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FEEDBACK LOOP

HEARTS

自画像を描く夏休みの宿題が出たので田舎の祖母を訪ねたことがあると、あるとき"彼女"から聞いた。祖父は美術教師だったがすでに世を去っていた。彼女が覚えていた通り、田舎の家には若かりし祖母の凛とした素描のポートレートが、一つだけ飾られていた。描き方を祖母に訊ねても教えてくれない。ドリアン・グレイは読んだのかい、などと話を逸らす。しつこく訊いてみると、つくり話だと断ったうえで祖母はこんなことを話した。
自画像を描くという困った宿題が出たので、人物はさほど好かないが作風には注目していた美術講師に助言を請うたことがある。描きたくないと訴えると、一分間に一本の線だけでも良いと言われた。ただし適当にではなく、集中する。もし眉やルージュを引くときがあればそうするように、と。講師から、水彩絵具か何かで黒く塗りつぶした手鏡を渡された。画用紙に一本線を引けたら、水を含ませた刷毛で鏡面の曇りを一回ぬぐうこと。絵を提出できれば返さなくとも良い。風変わりな条件だったが、黒いだけの板を見て白い紙に線を引くのは楽だったし、手鏡につられた。螺鈿らでんの細工だけでも味わいのある逸品でなぜか手に馴染んだ。ある程度進むと、手鏡を見るのが負担になってきた。刷毛の水分を多くして鏡面はわざと曇らせた。朝、顔を洗ったあとに引く線、昼寝のあとの線、おやつ前と、夕食後の線、お風呂の後に、夜更かしの線……みんなちがうのに、一つの顔が整えられていく。線を増やすほどに、鏡もきれいになっていった。夏が過ぎて、未完成のまま提出した。提出できたことで、蜃気楼のようだった鏡面を見るのが苦ではなくなった。学期末に絵を返却され、続きを描こうとした。再開すると億劫で、週に一本、月に一本、線を引くかどうかになってしまった。
結局、ポートレートがいつ完成したのかは語られずじまいだった。この絵を今の話の手鏡と思って、一筆描くたびに、一筆分線を消しなさい。そう言う祖母から、彼女はノート位のサイズの額縁に入った絵を譲り受けたという。何事も、真剣に取り組めば何とかなる。彼女は夏の間に宿題を終えた。もちろん、祖母の絵姿を消すなんてことはせずに。
月日が経ち、娘が家族の絵を描くという課題をもらってきたので"彼女"がふと思い立って、祖母のポートレートの額装を外すと、隅に祖父のサインがあった。彼女が言うには、祖母の遺品に手鏡はなかったはずだけどもうちょっと探したい気分。


BEATS

分刻みで仕事をしているらしい"彼"を煩わす訳にはいかないので、書けることだけ記しておこう。
何でも巧みに言葉に変換してくれる知り合いがいた。一貫校のため一番古い知り合いであり就職先まで同じだったので友人と呼ぶべきだが、高校卒業前に彼の取り持ちによりこちらの初恋が成就したあと、なぜか本人から拒まれたので知人としておく。十年も勤めずお互いに初めの職場を辞してからは、ネット経由のやり取りすら疎遠になっていた。退職するときの口上も彼に教えてもらい円満にやめられたのだから会っても頭が上がらない。
ひょんなことで、彼と連絡を取らねばならなくなった。昔、一緒にバンドの真似事をしていた上級生からバン数台で移動ゲリラライブを敢行するので手伝えというお達しが来たためだ。いくつかのプラットフォームで配信もする計画だとか。一番出世したらしい元メンバーの一人から法律関連の資料、元リーダーから主義と信条を綴った手記と作品データが送りつけられた。ライブ開始後に掲示する文と言い訳に使う文書とその他書き込み等で使う煽りと応援のコメントを簡潔かつカッコよく何日までにまとめろと強引な要請だ。これは政治活動ではないと言い張るが、細かいことを聞いてみると少し穏便でない動機も感じた。突き詰めると何がしたいのだと詰問すると、これはロックだ、と元リーダーは断言する。その一言で請け負った。が、困った。迷った末"彼"に資料を転送して相談するも、梨のつぶて。こちとらどんなバッジも胸にはつけていないし、資産家の元リーダーとは違って日々の生活もある。するうちに期日が近づいた。締切は特に苦手だったがカタチだけの文書は整えた。とても使えそうにはないので、すがる思いで彼にもう一度連絡した。数秒で返信が来た。見事な仕事と、ご無沙汰していた間の音信が少し。二人で世代の未婚率を上げていた。彼は日々他人のスピーチを練るのに忙しく、シラノ・ド・ベルジュラックのお役はこれで御免被る、と謎の一文を添える。フランスの戯曲か何かで、ピノキオのような鼻を気に病む恋のキューピッド役みたいな話だったか。
ライブの時間が近づいたので、ふだんは行かない界隈の、適当な高さのビルに上ってみた。直前に来た元リーダーからのメッセージで、無事に終えられた場合の打ち上げへ招待され、今はシングルマザーになっていることを打ち明けられた。立派なビル群が蜃気楼のような実体のない景色に揺れて見えた。彼に貸したままのCDと本は戻ってこないだろう。なすべきことを、為しているだけなのだ、各自。