリは『八重紅葉荘』には半日も遅く着く結果になった。迷わないと思っていた道に少し迷い、本数の少ないバスに乗り遅れてしまったのが主な原因だが、歩くのが楽しくて寄り道をしてしまった自覚はある。
(チェックインの時間、ずらしてもらえて良かった……でも、楽しいに夢中になると、時間を確認し忘れちゃうんだな。反省……)
「マリ、私のせいでこんな遅くなっちゃってごめんね」
「……」
 19時だと主張してくるスマホを確認しながらマリに謝ると、彼女は特に気にした様子も無く、興味深く旅館の中を見渡している。
「いらっしゃいませ。あら、ミヤウチ様。いつもご利用ありがとうございます」
「女将さん! お久しぶりです。遅くなってしまってすみません」
 受付を済ませながら、隣で大人しくしているマリの方に顔を向ける。
(それでも、マリの夜ご飯の時間が過ぎちゃったから、早く部屋に入って、準備しないと……)
「……号室の鍵です」
「え? すみません。もう一度教えていただけますか?」
 考え事をしていたせいで、受付の人が教えてくれた部屋の番号を聞き逃してしまう。鍵に繋がれているタグは使い古されていて部屋の番号が分からない。
「ああ、えっと、扉が開いている部屋がありますので、そちらを目指してください。今日は満室なので、空いている部屋はミヤウチ様が最後になります。直ぐに分かると思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます。よし、マリ行こう!」
 マホロはなんとかチェックインを済ませて『扉の開いている部屋』へ向かう。マリは早く部屋に入りたいのか、マホロの左手を引っ張って歩く。
「そうだよね。マリも早くお部屋入りたいよね。開いてる部屋はどこかなぁ?」
「……ン!」
 マホロよりも先に『扉が開いている部屋』を見つけたマリは、ぐいぐいと彼女を引っ張る。
「ふふ、急がなくても大丈夫だよ。あ、さてはお腹空いてるのかな? 部屋に入ったら直ぐご飯にしよう……ね……?」
 マリと話しながら電気の付いていない部屋の中に入った刹那。マホロの体は何かの力によって突然引っ張られた。
「きゃっ‼」
 衝撃でマリと繋いでいた手が離れる。咄嗟に電気を点けようと手を伸ばしたマホロの手は人ならざる肌触りの手によって拘束され、振り回された勢いで左右の間隔を失う。
(なにっ!? 何が起きて……??)
「んぐっ‼ っふ……」
 思考が働く前に壁に背中を押し付けられ、顔を目の粗い布の様な手で塞がれてしまう。手は一本だけのようで、マホロがいくら両手で顔から手を引きはがそうとしてもびくともしない。
「っ!!?」
(手はゴワゴワで大きいのに、腕はお父さんより全然細い。男の人? でもじゃあ、この手は何??)
訳が分からない事態に、マホロの思考が一瞬停止する。抵抗していた手も力を失い、彼女の命運はこの『手』に委ねられてしまう。
(なに? ゴワゴワした布みたいな手、湿った鉄の匂い……お父さんの手よりも大きくて、人よりも獣っぽい……私、これからどうなるの……怖いっ!!)
 息をするのも忘れて硬直してしまっているマホロに、マリが戸惑っている気配が伝わってくる。マリが動いていないとすれば、そこが入り口付近で間違いない。
 マホロの恐怖が使命感に変化し、今度は顔を塞ぐ手が離れない様にしっかりと両手で抑え込む。
「んんっ! んー‼」
 抵抗とは違うマホロの力に、手が一瞬怯む。マホロは僅かな隙間に自分の指をねじ込んで口の間に隙間を作ると、助けよりもマリを優先して叫んだ。
「マリ、逃げて‼」
(私のことは良いから、早く逃げて、フロントの人を呼んで‼)
 手は焦ったのか、先程よりも強い力でマホロを押し付けてくる。熱くなった背中よりも、ごりごりと擦り付けられた後頭部が痛い。しかし、マリは大人よりも小さい体を目一杯大きくして、初めて唸り声を上げた。
「う……ううゥ……」
(ダメ、逃げて! マリも捕まっちゃう‼)
 すると、突然マホロを固定していた手が突然離れ、大股で部屋の奥へ移動する足音と、遠くの方で薄い皿をまとめて割った時の様なガラスが割れる音がした。力が抜けたマホロの体が崩れ落ちる様に床にへたり込む。辛うじて上半身を支えた自分の腕が震えているのを感じる。
(え、逃げた? ガシャンってガラスの音……窓? 風が入って来る。外に何かが落ちる音……誰かが逃げた? だれ……そもそも人?)
