とったん、トカトントンを語った~中編~

遅くなり申した(別に誰も待ってない)。


という訳で、太宰治『トカトントン』の考察、始まるよ~。
…正直、卒論で一回書いたことを重複するだけでは? とは思ったけど、卒論には卒論用の文法や制約があるので、それを取っ払って自由に徒然なるままに書いていきます。
あと、ツイッターのプロフに「徒然なるままに」か「おもしろき ことなきこの世を おもしろく」とか書いてる人は、大体きな臭いことばかり呟く人です。

・「トカトントン」の音について

前編でも述べたように、主人公の「私」は、「トカトントン」という音が聞こえると、それまで打ち込んできたものに対するやる気・関心を失ってしまう。

この「トカトントン」という音は何なのか。本編でいうと、事の始まりは終戦直後に遡る。
軍需工場で働き、徴兵された(といっても前線とは離れたところで働いていた)「私」は玉音放送を聞いたのち、上官に召集される。
上官は、玉音放送を聞いてもなお徹底抗戦を貫くべしと考え自決することを決めたという。「私」はそれを聞いて感動する。

「死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。」(青空文庫「トカトントン」より引用。以下の引用も同様)

これは「私」が「ミリタリズムの幻影」にとらわれている状態で見た風景である。ミリタリズム(軍国主義)とはブリタニカ国際大百科事典によると、「軍国主義(英: militarism)」とは「戦争を外交の主たる手段と考え、軍事力を最優先する考え方ないしイデオロギー」とのことである。とWikipediaに書いてある(二重引用)。
当時は「進め一億火の玉だ」「欲しがりません、勝つまでは」といって国が一丸となって戦争に向かう風潮があった。悲しい事実である。自己犠牲は美しく尊い一方で、合理的に利用される危うさがある…という発言はちょっとばかし過激だろうか。

そのような精神状態で、軍需工場勤務、軍役を含めて7年近く軍隊にいた、当時二十幾ばくかの「私」は「ミリタリズム」によって死を選びそうになる。そこに聞こえてきたのが「トカトントン」である。

「ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽に、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑つきものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。」

そう、最初に聞こえたのは、実際に金槌で釘を打つ音だったのである。
この音を聞いて「私」は「ミリタリズムの幻影」から解放されたのである。

そんなバカな、と思う方もいるだろうが、感動というのは、以外にもちょっとした雑音で崩れてしまうものなのだ。
自分の事で申し訳ないが、ぼくの高校の時の卒業式を例に挙げる。

卒業式を迎え、同じクラスの何人かが涙を流していた。式が終わり退場することになって、外に出た後ぼくは「いやぁ、足が疲れたなぁ」と呟いた。
ぼくは卒業式にあまり感慨を持ってなかったので思わず出た言葉なのだが、同じクラスの男子に「(その一言で)涙が引っ込んだわ」と突っ込まれた。
今でも申し訳ないことをしたなぁと思う。多少は。

そんな自分語りはともかく、厳粛な雰囲気や緊張感のある場所の空気は、場にそぐわないもので意外と崩れ去る。お葬式の喪主の言葉が噛み噛みだったり、坊さんが指揮中におならしたりと、例を挙げれば数えきれない。…いや説明できるならさっきの自分語りいる?いる(鋼鉄の意志)

まあとにかく、厳粛な空気の中に金槌の音、それも「トカトントン」という滑稽な音(「トントントン」と順調ではなく音が一つ外れてるのも滑稽さを引き立てている)によって「解体」されてしまったのである。

ここで終わってたらただの笑い話なのだが、そうは問屋が卸さない。
これ以降、「私」が何かをやろうと決意するたびにこの「トカトントン」の幻聴が聞こえるのである。

これはたちの悪い病である。
例えるなら、真剣な場面なのに思い出し笑いが必ず起こるようなもので、いわゆる、ツボにはまった状態なのである。

これではにっちもさっちもどうにもブルドック、ワオ!なので、「私」は尊敬する「先生」という作家に相談する手紙を送ることにした、というのが本文である。具体的な症例を挙げ(それも結構なパターンを)、最後に改めて「先生」に嘆願する。

この後、先生からの返信が記されている。これが解釈上一番しんどいポイントなのだが、ひとまず置いといて、一度「私」について振り返ってみよう。

「私」は現在(つまり手紙を書いている時点で)二十六歳である。郵便局に勤めている。そんな「私」だが、文中において自意識が強い面が垣間見える(これは太宰の文体のせい、という部分もあるので微妙だが)。

例えばこの一文。
「日ましに自分がくだらないものになって行くような気がして、実に困っているのです。」
ある意味、これがすべての諸悪の根源であるといってもいいくらいの言葉である。自分がくだらないものになっていく、言い換えると自分は何かになれるはずだという願望である。あるいは世間一般の俗物とは違う、という意識の表れかもしれない。自分は特別な存在だ、と内心思っているのかもしれない。
外側から大きく見れば自我の目覚め、ともとれそうである。今までは、国が指定した理想の国民=国のために自らを捧げることができる人という像があったが、終戦後はそうはいかなくなった。GHQによってそれらは否定され、民主主義を学ばされることになった日本人にとって、何が本当に正しいのか分からない時代になったのである。大人ですら分からない状態は、若者たちにはもっと分からない状態である。そこで自分とはなんなのか悩んでいるのかもしれない。可能性を挙げれば、ごちゃつきそうなのでこれくらいにしておく。可能性に殺されるぞ!

そして、次のような文章が括弧内で書き記されている。
「(私の文章には、ずいぶん、そうしてそれからが多いでしょう? これもやはり頭の悪い男の文章の特色でしょうかしら。自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、泣寝入りです)」
自分の文体に対する自己言及。セルフツッコミである。一昔前の漫画家がよくやってたやつである(偏見)。

ぼくもセルフツッコミはよくやるのだが、ここにも高い自意識が見え隠れする。そもそも、セルフツッコミをするくらいなら書き直せばいいだけである。それでもあえて残しているのは、ちゃんと自分でも問題点を把握してますよ、という周囲へのアピールである可能性が高い。計算高い行動である。

この計算高さはぶりっ子や始めたばかりでメタなネタを入れすぎる作家が陥りがちな状態である。まあ別にそれが悪いとは限らないけど。
なにが問題かというと、計算してますよという点があまりにも明け透けだと、見ているものから顰蹙を買うのである。ヒンシュクをかうのである。難しい漢字なので二回書きました。

見ているものとしてはその人の裏側を見たいのではなく、その人の芸を見たいのである。テレビ番組で「みなさん、ここが笑いどころですよ!さあ笑って!」というテロップが出てきたら、興ざめであろう。
まあ、計算高い、というところまでキャラ化できていれば問題ない(具体例としては芸能人のももちこと、嗣永桃子とか)というケースもあるが、それはレアケースである。

そんなこんなで『トカトントン』考察、中編をここで締めます。
次回は、「先生」の手紙編です。今以上に時間がかかると思います。

よければコメント欄で「あなたが思う「トカトントン」」について語ってください。


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