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長生きによって宗教が捨てられる時代と尊厳死~「捨てられる宗教」を読んで

日本人は宗教に関心がないと言われることが多いです。私自身、海外で「宗教は何ですか?」と聞かれたら、仏教とは答えるものの、「葬式仏教」以上の意味はありません。

このように宗教に関心が薄い人が多い日本ですが、最近では世界的に信者の数が減っているようです。そこには単に宗教が時代遅れになったのではなく、死生観の変化があるというのが以下の本で島田裕巳さんが主張していることです。

今回はこの本で書かれていることを紹介します。個人的には結構面白かったです。

宗教はなぜ捨てられるのか

島田氏は宗教が捨てられる理由として、死生観の変化を上げています。死生観の変化とは、「死生観A~寿命の短い時代」から「死生観B~人生110歳時代」への変化だと述べています。

・死生観A~寿命の短い時代

現世は苦の世界であり、長く生きることも難しい。生きていても、さまざまな苦難が押し寄せてくる。ならば、死後の世界に期待したい。仏教でもキリスト教でも、そしてイスラム教でも、天国の存在が強く打ち出され、死後どこに行くかを熱心に説いたのである。その背景には、いつまで生きられるかわからないという死生観Aが存在するのである。

寿命の短い時代では死後の世界に救いを求めているわけですね。死後の世界に救いを求めているがゆえに、宗教が重要だったわけです。

・死生観B~人生110歳時代

死生観Bにおいては、人生はスケジュール化されている。人生の終わりを90歳頃に想定し、そこから人生を逆算して考えるようになった。死生観Bの世界では、誰もがそうした発想をする。
いつの間にか、宗教の根底にある死生観が大きく変容してしまったのだ。

 死生観Bの世界になると、現世は決して苦と困難に満ちたものではなくなる。現世は豊かで、いくらでも幸福をもたらしてくれる。だからこそ、長く生きられるのだ。少なくとも、十分に生きることができず人生が途中で失われてしまうことにはならない。それはむしろ稀なことなのである。 
 となると、来世に期待をかけ、現世において信仰生活をまっとうしようということにはならなくなる。そうなれば、宗教への期待は薄れる。いつまでも人生は続き、かえってその長さに耐えられなくなる。高齢になって死を求める人たちが現れるのも、来世に生まれ変わることを求めてのことではない。
「もう十分に生きた」 
その感覚があるからこそ、自ら死を選ぶのである。

 宗教は、死後の世界が実在するとし、よりよい世界に生まれ変わるためには現世において善行を重ねることが必要であると説いてきた。今や、そうした宗教のもっとも重要な武器が通用しなくなっている。日本の既成仏教が、さらには新宗教が大きく信者を減らすのも必然的なことである。

死生観Bの時代になるとすでに自分の人生を生きたとなり、来世に期待をする必要が無くなってしまうのでしょう。その結果、来世の存在を前提にした宗教は捨てられているというのが著者の主張です。

確かに宗教に救いを求めるほど現世が辛くないわけですね。こうした状況の中でも自分たちは生きていかなければなりません。宗教は時代遅れの産物になりつつあるのです。

死の無い時代にどうやって生きればよいか

死生観が変わり、死そのものの意味も変わってきています。葬式に参加することも少なくなっており、「死自体が、きわめて孤独なものになってしまっ」ているのです。

多くの人が亡くなっても、その実感がない。その点で、今の社会は不思議な社会なのである。

たしかにいつどこで人が亡くなっているのか分かりずらくなっていますよね。最近ではお悔やみ欄に掲載する人も少なくなっており、人の死が見えにくくなっています。

お葬式も家族で済ませている人が多いのではないでしょうか。私の田舎では、葬式を取り仕切る役割が地域になって、お葬式を仕切ってくれていました。そうしたことも少なくなっているようです。少なくとも都会では見られないでしょう。

私たちは亡くなれば自然と忘れられていく。亡くなった人間のことを直接知っている人間も亡くなってしまえば、誰にも記憶されていないのだ。

もはや人間は死とともに忘れ去られてしまう存在なのです。しかしそれでもなお人間は生きなければなりません。そして死ねない社会なのです。

 医療の関係者は多くの病を治療できるようにし、人々ができるだけ長生きできるようにしようと努力してきた。それは、古代から医学がめざしてきたにもかかわらず、なかなか実現できなかったことでもある。 しかし、長寿の実現をめざし奮闘してきた人々は、超長寿社会が実現されたときそこにどういった問題が生じるかまでは考えてこなかった。それは、彼らの仕事ではなかったとも言える。これからさらに医療が発達していけば、寿命はさらに延びていく。そのような予測がある。 
 だが、少子化により、高齢者を支える人々の数は大きく減りつつある。そのなかで、さらに医療技術を向上させ寿命を延ばし続けることは、社会的に考えれば問題をさらに深刻化させることにもなりかねない。

 死生観Bの世界では、人命が重さを増した結果、戦争を行うということ自体が不可能になってきている。それは、私たちにとって好ましいことである。だが、一方で、人命が重くなるということはそれを守るために社会が最大限の努力を払わなければならないことを意味する。それは、ますます死ねない社会を作り上げることに結びついていく。

こうした生き続けなければならない社会で、私たちはどうすればいいのか、これは今後、議論になるテーマでしょう。

80歳まではたらくのはつらい~尊厳死の議論が始まるはず

私たちは長生きが前提とされ、そのため働く年齢がどんどん伸びてきています。そのうち60歳でも若いと言われるかもしれません。しかし誰しもが歳をとってから働き続けられるとは限りません。

 死にたくはない。けれども、生きている甲斐はない。死後に、あの世に生まれ変わることを楽しみにすることも、現代人には不可能である。 
 ただ生きている。やっかいな時代になったものである。

この言葉がすべてを代表しているように思いますが、自ら死を選ぶことはできないけれども、とくに生きていることに意味が無くなっているのです。そのため先ほど述べたとおり、尊厳死の問題は必ず議論になるでしょう。

学び続けることで、見えてくることもある。長く生きられる時代にせっかく与えられた時間を学び続けることに使うというのは、もっとも賢いやり方ではないだろうか。

死生観の変化と宗教の問題の関係性を議論するのはとても面白かったけど、最後の結論がこれだったのが残念。ただ死生観の宗教の話だから、これでいいのかもしれません。

現状を言えば、ほとんどの人は長生きするとお金がなくて、最後まで働かないといけない。だから勉強する余裕なんて最後までないでしょう。

自分の世代はおそらく年金の支給年齢は大幅に引き上げられて、年金をもらえない可能性も高い。そんな中で、生きることそのものが辛くなるはずです。だから尊厳死の議論がかなりなされるはずです。

おわりに

宗教と死生観の変化の問題はとても面白かった。自分の場合、長生きは人を幸せにしないというところまできていて、真面目に尊厳死の話はした方が良いと思っています。

もちろん年齢制限を設ける必要はありますが、死を選択できる時代になるべきではないでしょうか。そんなことを考えて、今も老後資金のためではなく、子どものために頑張ってお金を稼いでいるところです。



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