 暗闇の中で混乱しているマホロに、すかさずマリの体が当たる。唯一理解できるマリの温もりに、耐え切れず体を預けて抱きしめた。
「マリ……マリは無事? ああ、良かった……‼」
(怖い。助けを呼ばなきゃいけないのに、腰が抜けて……大きな声が出せない……怖い‼)
「……うぅ……」
 ふと、割れた音の下で苦しむ声が聞こえる。他にも人がいる恐怖で再び緊張が走るマホロが次に聞いたのは、部屋から入り口に向かって左側から近づいてきた大股の足音と、入り口付近から部屋に入ってきた足音だった。
「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
 低く掠れた男性の声が上から聞こえる。優しく掴まれた手は明らかに人間の物で、マホロはほうとため息をついてから、手の感触に既視感を覚えた。
「あの……喫茶店で、足を拭いてくれた人ですか……?」
「え……もしかして君は……」
 しかし、掠れた声が全てを言い切るより先に、遠くの方で聞こえる呻き声にハッとしたマホロが、声の方角を指さして叫ぶ。
「あの、あそこにも、人がいるんです! 誰かが倒れているんです‼」
「人? ……おい、もしかしてショウか‼ 大丈夫か⁉」
 最初の声はうめき声の人と面識があるようで、マホロの腕を話した声が、すぐさまうめき声の方へ駆け寄るのが聞こえた。
(男の人が二人……私の部屋になんで? そもそも、私の部屋は本当にここ? 何が起こったの?)
「おい、真っ暗ん中でなに騒いでんだ?」
 混乱するマホロの耳に、入り口付近からもう一人の男性の声が聞こえる。最初に入ってきた男よりも低く鼓膜に響くその男からは、ふわりと木を燻したような、微かな煙と木製の香りがした。
(やっぱり、喫茶店で出会った、あの仲良しの三人組だ! 同じ旅館に泊まっていたなんて……!)
 パチンと電気を点ける音がして、全員が凄惨な部屋の光景を目の当たりにした。
 二人部屋程度の広さの和室に、散乱した私物と雑にずらされたちゃぶ台サイズの机。倒れた声の高い男とそれを庇う声の掠れた男。割れたガラス窓から差し込まれた風が、唯一関係なくカーテンを弄んでいる。
 マホロが分かるのは、この部屋は恐らく自分たちの部屋ではなく、昼間に合った三人の誰かの部屋で、彼等と共に何らかの事件に巻き込まれた。という現実だけだった。
「ショウヘイ!? おい、どうした!」
 最後に入ってきた低い声の男が、倒れた男に駆け寄ろうとする。しかし、最初に声をかけてきた掠れた声の男は片手を伸ばして彼を制止すると、冷静に状況説明と指示を出した。
「こっち来るなゲン! ショウの頭から血が出てる。俺が出来る限り手当するから、お前は警察と救急車呼べ! そんで外を見に行ってこい」
「な、なんでだ?」
「多分、あそこから犯人が逃走した。 もしかしたらまだ近くにいるかも知れない」
「う、おおう、分かった!」
 ゲンと呼ばれた男は踵を返して大股で部屋を出ようとして、ふとマホロとマリの前で足を止めた。
「きみ……大丈夫? 痛くない?」
「へ……?」
 思わず呆けた声で返事をすると、奥の方から掠れた叫び声が聞こえる。
「ゲン、そのコとマリは大丈夫だから! 早く!」
「でも血が……! えっと……不躾で悪いんだけど、ちょっと、顔を触るよ?」
「えっ⁉」
 驚くマホロの許可も聞かずに、ゴツゴツした手がそっと彼女の頬に触れる。先程荒々しく塞いできた、人なのか獣なのかも分からない手と同じような感覚を思い出して、マホロの身体が強張る。
「……よし、きみは傷付いてないね。顔の周りに血が付いていたから、ちょっと心配で」
 骨太な手が優しくマホロの頬の血を拭き取ると、落ちた化粧が目立たない様に少しずつファンデーションを肌に馴染ませた。
「あ……ありがとうございます」
 マホロの肩から力が抜けると、ゲンはふわっと笑って、次にマリの方を見た。
「うん。こっちのコも……大丈夫そうだね。それじゃ、オレ、フロントと外に行ってくるから。自己紹介はまた後で」
 走り去る足音を呆然と聞きながら、血が付いていた頬を擦ってみる。鉄の香りが本物の人間の血だったことにショックを受けて、マリを抱きしめる手に力がこもった。
(殴られた人、殴った相手……血が付いた手で私を掴んで……これは、夢でも何でもない……現実に起きた、事件なんだ……!)

