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きおくと生肉

 地球から火星まで250日の航路。片道だ。わたしたちは人間の代わりに火星を地球そっくりの星に変えるために暗い宇宙を旅している。
 わたしたちは人間ではないが、おおむね人間に似せて作られている。わたしの外見は若いアジア人の女の姿だ。どこにでもいるような顔をしている。わたしたちが生身で火星の大地を歩けるようになれば、それは人間たちが住めるということ。

 わたしたちは内面も人間に寄せて作られている。これは困ったことに、恐怖に弱いということだ。火星への片道航路、そして危険かつ果てが見えない火星での作業はわたしたちを発狂させるには十分なストレスになる。
 そこで人間たちはわたしたちに『首輪』を与えることにした。このコルセットのような首輪の中には何本ものアンプルが収納されていて、ある薬剤が細い針を通してわたしたちの血中に送り込まれている。
 これによりわたしたちは恐怖やストレスを感じることがない。常に穏やかに過ごしている。そう、死ぬ瞬間までずっと幸福な気持ちであることを約束されている。

 だからそれを見たときも恐怖を感じることがなかった。この船の中のあるセクション…地球の植物を保存している区間でそれをみたとき。わたしが感じたのは、それの顔があまりにもおいしそうだということ。食べたこともないのに、赤い肉をうまいものと知っている。それはどこかで生きていた私のモデルとなった、オリジナルの人間の記憶なのかもしれない。

 首をかしげてこちらを見ているそれに飛びつくためにわたしは走った。薬剤のもたらす凪の海のような感情の奥でゆらゆらと揺らめく激しい食欲。それを満たしたときに、はじめて、わたしは人間の代わりになれるのではないか?そんな予感がした。

 生肉は場合によっては危険なのでよく加熱した方がいい。

 それで彼女はどうなったんですか?スペースシップは?火星は地球のかわりになったんですか?

「なんかね、全然うまくいかなかったみたいだよ~」

お肉仮面はそう言うと通信を一方的に切った。

おわり

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