「ヘンゼルとグレーテル」- ユング心理学の視点から



こんにちは、灘田篤子です。
今日は前回取り上げた映画「関心領域」の中で父が娘に読み聞かせをするグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」をユング心理学の視点からひもといていきたいと思います。

ユングは、寓話が内包する要素は神話や伝説よりも私たちの心理構造やパターンがより明確に反映されていると捉えていました。

寓話は、一人の作者のPsych(精神、心理、心、思考)から生まれたものではなく、数百年の時を超え、国を跨いで伝承されていく中で、文化や社会の影響を受けながら少しづつ内容が変化している、という点で、集合無意識(集団で共有される意識パターン、記憶、価値観)が象徴的に表現されているのです。

アメリカの著名なFolklolist ジャック ザイパー(Jack Ziper)によると、ヘンゼルとグレーテルの原型は1250年辺りに出現し、グリム兄弟によって最終盤が出たのは1812年です。ゆうに200年以上語られ人々に共感され続けたおはなしなのですね。

物語の大筋は
継母は、生活が苦しいため、木こりの夫に前妻の子供たちを森に捨てるよう説得します。ヘンゼルはその計画を聞いており、夜に小石を集め、森で道に落として帰り道を記します。子供たちは無事に家に戻りますが、継母は再び同じ計画を実行します。ヘンゼルは今度はパンくずを使いますが、鳥に食べられてしまい、森で迷ってしまいます。
鳥を追っていくと子供たちはお菓子の家を見つけ、そこで老婆(実は魔女)に出会います。魔女はヘンゼルを太らせて食べようとヘンゼルを閉じ込め、グレーテルに料理をさせますが、計画に気づいたグレーテルは魔女をオーブンに閉じ込めて退治します。二人は魔女の宝物を持ち帰り、川を渡り、家に戻ると継母は亡くなっており、父親と飢えを心配することなく日々を暮らすことができました。

物語に登場するものの象徴的な意味 
それでは物語に登場するものの象徴的な意味をみていきましょう。

子ども:無邪気さ、成長過程のもの、自由、無責任さ、未熟、などの象徴でもあります。物語の初めの方ではヘンゼル主導で、継母、成長への抵抗がみられましたが、後半ではグレーテルの機転で命を繋ぎます。

パン: 栄養を与えるもの、の象徴で、肉体としての命をつなぎ、心を満たすものでもあります。パンの不足は死の直接の脅威です。 『ヘンゼルとグレーテル』のパンが崩れる様子は、生命や心の均衡が栄養不足によりいかにもろくて不安定であるかを示しています。 

オーブン;新しい命を産む子宮の象徴でもあります。オーブンによりパンが生まれます。子宮は、誕生(または再生)のばですが、生命を与えられたモノが再び戻った場合(成長を拒否した場合)には死をもたらします。 

白い石:古代ギリシャ人は「無罪」を知らせる時白い石を象徴として使っていました。ですから、この物語では、子供たちが、自分達は潔白で、捨てられるに値しないと言う心理を象徴しているともいえます。彼らは口減らし(経済的圧迫の軽減)のために森に捨てられたけれど、白い小石が彼らを助けて戻ってきました。継母がドアに鍵をかけ、ヘンゼルがその石にアクセスできなくなると、もう生活に責任を負わない無邪気な子どもに戻る(家に帰る)すべがなくなりました。

鳥 - 鳥は自由、予言、喜び、不死、そして人間の精神を象徴でもあります。鳥は子供たちが二度目に家に戻るのを防ぐためにパンくずを食べ、彼らの心理的な退行を防ぎます。同時に鳥が彼らを魔女の小屋に導き、成熟へのジャーニーへ踏み出すことを促します。また、魔女を葬った後、鳥が再び彼らを家へと導きました。

鳥の骨:子供たちが数日間生き延びるのに役立つ重要な要素です。

水 : 子供たちは家路に向かう途中、水を渡ります。これは境界を渡るというのをここでは象徴しています。日本では三途の川を渡る、と言う表現がありますし、キリスト教の洗礼による再生も暗示しています。

飢え;この物語に顕著に登場するもう一つの象徴は飢餓です。空腹は人間の本能であり、ヘンゼルとグレーテルの両親は、象徴的には、心理的にも”飢え”ており、そのために子供たちを捨てました。

様々なキャラクターや立場が存在している家族という単体を、様々な側面をもつ一人の人間の精神(Psyche)、内面世界で繰り広げられている物語として読むことができます。

私たちは内面に、親、保護者、誰かにとっての子ども、上司、部下、生徒、友人、とさまざまなアイデンティティーや役割を同時に生きています。その一人の人間の心の中に住むさまざまなキャラクターが、私たちの人生の物語を作っている、ともいえます。

時に仕事が忙しく、親であるエネルギーが自分の中で弱くなったり、
何か新しい発想を持って既存のルールにとらわれないインナーチャイルドが活発になったりすることで、自分の中のキャラクターの関係性が変わってきます。また、思考で感情をコントロールしていても、感情が思考を凌駕して感情優先で行動したり、感情、直感、実感と思考のバランスも時によって変わっています。

では、ヘンゼルとグレーテルのお話を見ていきましょう。
実夫と継母は、子どもたちに食事を与えることができなくなったために森に捨てると決めます。この事から、本来なら、大人二人が象徴する精神の中心となり人生を突き進めていくべきであるエゴが機能しなくなっていることが読み取れます。生きていくための必要な食費を十分に稼げず、心に必要な栄養も不足し、肉体的にも心理的にも危機に瀕しています。彼らに名前がつけられていない点も、家族の中での彼らの力が弱まっていることを象徴しています。