LINE_ALBUM_公開利用可能イラスト_221027


 スマホの時計機能が19時30分を伝えてくる。マホロとマリが入ってしまった部屋は118号室だった。フロントから渡されたマホロの鍵は、ダイキとゲンがよく見ると『108号室』と書かれてあり、彼らが借りた118号室の向かいの部屋だった。
(女将さんが部屋の扉を開け忘れていたんだ……素直に号室までちゃんと聞き返せばよかった……)
 肩を落とすマホロを心配するかのように、マリが彼女の腕に体ごと押し付けてくる。
「マリ……怖いよね。ごめんね……もう少し我慢してね……」
 マホロがマリの顔を触り、平静を保とうとしていると、最初に聞こえた優しい声の男がゆっくりと近づく音が聞こえた。
「えっと……昼間はどうも……。俺はタカハシと言う者です。間違いとは言え、この部屋でショウを……ショウヘイを見つけてくださって、ありがとうございました。お陰で、大事になる前に対応出来ました」
 男は震えているマホロの手をそっと包んで、事態がそれ程深刻ではない事を伝えてくる。
(掠れた声の人……タカハシさんも手が震えているのに、一生懸命私を落ち着かせようとしてくれてる。優しい人、なんだな)
「ありがとうございます……あ、私はミヤウチです。このコはマリで……えっと……その、ショウヘイさんは……」
「今は落ち着いて寝ていますが、頭を強く打ち付けているので、旅館の方に救急車と警察を呼んで貰いました。貴方にも、怪我が無くて良かったです。頭はまだ痛みますか?」
「いえ、大丈夫です……あの、ゲン? さんは……えっと、声が一番低い……」
 マホロの顔の血を拭ってくれた男の所在を尋ねると、男は少しだけ砕けた雰囲気で会話を続ける。
「今は、女将さんに警察と救急車がいつ来るのかの確認と、外の方を見ています……ああ、二人を下の名前で覚えているなら、俺もそっちの方が呼びやすいですかね? 俺の事は『ダイキ』と呼んでください」
「ダイキさん……」
(掠れた声の人がダイキさん。一番低い声がゲンさん。うめき声の人は……多分声が高くて舌足らずのショウヘイさん)
 ようやくこの部屋に訪れた役者の名前が揃った。マホロはうめき声しか聞いていないショウヘイ以外の事を知ろうと、乾いた口を必死に動かして問いかけた。
「三人は、ご友人なんですよね? 一体、何が起きたんですか?」
「友人……そうですね。大学時代からの『友人』です……」
「?」
 ダイキの声に違和感を覚えたマホロは、咄嗟に彼と距離を取る。
(ん? なんか……優しい人のはずなのに……『友人』がとても冷たく聞こえた……?)
 しかし、警戒心なく彼を見つめるマリの方を見て、気のせいだと首を横に振る。
 ダイキはショウヘイの様子を見ながら、マホロ達にも分かりやすいように状況を整理して説明を始めた。
「今居る場所は118号室で、俺とショウが一泊する予定でした。この旅館は三人以上だとファミリー用の部屋しかなくて、ゲンは部屋から出入口を見た時に右隣の117号室に泊っています。ショウの方は、外傷以外だと左手の薬指に付けていた婚約指輪と、この旅行が終わったら彼女に渡すはずだった結婚指輪が盗まれていました。俺の荷物からは財布が盗まれていたので、恐らく窃盗犯に出くわしたショウが、口封じで犠牲に……。詳しい事情や状況は警察に説明する為、現場はなるべく触っていません。割れたガラスがそのままだったりするので、あまり動かない様にしてください」
「分かりました」
「本当は、ミヤウチさん達には自分の部屋でゆっくり休んでいただきたいのですが……犯行が外部犯だとすると、暗闇で見えていないとはいえ名目上は『目撃者』なので、次に狙われかねません。暫くは、この部屋にいてください。もし犯人が君達を捜していたとしても、迂闊に現場には来ないだろうと言う、俺の判断です」
「ありがとうございます。あの……お水か何かをいただけますか? 私達、ここに来てから何も口にしていなくて」
「分かりました。今、チャットでゲンに伝えますね……あの、マリちゃん……は、その……」
 歯切れの悪いダイキに、マホロはマリの方を見る。マリは、一度は感情的になったものの、今は落ち着いてマホロに体を預けている。
「マリの心配をしてくださって、ありがとうございます。このコは見た目通り大人しい性格なので、叫んだり、パニックになって暴れたりすることはありません」
