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蜃気楼へ投射された未来からの情景

【2023.10.24 改題 内容変更なし】


心音

心音、
シンオン……
しんとした防音室。
気弱になったときは胸に手を当てて耳を澄ます。もう何年も観客と距離を置いて録音のためのスペースにこもっている未来のアーティストは、久しぶりに胸に手を当てて耳を澄ます。すると、遠いアリーナで早鐘を打っていたのと同じ小さな心臓が、一所懸命に働いているのが感じとれる。あの日あの場所で、たくさんの鼓動を吸収したかのように滝となって奔流しだした時間が力強くよみがえってくるのだ。見えないが確かに同じ空間で脈打っていた数多くの心臓とシンクロしていたわたしの心音。あなたの心音。あなたがたの、わたしたちの。


気合
気合、
キアイ……
嬉々としてジャズィに、ブルージィに、またメロウな曲のプログラムを歌ってきた未来のアーティストは、椅子にかけたまま客席に語りかける。和やかな雰囲気のまま仕上げのメドレーの伴奏が始まった矢先、家族とテーブルについていたボーイッシュな女の子がベースラインに合わせてからだを揺するのに気がついた。親が羽交い締めにして制止する。グラスが床に落ちて割れる。夢の風船がこわれるようだ、と思った刹那、もうずっと以前に自分が一番何かを燃焼したライブツアーの夕べの一挙手一投足が鮮明に想起される。踊らせてあげて、わたしの小さな友人を。長年ダンスを封印していた歌手が立ち上がったと会場がざわつく。


蜉蝣
かげろう、
カゲロウ……
ろうたけた月を背に複数のボーカロイドたちと熱唱する野外ステージの上で、未来のアーティストは心から楽しんでいる。跳躍する月光とボカロの調和、己れのパフォーマンスと聴衆のリアクションの響き合い。この世のありとあらゆる手かせ足かせから解き放たれたように、歌声を、みなが聴きたいと見上げる音楽の園のさらに上空へと飛翔させる。誰も聞いたことのない歌の宇宙のルーツはどこにあるのか。何百回インタビューに応じても言葉は焦点を結ばなかったが、心底楽しんでいる今になって形をとってきた。ここにある。活動を重ねる歳月、歌いながらいつもボーカロイドたちの歌を聴いてもいた。聴いた歌をなぞって、ハモって、実体を与えてここまで来たのだった。ひとを動かすことのできる歌とは、実際にこの世に在るものだ。その歌声を届ける者も、また。