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罪人はワニに食われて/17の神アイス

今にしか生きていなくてつまらない。
少し前まではたとえば、とおく宇宙の果てにあるものを、一生かけて追いかけるようなつもりで生きていた。信じるものがあった。それは完全に喪われたわけではないがしかし、ベッドの傍の窓からこの部屋の濁った空気が吹き出してゆくたびに、魂がその末端から解けて消えてゆくような、あるいは二度と会えはしない大切な人をそれとも気付かぬままに忘れかけているような、そういう虚しさが、無理に寒い住宅街へ連れてこられたヤシの木たちの葉の数を数えながらこの小さく細い身体を一層縮こまらせ煙草をふかしている私を襲うのである。天気がよくて気持ちいな。朝ごはんおいしいな。友だちに会いたいな。新品のパジャマをおろしていい気分だな。春風は私の撫でてほしいところを撫でてほしい温度で撫でてゆく、けれどもあの暗く寒い雨の夜の、机の下に這いつくばり独りで完璧に厳粛に泣いていた私の、なぜ泣いていたのかは忘れてしまったが、その引っ掻き傷だらけの背中にのしかかってくる冬の空気を、私はいまだ覚えていて、それは確かに、ほかのなによりも優しかったし、また光か力かドーパミンか、そういうものの閃く場所だったのである。
つまらないと言ってもおもしろいことはいろいろある。日向ぼっこや散歩や食事や風呂や、友だちと遊ぶのや、良い映画や本を探すのや、服を選ぶのは喜ばしいし、他にも絵を描いたり詩を書いたり議論をしたり、とにかくこの人類社会に有る多種多様な壮大な遊びはやはり、永く人類を生かしてきただけあって、素晴らしいものだ。手の届かないもののことはすっかり忘れて、みんなで楽しく過ごして子供産んだり政治やったり昼と夜をぶん回して、そしていつかはバスボムが湯船に溶けていくみたいにぼんやりふんわり死んでゆけばよいのだ、最期の瞬間にはセロトニンやらなにやらが脳みそにあふれて、遅鈍な夜にあんなにも死にたかったことなど、やはりすっかり忘れてしまっているのだ。眠い! 筆を乗せて楽しくなろうと思ったのに異常に筆が乗らない。生活というものをわかりはじめたつもりでいるが、やっぱりよくわからないことが多い。でもそのわからなさはけして嫌な感じではなくて、みんながハマるわけもわかるのだ……。

小さな嘘をつくのが癖になっている。

小さな嘘をつくのが癖になっているし人を貶すのも癖になっている。小さな嘘くらいはまあ返ってきてもいいかもわからない、しかし見下してきたぶん見下されるというのはなんだか、ここ最近気づいたのだが、本当に大したことである。それはつまり、清廉潔白とか、成熟した精神の持ち主とかでないと、私の前ではみなしばしば下劣な獣に成り下がってしまうということなのだ! 罪人は鏡である。石を投げたくなるとき、鏡を見ていないわけはない。どうして赤の他人に対し、石を投げるとかそんな面倒くさいことをやる気になれるだろうか? 傷つけたくなるまで愛せるのはどこまでゆけど自己だけだ。相手か自分か、人がどちらを先に愛するのかというのは、卵とニワトリであろうが、過度な自己愛と献身は、きっといずれも罪であるだろう。断罪者はたとえばヌーである。きのうBSでヌーの群れがサバンナを大移動していた(とても面白かった)が、あの猛烈な蠢きに一瞬でも同調し損ねれば、つまり自他を均せない罪人は、ワニに食われたり踏みつけられたりして即死だ。罪というのは逸脱で、罰というのは死だ。わかりやすい。もしかするとそれ以外もあるのかもしれないが、よくわからない。ただ私は罪や罰を恐れてはいない。それよりか、下劣で卑しくあることが恐ろしい。あるいは、信じるものを喪って、獣となるのが恐ろしい。それでは嘘をついたり貶したり疑ったりして人を傷つけたがるのをやめようか? それで本当にうまくいくのか? 私はなにを求めて、あるいは求めるふりをしているのか? うじうじし続けることに希望を見出してしまってもしょうがない構造をしているよな、ここというのは? それとも私はすでにじゅうぶんに永遠に下劣な獣であるのだろうか。