「そうですか、良かった……」
 ダイキはほうと息を吐いて、マホロの肩をぽんと叩いた。その手は男性にしては細くて華奢な形だが、マホロはその手が嫌いではなかった。
「ゲンの帰りが遅いので、ちょっとフロントまで行ってきます。ミヤウチさんは、申し訳ありませんがショウを看ていてくれませんか? と言っても、傍にいるだけで結構ですので」
「分かりました。マリ、一緒に行こう」
 ダイキに連れられて、まだ意識が戻らないショウヘイの隣に座らせてもらう。遠くなるダイキの足音を聞きながら自分なりに状況整理しようと深呼吸をした。
 スマホの時計は19時35分。マホロが事件に巻き込まれてから、まだ一時間も経っていない。
(私が分かるのは、獣みたいなゴワゴワで大きな手、滅多に喋らないマリが唸るくらいだから、きっと大きな人なんだと思う……大人の男の人を殴れるくらいだもんね)
 そっと手を伸ばして、ショウヘイの右手に触れてみる。掌はダイキと変わらないくらいの大きさだが、肉付きがしっかりしている厚い手だ。左手も確認してみたが、昼間にはあった婚約指輪が確かに無くなっていた。恐る恐る肘の辺りまでを触ってみたが、暗闇の中引き剝がそうとした腕に比べると、一回り程太く感じる。
(このショウヘイさんよりも大きな人だとしたら、先に部屋に入ったマリよりも、視線が高い位置にある私に気付いたんだよね。だから、見られたと思って目と口を塞いだ……)
 思考を巡らせていると、ダイキと入れ替わるようにゲンが部屋に入ってきた。ビニール袋と布が擦れる音がする。
「マホーロちゃん。ダイキから聞いたよ。ショウヘイ看ててくれてありがとうね。オレはゲン。素人玄人の『玄』って書いてゲン」
 ゲンは気さくな言葉遣いでマホロの前にしゃがむと、片手に持っていたペットボトルを差し出した。
「はい。コレ頼まれてたお水。後、マホロちゃん様にカロリーマイトもあるよ。チョコ味好き?」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
「うん。あ、マリちゃんの分もお水あるからね、ちょっと待ってね」
 ゲンは、わざわざマリの分も水を用意してくれていたようで、彼女の前に入れ物を差し出した。隣で美味しそうに水を飲むマリを確認して安心したマホロは、ペットボトルの水を一口飲んで、ようやくゲンの方を見て微笑んだ。
「ゲンさん、ありがとうございます。えっと……私は、真実の帆と、いとへんにお風呂の呂で『真帆絽』です」
「そうなんだ。改めてよろしく、マホロちゃん」
「はい……あの、警察と救急車は……」
 バス停から旅館までの移動時間は、調子が良ければ約2時間程度。流石に直ぐ来るとは思っていないマホロだったが、質問せずにはいられなかった。
「それがさ、ここって夜の運転めっちゃ危ないんだって。しかもちょっと前まで雨が降ってたから、今日中に辿り着けるかどうかも分からないって。救急車も一緒で、電話で聴診? っていうのをして、命に別状は無いから、症状が変わったらこちらの番号におかけくださいって」
 ゲンは更に、旅館で起きてしまった事件で、犯人がまだ旅館の周りにいるかも知れないため、今宿泊しているお客様には『野生の熊が目撃されたため、今夜は部屋を出ない様に』と告知したらしいことを説明してくれた。
 会話のネタが無くなると、今度はゲンの方から取り留めのない話が出てきた。
「マホロちゃんは、マリちゃんと一緒に旅館に来たの? この旅館は初めて?」
「いいえ。小学生の頃から常連で……女将さんと両親が仲良くて、毎年お泊りに来ているんです。でも、マリと二人で来たのは初めてで、それで……」
「そうなんだ。オレ達は、大学時代からつるんでいるんだよね。ダイキとショウヘイは幼馴染でさ。そんで、月末にショウヘイが結婚するから、独身三人で最後にパーッと遊ぼうぜって、ダイキがこの旅館を予約してくれたんだ。オレ達が最初に旅行した場所が、ここだったからさ……なんか、友情の証にーとか、友達だから一緒にお祝いーとか、ガキ臭いだろ?」
 ゲンは穏やかに寝ているショウヘイの傷口を労わるように撫でて、照れくさそうに笑った。
(ゲンさんが『友達』って言うと、なんか宝物を大事にしている。みたいな感じに聞こえるな……恥ずかしそうだし、なんか雑な言い方してるけど、本当は友達って存在が好きなのかも?)
