5/4 日記というか雑感というか#13

 今更ながら、本当に恥ずかしながら、私は最近青空文庫の存在を知った。最近はネットで有名作品を読める時代なのかと驚いている。

 高校生というのは、国語の授業で高瀬舟だとか、舞姫だとかをやるらしい。私は元々在籍していた高校を鬱病によって退学し、定時制の高校に入り直したために単位の取り方が自由になり、私は国語を取らなかった。そのためそういった有名作品を授業で学んではいない。本日、私は教養の差を感じることとなった。
 だが青空文庫にて多くの作品と出会えるのであれば、コロナ疲れが溜まってきたこのご時世でもなんとか乗り切れそうな気がする。最近は文学の楽しみ方が少しずつわかってきたところなのだ。
 例えば森鴎外だとか、明治時代の作家の作品は現代と比べて硬いように感じる文体の中に欧州の言語を取り入れていることがよくあって、欧米の影響を強く受けていた当時の時代背景を感じさせる。
 現代では欧州等からの外来語はカタカナで表記することがほとんどだが、当時はアルファベットでそのまま書いている。これも当時の欧州が優れているという価値観の賜物なのだろうか。文学は当時の時代を写す鏡のような存在であると感じられる。

 だが、現代ではライトノベルのような気軽に読めるものが増え、勢いがある。これを嗜む人は大勢いるだろうが、その分伝統的な文学の市場はもしかして小さくなっているのだろうか。そうだとしたら、これを嘆く人もいるだろう。だが私はこれを一種の進化だと思っている。
 文学というのは少なくとも明治だとかそういう時代では教養のある人のものであったはずだ。だがライトノベルは教養がなくても楽しめる娯楽だ。小説というものの楽しさをより幅広い人が楽しめるように進化しているように私には思える。

 もちろん、伝統的文学は素晴らしいものだろうと思う。だが、私はとにかく教養のない人物で、絵画だとか音楽だとか、芸術方面についてはてんでわからないし、文学についても殆どの有名作品を読んだことがない。せめて文学くらいは、身近に触れ合える時代になったのだから、触れ合わないと勿体ないのだろう。昔の自分には気付けなかった考えだ。

 誰の言葉だったか、忘れたが知識というのは自分の足元に積み上げるものだという。積んだ分だけ視点が高くなり俯瞰的に物事を、広い範囲で見渡せるのだそうだ。なるほど、この考え方だと私の視点はさぞ低いことだろうと思う。まだ若いと言える年齢でそれに気付けて良かったと思う。


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