実夫は、実子を捨てることに抵抗しますが、継母に2回とも押し切られます。男性性は脆弱で、女性性は貪り飲み込む母のアーキタイプが示すよう男性性を黙らせ、子どもであるヘンゼル&グレーテルが象徴する創造性(クリエーティヴィティー)を家族から切断し森(無意識の領域)へと葬り去ります。

何故継母は子ども(創造性、未知なる可能性)を切り離したのでしょうか?夫と前妻の子どもの繋がりを脅威と感じ、嫉妬し、家族の居場所に不安を抱えたのしかもしれません。子どもが持つ力を家族の中でより発揮させ、共にに貧困から抜け出す方向へ家族の形を変えていくほどの力は実夫や継母にはありませんでした。貧困による心の飢えは、彼女を蝕み、周りを飲み込み、コントロールすることで心理的空腹感を満たそうとします。そのやり方では本質的には虚無感は満たされず、焦燥感も虚栄心も嫉妬心も消え去らず、さらにコントロールする力(言うなればDark force)を追い求めます。

同時に、表面的には、この大人二人の残虐性は子どもたちに知られていないことになっています。ヘンゼルが”盗み聞きした”から、彼らの計画を知ることになり、子どもの中で意識化されます。だからこそ、ヘンゼルは石を事前に拾うなどして、捨てられることに対して予防線をはることができます。

ただ、お互い面と向かって、
「明日あなたたちを捨てるから。出ていって。あなたたちのせいで私は辛い思いをしてるの。」
「あなたが辛いのは僕たちのせいじゃない。捨てるなんて、よくそんな酷いことがでいるね。とても悲しいし、見下したよ。ここは自分の家だから、捨てられても、石を使って家に帰ってくるよ」
という内面で思っているであろう思考や感情を口にして(意識化)してコミュニケーションが取られるわけではなく、双方が ”察して”、無意識同士でやりとりが起き、行動化され、関係性がこじれていきます。双方が思考や思い、実感、直感を言語化し話をすれば、捨てる、捨てない、以外の生き延びる道(心理的に死なずに、心の一部を否定しない形で生きづらさを乗り越える方法)を共に見つけることができたかもしれません。

物語は、子どもが象徴するものを切り捨てることでは生き延びることができない(継母は死にました)、ということを示唆しているとともに
子どもが親から離れ、旅をし、成熟し、その新しい要素を再度家族の中に組み込む事ができる事によって、新しい家族の形と生きる道が生まれる、ということも示唆しています。

子どもたちの森での出来事は大人になるための一種の通過儀礼を象徴しており、彼らは自分自身や人間の本性の影の側面、つまり暗く恐ろしいものと対峙することを余儀なくされます。どの道、子どもが成長するには親から離れる必要があることを示唆しています。

直感や本能で生きる野性動物が暮らす森で、彼らのそれも磨かれます。パンくずが鳥に食べられ絶望するも、その鳥を直感的に信じついていくと、さらなる森の深いところ、人間の向かい合えない感情や記憶が詰まった無意識領域へと導かれます。魔女は全ての人間が持っている理性ではコントロールしきれない感情の渦を体現しています。世から否定され捨てられた悲しみ、怒り、飢え、生への執着、若さへの嫉妬、非人間性と非日常性。

兄についていき、兄に守られるだけだったグレーテルは強制労働を通して身の回りを整える能力(掃除、洗濯、料理)を得ます。また、兄を生き延びらせるために鳥の骨を利用する、という直感的アイデアや、無知を装って、魔女にオーブンを覗くデモンストレーションをやらせるずる賢さや生命力を育み、人として成熟していきます。

魔女を殺し、盗賊の如く魔女の宝石を盗み、帰路に向かう途中大きな鳥に川を渡るのを助けられ家に辿り着きます。川は、地理的にも二つの土地・領域を隔てる境界線の象徴でもあります。森に連れて行かれる時は川は登場しませんでした。この時は、彼らは自分達の旅路と未知なる世界に対してまだ完全に受け身であり、心理的にも抵抗していました。彼らが家に戻る時は、彼らは森の中の世界で生きる術を経ており、必要ならいつでも自分の無意識とコミュニケーションをとることができる心理状態になっています。

彼らは、自分達の意思を持って、境界線を渡ります。ただ、地面も空も制することができる鳥の助けが必要だったように、あの世とこの世、意識と無意識を行き来するのは容易ではないということを示唆しています。

彼らが帰宅すると、継母は亡くなっていました。物語では、誰かが死ぬと、死んだ人がもつ性質が生きている誰かに統合された、という象徴的な意味を示していることが多いです。魔女を殺し、グレーテルの中で継母や魔女がもつ残虐性を自分の一部として育み肯定する行為が起きたので、継母は必要なくなったのです。

このお話の初めでは、このHousehold ”家” (一人の人の”心理状態”を象徴するもの) は貧しく、飢えに苦しみ、貪り飲み込むGreedyな女性性にコントロールされ、クリエーティビティーや将来への原動力は抑圧、あるいは排除されている状態でした。子どもたちが旅を通して得たものを内包する”家”(心理状態)は、より物事にAwareで、打たれ強く、Resourcefulへと変容しています。

このように、おとぎ話は、私たちの心理状態の成長の旅路を象徴的に提示しています。主人公がどのような状況をどう乗り越えるのか、そこには、私たちが日々向かい合っている難しさや葛藤の乗り越え方のヒントがここかしこにみて取れることができるのです。

物語を象徴的に読み、物語に没頭して”体験”することで、私たちが自分達の生き方を見つけていく後押しを得ることができます。

カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM 音楽療法士(GIM)のつれづれ totoatsuko.exblog.jp 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?