 マホロはウトウトしているマリの頭を撫でながら、ゲンの言葉に対して首を横に振る。
「いえ、ガキ臭いだなんて……私も今年、大学の卒業旅行に友達と遊園地に行って『またみんなで来ようね』って約束したので、なんとなく……気持ちが分かります」
「ホント? ってことは、マホロちゃんは今24歳? あ、女の子の歳聞くのはセクハラだね。オレは29歳。留年したから、一年違いだけどダイキ達と同期生なんだ。これでチャラにして!」
 お願いと両手を合わせて謝罪するゲンに、マホロは「大丈夫です」と笑いを堪えて返すことしか出来ない。
(軽い言い方する人だけど、昼間にショウヘイさんが言っていたように、悪気がある訳じゃないんだ。多分、私達を和ませようとしてくれているんだろうな……マリが怖がっていないのが伝わるし、こんな状態なのに、笑い声が出そうになっちゃった)
 ふとスマホの電源を押すと、時計アプリが19時50分を伝えてくる。既に半日歩き続けた身体的疲労と、犯人と対峙し、今も尚続いている事件の関係者になってしまった精神的疲労で、マホロは座っているだけでギリギリの状態だった。
(まだ、まだ挫けちゃダメだ……私はともかく、犯人に唸ったマリはもしかしたら次のターゲットにされるかも知れない……私がしっかりしないと)
「まほろちゃん、大丈夫? 疲れてない?」
 顔色が悪いマホロを心配して、ゲンが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、です。あの……そのビニールは?」
 マホロは努めて明るく答えると、ゲンが動く度に擦れるビニールの音が気になって問いかける。すると、ゲンは待ってましたと言わんばかりにビニール袋の中から収穫物を取り出した。
「それがさ、旅館から逆出禁食らう前に、ここの外に出てみたんだ。犯人がいたら、とっ捕まえてショウヘイの分とまほろちゃんを怖がらせた分だけぶん殴ろうと思って」
「そんな、危険なこと……!」
「だぁいじょうぶ! オレ三人の中じゃ一番体がでかいんだ。まあ、ぶん殴るのは冗談として、割れた窓の大きさが、丁度オレが丸まって飛び出した時の大きさに似てるなって思ったから、スマホのライト使って、なんか証拠が無いか探したんだ。そしたらバッチリ、林の奥へ向かう足跡と『コレ』を見つけた」
 骨太の大きな手が、ゆっくりとビニールをめくって中身の一部を差し出す。マホロはつるりとした手触りと鈍器のような厚みに圧倒されながら、おずおずと答えを探してみた。
「これは……ガラスの置物か何かですか?」
「惜しい! これは昔の超高級旅館とかに置いてあるガラス製の灰皿。最近宿泊施設に灰皿が置かれることが少なくなったけど、この旅館は昔からこれが置いてあるよね。丁度、この割れた窓の延長線上に落ちていたんだ」
「じゃあ、旅館から盗んだ品……ですか?」
「盗もうとしたのかも知れないけど……今回に限っては違う。これは、ショウヘイを殴った凶器だよ……このビニールの方に、血みたいなのが付いてるんだ」
「えっ⁉」
 咄嗟に手を引っ込めてしまったマホロに、ゲンは「怖い思いさせてごめんね」と頭を撫でて灰皿を袋に戻した。気まずい空気が流れる。
(うぅ……私のせいで、会話が途切れちゃった……何か喋らないと変かな?)
 マホロが思考を巡らせていると、不意にゲンの体からスマホのバイブ音が響いた。
「おっと、ダイキから呼び出しだ。ごめんね、マホロちゃん。マリちゃんと、もう少し待っててくれる?」
「……はい」
 ゲンはビニール袋を雑に置かれた机の上に置くと、大股で部屋を出ていった。
(あれ? この足音、どこかで……)
 再び話し相手が居なくなったマホロは、自己推理の続きを始める。
(凶器が見つかった……順番はこうかな? 灰皿で声が高いショウヘイさんを殴った後、彼を触った手で私の口を塞いだんだ。私も殴ろうとして、灰皿を持ったままだったから、ずっと片手だった。でも、マリの存在に気付いたから止めた。そしてガラスの割れた音……多分、犯人が入ってきた所から慌てて出たのかな。重たい物が落ちる音は犯人が下りた音。左の部屋から来る足音、掠れた声のダイキさん、一番低い声のゲンさんの順番で話しかけてきて……ん?)