ここまで天ぷら

まあいいとして、最近めちゃくちゃ体力の衰えを感じる。もともと元気なんかないのだが、運動量の話でなく、漫画とか映画とか読書とかぶっ続けで別世界に没頭したりすることがあんまりできなくなった……二十代怖いなー。週に二、三回出かけたらもうそれ以外の日はへとへとで無為にXを眺めることしかこの身体には許されないし。今日だって十二時ごろに起きて、サクッとご飯食べて郵便局行って映画観るつもりでいたが、スマホ見てたら、郵便局が十七時に閉まるまであと四十分しかない。めんっっさぁーー。周りの大人や友人たちを見渡すとこんな自堕落な生活してるやつあんまりいない。みんなちゃんとやることやってリズム良く過ごしてる。彼らはどんどん彼らの人生を彼ら独自の方法で美しく精密に創り込んでいっている。素晴らしいことだ。別に彼らと自分とを比べて焦っていたりするわけではない。多くの人々の持つそれらの方法論が私にとってとても遠くに感じられることを不思議に思わないでもないが、単に不思議なだけだ。私はおそらくこのまま、日向ぼっこや散歩や食事や風呂やお出かけや映画や本や勉強やお洒落や創作や笑顔や泣き顔や怒り顔といった数多のコマンドを、己の身体と精神の脈打つのに合わせ、しかるべきタイミングでなるべく小さなラグで、注意深く繊細にかつ大胆に選択し続けるという技術を磨けば、運ばれるべきところへ運ばれ、おぼつかなさや敏感さからくる苦しみとおさらばできるのだろう。それは大変なことだが、試みればきっと達成されるだろう。大変なのは、なんのためにコマンドを押し続けるのか、なんのために自分であり続けようとするのか、その理由が揺らいだときだ。それを乗り越えた結果、コマンドのいくつかは書き変わるかもしれない。先にはいい感じのことばかり書いたが、常にそうはいかないかもそれない。もしかすると、お金をなくしたり友だちをなくしたり法に触れたりするかもしれない。しかし、美しく人生を築いていくことより大切なものなどあるだろうか? そうそうない。宇宙の果てから見たらさぞ小さいことだろう、この部屋は。しかしなんとも、暗くて狭くて臭くて湿っていて、宇宙の果てのように静かなことだろう、この部屋は。

郵便局が閉まる(16:48)

明日でいいか。気を取り直してアイスを食べよう。我が家にはアイスが常備してある。あるいはポテチをセブンに買いに行くのもいいか。近頃すこしずつ、自分が食べたいものを自分で理解し自分で用意するということができるようになってきた。人とコンビニやレストランに行ったときなどは真面目に選びすぎるとパニクるので適当に選ぶが、一人のときにはだんだん上手くなってきたように思う。おやつをコンビニで買って食べて幸せになるという技術。技術とかじゃないだろと一瞬思う人もいるかもしらないが、少し考えればそれが、多くの経験と研ぎ澄まされた精神状態を必要とする、高度な技術といえることがわかるだろう。ちゃんと難しいことだ。この間などは、心に充分耳を傾けることのできないまま強迫感にまかせて安牌のコーンポタージュスナックを買い込んだのち五分で完食したものの全く幸福を感じない、ゼロ。という失敗を犯してしまったりもした。あと、コンビニおやつ選びに関して特筆すべきなのは、喉の渇きに判断が大きく左右されてしまうことだろう。喉が渇いている状態でガリガリくんを選択し、会計したあと、水筒のお茶を口にした瞬間、ガリガリくんでなくブラックサンダーアイスを買うべきだったことに気づくことはある。対策はさまざまあるだろうが、入店する前に手持ちの飲み物はあらかじめ一口か二口飲んでおくというものを採用している。

最近のいいおやつメモ

・一本満足バー
・ポテチ、一番普通のカルビーとかのうすしお
・ホットケーキ
・17アイス カラフルチョコ〈ミルク〉
・黒たまご饅頭

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善の実践に使います。