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海辺の美容室

 その美容室は急な坂の途中にありました。
 お客がドアベルを鳴らして店に入ると、少し太めで花柄のエプロンをしたおかみさんが
「いらっしゃい。お疲れでしょう」
とニコニコしながらむかえてくれます。
 そして他にお客がいないときはよい香りがするハーブティーを出してくれます。
 お客は登山かと思うような坂道をよっこらしょよっこらしょと登って来たものですから、出されたハーブティーがそれはおいしく感じられるのでした。
 「どうしてこんな坂の上に店を作ったのです?」
と、ときどきおかみさんにたずねるお客がいます。そんなときおかみさんは決まってこう答えるのでした。
「だってここから見える景色がすばらしいじゃありませんか」
 確かに入口と反対側の大きな窓からは街並みのむこうに貨物船が停まる港まで見ることができました。
「確かに」
「なるほどね」
 お客はそう答えることになります。
 だっておかみさんの顔がとても幸せそうなので、みんな「まぁ、いいか」という気持ちになるからです。
 もちろんおかみさんは腕だってピカ一です。
 はさみ使いは手品のように鮮やかで、とても似合う髪型にカットしてくれます。パーマだって上等な薬を使ってくれますのでぜんぜん痛まず長もちします。
 だから隣の大きな町から来るおかみさんのファンはたくさんいるのでした。

 ある日にこと、店の前に男が立っていました。
 春の暖かい日だというのに男は黒くて重いコートを着て、つばの広い黒い帽子をかぶっていました。
 男は店の客ではなくて旅行者でした。朝早く船で港に着いて、坂道の先にある、博物館に行く途中でした。
 坂を登っている途中で、ふと髪を切りたくなったというわけです。
 しかし男はいつもは散髪屋で髪を切っているので洒落た美容室に入る勇気が出ません。
「でもここで髪をとととのえたらこれからの旅も気持ちよくなりそうだ」
 そう思って男は勇気を出してドアを開けて店の中に入りました。
「いらっしゃい。お疲れでしょ」
 いつものようにおかみさんはニコニコしながら男を迎えました。
 そのとき男の胸にはあたたかいものがこみ上げてきました。
 それはもう何年も味わったことのない感情でした。
  もちろん男には、おかみさんがなぜそう言ったかわかります。
 だって男は彼の人生一番の中で一番急な街中の坂道を登ってきたきたばかりなのですから。
 なんだか男はこれまでの自分に「お疲れさま」と言ってくれたような気がしたのです。
 男は大きな病院の外科医でしたが、手の手術に失敗して患者は自由に手を使うことができなくなってしまいました。
 手術は難しく、患者にも患者の家族にも恨まれることはありませんでしたが、男はひどく落ち込み妻とも別れることになったのです。
 毎日長い時間働き、休みは研究にあてたこれまでの日々が全部無意味に思えました。
 「お疲れさま」という言葉は病院の上司や別れた妻から一度も言われたことのない言葉でした。
 おかみさんは男の泣きそうな顔を見ても変な顔をせずに言いました。
「さあ、お茶をどうぞ。それからあなたの似合う髪型に整えてあげますよ。ゆっくりでいいんですよ」
 お疲れさま。ゆっくりでいい。
 なんていい言葉なんだろうと男は思いました。
「何でこんな不便なところに店があるんですか?」
 窓際にあるソファに座ってお茶を飲み終えると男は聞きました
 おかみさんはいつものように答えます。
「だってここは私の好きな場所なんですもの」
 男はなぜかおかみさんがそう言うのをわかっていたような気がしました。そして「こんな海辺のまちゆっくり生きるのもいいな」そう思いました。

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