 記憶を懸命に思い出す。てっきり、ダイキは118号室の左から来たと思っていたが、先程フロントに向かって走って行ったダイキの足音から推測するに『歩幅』が違うことに気付く。
 それだけではない。外から入ってきた犯人が、ご丁寧に窓を閉めて、慌てて割って逃げる様な真似をするだろうか。溢れ出ててきた矛盾に、マホロの肌がぞわりと泡立つ。
(ダイキさんは、どこから来たの? 左から来た足音……『119号室側』から聞こえた足音は誰? ゲンさんはどうして『俯いていた』私の顔に血が付いている事を知っていたの?)
 外部犯がまだ旅館にいる可能性と、もしかしたらダイキとゲンのどちらかが、もしくはどちらも『何か』を隠している可能性に再び恐怖して、マホロはうたた寝していたマリを揺すり起こした。
「マリ、起きて。部屋に戻ろう……」
(そうだ……何を当たり前に信じようとしていたんだろう。内輪もめの可能性だってある。だとしたら、警察が来るまでにどちらかが……もしかしたら、ダイキさんとゲンさんの二人で、私とマリを襲う可能性だってある)
「私はともかく、マリだけは守らなきゃ……女将さんに相談して、旅館の人の目につく所に匿って貰おう。ね、マリ」
「……」
 マリはじっとマホロを見上げると、彼女と一緒に立ち上がった。マホロはマリと繋がれた手に力を込めて、急いで部屋を後にする。
 しかし、廊下に出た途端にマリがふと足を止めた。マホロは彼女の意外な反応に戸惑い、思わずマリの方を見る。本当の部屋は目と鼻の先だ。マリが拒む理由が分からない。
「マリ? どうしたの……こっちが私達の部屋だよ? 行こう?」
 マリと繋がれた手に力を込める。すると、ふと左側の廊下から、ゲンに感じた木の香りがふわりと漂った。
「っ‼」
 マホロの体が硬直する。迂闊に顔を見るのが怖くて、咄嗟に俯いてしまった。二人の内の誰かか、まだ旅館にいる誰かが犯人だと思うと、気付かないフリも出来ない。
(ゲンさんかな? さっきの燻製された木の香り……でも、ゲンさんよりもずっと濃い、強い香りがする……ゲンさんの香りの元はこの人なのかな? もしかして、四人目の関係者!?)
 どうしようか迷っているマホロに対し、木の香りはゆらりと揺れて二人に近づいた。
「これは、これは……お嬢様。失礼ながら、こちらの……御連れ様の足に、ガラスの破片が……刺さっていらっしゃるのですが……」
「えっ⁉」
 その声はダイキでもゲンでもなく、年齢が掴めない音域で透き通る様な声だった。マホロが顔を上げると、声はすれ違いでマリの足元まで体を屈めてしまう。
(そうだ、マリの足‼ ガラスが刺さってるって、どこに!?)
