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黒川という友人

黒川というのは、私が初めてネットで仲良くなった友人である。その黒川にまつわることを書く。

ろくに絡んだことのない相互フォロワーがある日突然DMに凸してきて、「あなたとは仲良くなれる気がする」などと思い返せばかなり大胆な距離の詰め方をしてきたのが始まりだったと思う。当時、へえ、友だちづくりってこれでいいんだあ、と感心した覚えがある。この黒川の「アンテナに反応した人に突撃」という友だち生成レシピは、現在に至って大いに参考にさせてもらっている。

実際付き合ってみると相性の良いところも多く、LINEや通話やお泊まりやお絵描きや雀魂を通じて仲良くなった。今では最も親しい友だち、親友の一人である。
とはいえこう書いてみると、ほんの少しの違和感がぬぐえない。というのは、私の中で「親友」と言えば「毎日一緒にいて、心が通じ合っていて、とにかく似ている」というイメージが頑なに存在するからだろう。それは女子高生的な文脈における「ニコイチ」に近い。私と黒川は全然違う場所に住んでいるし、お互い知らない人付き合いや趣味も多いし、見た目も中身も似ているとはいいがたい。
だから正直初めのうち私は、「親友」という言葉を黒川との間柄に使うことになるとはさらさら思っていなかった。というより漠然と、お互いにけして踏み込みすぎない関係がずっと続くような、心地いい無責任さや無関心をまとった予感のみを持っていたのだ。
しかし、交わしたいくつかの会話を思い起こすと、黒川はおそらく少し違っていた。全てを推し量ることはできないが、たぶん私よりはそこに親密さを期待していたような気がする。
まあ、あらゆる人付き合いにおいて、自分の感じているのと同じように他者も感じているのが当たり前なわけがない。そういう圧倒的に初歩的なポイントを見逃しがちな、そういう迂闊で怠惰な人生を私は生きているのだが、それはさておき、この認識のズレを見つけたことは、私にとって友だち観を更新する貴重なきっかけになった。

仲良くなり始めに時を戻すと、まず私は初手で黒川を舐めきっていた(いい意味で)。なぜなら黒川が私を見つけた場所がTwitterであったからだ。
Twitterというのは、私の理想の私としての完璧な振る舞いを完璧に取り繕って完璧に演出できる場だ。なぜなら全部独り言だから。
つまりそのとき黒川が見ていた私は最高の私であったはずなので(そう思いたい)、しかもそのとき私が見ていた黒川はフォロワーが多いわけでもツイートが尖ってるわけでも棲んでる界隈が違いすぎるわけでもなく、つまり私のアイデンティティが脅かされる可能性も私のアイデンティティが通用しない可能性もそこには無く、ビビる理由が無かったのだ。逆説的に言えば、私は現実世界でコミュニケーションを行うにあたって、基本的にはものくそビビっている。
「つぶやき」という、人との直接的なコミュニケーションとは違う形で自分を表現できるというのは、コミュ障が自我を確立するにあたり最も容易で最も楽しい手段の一つだと思う。ただやっぱ生身のコミュニケーションにおいては、その方法でこしらえた自我はある程度までしか役に立たないんだよな。ちゃんと人と関わり合って小さな挫折や微調整や相対化を繰り返して詰めていかないと、独りよがりの自我は豆腐のままだ。Twitterの壁打ちアカウントは、人生じゃない。生きていかないとね。本当にね。助けて欲しい。さようならがしたいです。さようならが。

話が逸れてしまった。ともかく地の利によって、他人にグイグイ行くことに対しなんの躊躇も反省も無くなった私は、何度か通話をして話すの慣れてきたなくらいからそもそも会話の波長が合っていたのもあり、なんだかもう距離感のツマミを手首しならせまくりギュルンと一番左に回していい気分でいた。そして黒川は私のテキトーな絡みに順応した。

これは後から思い返すとイレギュラーなことである。とにかくテキトーに絡めば仲良くなれるわけではないというのは、黒川以降にできた友だちを通して知った。それに気づいたときにほ、今までどうやって生きてきたのかな。怖いな。などと思った。

黒川は基本的に愛の人である。少なくともそういう部分が大きいように思う。人と関わるとき、彼れと極限まで近づくことを、大なり小なり心のどこかで常に期待する。一人で生きていけないし、ほんの少しの湿り気を含んだ愛の交換をフランクに日常的にやりたがる。というふうに思える。異認る。
そういう感じだから、私の雑な距離詰めに合わせるのも自然だったのだろう。

黒川のそういった特徴について、実は大まかに自分と一致すると思っている。私もどちらかといえば、愛を求める人種だと思う。
これにこそ黒川から異論を唱えられそうではある。なぜなら彼女は何度か私に対し、嫉妬をしないとか他人に興味がないとか、そういうニュアンスの評価を述べてきたことがあるからだ。
しかし私だって、友だちについて、全員の一番になりたいとかなるだけ私の影響下に置きたいとかできることなら傷つけもして忘れられてしまうことのないようにしたいとか思うほうである。そもそもそういうタイプじゃなきゃ他人にグイグイ行ったりしない。(それが陽キャ的なカラッとしたオープンさではなく、不器用でデリカシーの無い距離の近さだということは大前提として。)

ただ二人の間の違いは、愛への欲求を日々のコミュニケーションで上手く発散しているか否かではないかと思う。私は、家族とか友だちとかをちゃんと大切にするということがあまりできない。突発的に近づきたくなるけれど、黒川のようにその熱を他人との関係性に組み込み持続させる能はない。「親友」という概念にメルヘンな理想を抱いている時点で自明だ。

そしてこの違いが、先に触れた認識のズレに繋がったのだろう。


ここまでわかっていてこうして言語化するというのはなんだか若干人の道を外れた行為であるような気もしなくもないが、その人の道にこそ私は逆らって生きてきたのだから、今更変えようとは思えない。そう、私は愛を欲しているとはいえ、黒川の弟子にくだったりして人を愛する方法を学ぶべきだとは、まだ思えない気がするのだ。

人を理想的に愛せなくても、きっといつか他の方法が見つかるんじゃないかと思う。ぴったりフィットするやり方を自分で探せたらいいかもと思う。

まあそもそも私が愛してえな〜と思う人間軒並み私の愛を欲してなさそうなのもある。とにかくなんかどうしても、生身の、相互的な愛をやれない体質なんじゃないかと思ってしまう。いやまだわからないけどね。愛にも色々あるだろうし。全てを変える、全てを吹き飛ばす竜巻のような恋が私の人生にも訪れるかもしれないし(スプ恋)。訪れてくれてもいいんだよ。いつでも待ってるからね。そろそろ死にそうなのでね。


着地点としては、黒川と私はこれからもニコイチではない親友。最後に好きなところを書いておくと、冷静なところと、私と上手く付き合ってくれるところと、池の氷割るのとかを一緒に楽しめるところ。イェイっ




善の実践に使います。