 慌ててしゃがみ、マリの足を触るマホロの手を、向かい合わせになった声がやんわりと制止する。
「無礼を、お許しいただけましたら……私に御連れ様の、傷を手当させて……いただけませんか?」
(どんな人なのか分からないけど、ゆったりした喋り方……ダイキさんとはまた違うタイプの優しい声だ……この人になら、マリを任せても大丈夫……かも)
「は……い。はい。すみません。お願いします」
 悩んだ挙句、声の主に向かって頭を下げると、声は「失礼します」と一言断ってからマリを抱き上げた。
「108号室……このお部屋で、間違いは……ございませんか?」
「はい。あ、私が開けます。部屋の間取りは覚えているので……」
(ああ……大学を卒業できたって、社会人になったって……私はちっぽけな存在だ……マリを守る。なんて、どの立場で……)
 挫けそうな心を必死で抑えながら、声の主に抱き上げられたマリの顔を優しく撫でる。
「ごめんね、マリ……気付いてあげられなくて」
「……」
 マリは大人しく声の主に体を預けている。マホロは震える手で扉の鍵を開けると、ようやく自分にあてがわれた部屋に入ることが出来た。マホロが先行して部屋の電気を点け、後は声の主にリリーを任せる。声の主は刺さったガラスを丁寧に取り外して消毒した後、ガーゼと絆創膏で手当てしてくれた。マリはガラスを抜く瞬間こそ泣きそうな声を出したが、マホロが頭を撫でると気持ちよさそうに落ち着いている。郵送していた旅行バックからマリの為に持参した夕食を用意すると、嬉しそうに頬張った。
 ふと、マホロがスマホを確認すると、時計が20時を知らせてきた。旅館内で、多目的休憩所や食堂などのサービスが全て終了する時間である。
(あの事件から、まだ一時間しか経ってないのか……ドラマみたいに、1時間で事件が解決出来たら、どんなに楽だろうに……現実はそう上手くいかないんだな)
 マホロが放心状態になっていると、声の主が優しくマホロの手に触れてきた。距離が近くなったせいか、あの木の香りが彼女の鼻をくすぐる。
「終わりました……御連れ様に、不躾な真似をしてしまい……大変、申し訳ございませんでした」
(この人? は、マリのことを知っている人なんだ。それを覚悟の上で、マリの傷を放っておけない、優しい人なんだ)
「いえ、いえいえ。良いんです。こちらこそ、マリを助けてくださって、ありがとうござ……っ」
 ふと、ダイキの『警察に説明する為に現場はなるべく触っていません。割れたガラスがそのままだったりするので、あまり動かない様にしてください』という台詞を思い出して、遂にマホロの瞳から大粒の涙が零れた。
「ん……っ! ごめんなさい……あの……私、今日初めて、マリと二人だけで来たんです……私がしっかりしなきゃいけないのに、自分の事しか考えないで……こんな、こんな……っ‼」
 呼吸が乱れ、体と共に声がガクガクと震える。声の主は握っていた手をするりと肩まで移動させると、子どもをあやす親の様に優しく撫でた。
「落ち着いてください……ゆっくり息をして、御連れ様を……マリ様を『見て』あげてください……」
「……っ‼」
 マホロが涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、両手でマリを探す。マリは想像していたよりも直ぐ近くに、いつもと同じマホロの隣にいた。変わらない信頼感を温もりから感じる。
「ごめん……ごめんね……私が間違えちゃったせいで、こんなことになっちゃって」
 マリは「なんでもない」と言わんばかりにマホロに顔をうずめると、ぐりぐりと擦り付けてきた。涙が止まらないマホロに、声の主は柔らかい生地のハンカチを手渡してゆっくりと話し始める。
「ご挨拶が、遅れました……私は、120号室に……泊っております。解通易堂の……イズミと、申します……先程から、なにやらお宿の住人が……騒がしい様子。お嬢様でしたら、詳しいご事情が……分かるのではないですか?」
「……はい」
 マホロは一瞬話すか否か迷ったが、一度挫けてしまった今、とても一人では抱えきれない情報と立場に、精神的に耐えられなかった。
「私の名前は、宮下 真帆絽と申します……このコはマリです。あの……無関係の人にこんな話しをするのは、良くないと思うのですが……聞いていただけますか?」


――さて、マホロ様とマリ様のお話をまとめてみましょう。
 彼女達を抜いて、登場人物は三人。被害者の『ショウヘイ様』マホロ様達の次にショウヘイ様を発見者した『ダイキ様』一番最後に部屋に入ってきて、証拠品や足跡を見つけてきた『ゲン様』。
 彼らはご友人関係です。昼間、マホロ様が彼らの様子を伺っておりましたが、冗談を言い合える程親密だとか。ショウヘイ様の結婚前祝いに、この『八重紅葉荘』へ旅行にいらっしゃいました。
 ショウヘイ様は、平均……ここでの基準は、マホロ様のお父様を『平均』とした際に。ですが、やや高い声で舌足らずな発音の好青年。友人の間接的な失態に対して心から謝罪することが出来る性格のようです。
 ダイキ様は平均的な男性らしい音域ですが、やや声に掠れがある律儀な男性です。間接的にマホロ様に飲み物を溢してしまった際、ご自身でマホロ様とマリ様の足を拭いてくださり、事件当時も一番冷静にご対応されておりました。
 ゲン様は、三人の中でも一番低い音域で、積極的に女性に声をかける軟派な男性です。お二人よりも一つ年上で、お部屋も二人と別なせいか、単独行動が目立ちます。マホロ様曰く「昼間には感じなかった木の香りが、事件当時玄様から感じた」とのことですが、さて、どこにいらしたのでしょう。
 マホロ様達が部屋に入った際、現場にはショウヘイ様と『誰か』がおりました。マホロ様曰く「ゴワゴワした手で引っ張られ、口を塞がれた。手は肌ではなく荒い綿か麻布の様な質感で、人よりも獣じみたものを感じた」と。
 仮に人間の仕業だとすれば、恐らく指紋をつけない為の対応として、軍手か何か、手袋の類で犯行を行ったのでしょう。
 そして、ガラス窓を割って逃亡した。窓の外に重たい物が落ちる音は確かに聞いたそうですが、外へ逃げる足音は聞いていないようです。
 左の部屋から大股の足音が聞こえて、ダイキ様が部屋に入ってきた。矢継ぎ早にゲン様が入ってきたようですが、その際の足音は注意力が散漫していて覚えていない、と……。
 証拠はゲン様が見付けてくださった足跡と、遠くへ投げ捨てられた凶器の灰皿ですが、ここまで聞いて、貴方は妙に感じませんか?
 何故、手袋を用意し、ショウヘイ様を抵抗する間もなく殴り倒す計画性がありながら、逃げる時に足跡や灰皿と言った証拠を残すような失態が起きたのでしょう。
 犯人は本当に外部の者なのでしょうか。マホロ様が感じておられるように、ご友人二人の内どちらかの犯行なのでしょうか。
【何故、現在ダイキ様とゲン様は、気を失っているショウヘイ様の傍に居られないのでしょうか】
 勘の良い方なら、もう気付いているかもしれませんね。それでは、続きをご覧ください――


 108号室でひとしきり泣いたマホロは、マリを抱きしめながらイズミに問いかけた。
「私は……出来たらマリだけでも、安全な場所で事態が治まるまでゆっくりしていて欲しいです……でも、何をするのが正解なのか、もう、分からなくなってしまいました……」
 イズミは再びマホロの手を優しく握ると、真剣な声で一つの提案をしてきた。
「そう、ですね……ですが、マホロ様は、マリ様と御一緒に……現場に戻った方が賢明かも、知れません」
「ど、どうしてですか? だって、もしかしたらダイキさんもゲンさんも犯人の可能性があるって……」
「マホロ様の不安は、御尤もです……ですが、マリ様には……貴方が必要なのです。マホロ様が守りたいと、強く願うように……マリ様も、ガラスを踏んでも……貴方について、行こうとした」
「っ‼」
 マリの怪我をした足にそっと触れる。一人ぼっちにさせられることの孤独を想像して、マホロはグッと言葉を飲み込んだ。
「それに、マホロ様には……唯一信頼できる方が、いらっしゃいます……犯行当時、気を失われていた……ショウヘイ様です。これを持って、彼の元へ……戻ってください」
 そう言ってイズミが手渡したのは、手の平サイズの櫛だった。
「……櫛?」
(燻した木の香りの正体は、櫛だったんだ……この香り、イズミさん以外の人からも感じた気がするんだけど……)
 櫛の輪郭をなぞっていると、マリが珍しく興味を持って顔を近付けてきた。
「マリ、これ好き? 知らない香りがするね」
「……ン」
 空気の様な音はマリの機嫌が良い時の、彼女の『声』だ。普段と変わらないマリの様子に思わず笑みが零れる。
(多分……ううん絶対! 絶対に大丈夫……マリがこうして私を信じてくれる限り、もう挫けないって、今決めた!)
 マホロは覚悟を決めると、イズミの方を向いて強く頷いた。
「私……行きます。怖いけど……マリと歩くのは、まだ、楽しいって思えるから……」
 マホロはマリを立たせると、彼女の足が歩行に支障が無いか念入りに確かめる。マリが「また歩く?」と言わんばかりに足踏みをしているのを確認して、安心して自分も立ち上がった。
「では、後程……」
(のち、ほど?)
 腕を引くマリに気を取られ、イズミの言葉を最後まで聞き逃してしまう。
(イズミさん……不思議な人だったな……本当に人、なのかな? ……だめだ、今は事件に集中しないと)
「っ!?」
 108号室の扉を開け、真っ直ぐ進もうとした瞬間。目の前に『あの気配』が広がった。獣のような、化け物のような。人じゃない『憎悪の気配』
「……っ‼」
 マホロとマリの前に立っていたのは……――

【続】
後編:https://note.com/totoyasudou/n/n6ea3424efb20


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