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自分という役すらまともに演じられない

どうも、とったんです。

年末ですって。あーねんまつ。
2022年もあとちょいで終わりだ。書き終えたころには年明けてるか。
総括ではないけれど、ぼくの内面?の話をしよう

ぼくは演技が下手だ。
この話はすでに何回もしている気がする。
自分で自分の演技が上手いと思っている人の方が少数派の気もするけど。
そうでもない?

演技とは究極「自分ではない誰か、他人を演じる」ことらしい。
らしい、なんて曖昧に言うのはぼくにはその実感があまりないからだ。

演劇部に入ったりTRPGしたり某養成所に入ったりいろいろして来たぼくだけど、「演技」をしているぼくは他人を演じ切れていない。
演技するときぼくの中にある「演技するモードのぼく」の人格にsスイッチで切り替わって、それっぽい声をだそうとしている、みたいな感じか。
だからか、共演する仲間に「それって素のとったんじゃん」とよく指摘される。

ぼく自身にその自覚がない、他人を演じようとする意識が希薄だから、感情表現や仕草を素の自分を基準に引き出している(素のぼくは感情表現が希薄)等の理由から自分では演技をしているつもりになっていて、かつその指摘の意味がよく分からないで混乱してしまうことが多かった。というか演じるということを「それっぽい声色で抑揚などの発声テクニックを駆使して発話する」と思っていて演技を根本からはき違えていた。

他人を演じようとすれば他人の気持ちを理解しないといけない。
「登場人物の心情を答えよ」なんて現代文の授業じゃあるまいし、とは思うけど、役の心情を演じるために踏み込もうとしたら役のパーソナリティを知る必要がある。
何が好きで、何が嫌いで、何が譲れなくて、何が許せないのか。
どんな環境で育ち、どのような経験が今の言動に影響しているのか。
これらを想像しなければいけない。

この作業はその役という人格を作るようなもので、その人格と素の自分を切り替えるためのおまじないというか儀式のようなもの、と今のぼくは考えているが、演劇部のころのぼくはまだよくわかってなかった。
なんでセリフを言うために捏造エピソード作ってんだ?そんなん役者の妄想ごっこやんけ作品に対する冒涜やろくらいに思っていた。

というか、そもそもぼくがぼく自身をちゃんと演じられなかったりする。
行動に一貫性がない、他人の意見で自分の意見がころころ変わる。気分によっても変わる。瞬間的にフレンドリーになったかと思ったら、数日後には内向的になりそっけなくなる。親しいはずの人間が数日離れると怖くなる。勝手にぼくは周りから無条件で嫌われてんじゃないのと思ってしまう。そして閉じこもる。

一見外交的な人も実は「外交的な自分」を作って、それに則って演じているのかも・・・いや大体は自然とそうなったタイプだろう。ナチュラルボーンコミュ強だ。なんかしらの試練を乗り越えてるから壁を越えれるんだろなすごいや。

ぼくは他人からどう思われてるのか、特に嫌われてるんじゃないかを過剰に気にするきらいがある。嫌いを気にする「きらい」・・・ふふっ。
優しく接してくれる人がいても裏ではきっと「あーめんどくせーこいつとかかわりたくねー」って思われてるんじゃないだろうかといつも心配している。だからか、ぼくは他者を恐れている。他人は、いやたとえ仲良い者でもみなぼくを見下したり非難してくるんだ・・・!と被害妄想をしている。
実際はみんなそこまでぼくに関心がないと思うけどね。自意識過剰だよ。
でも、それはそれでさみしい。めんどくさい!
相手から話してくれれば待ってましたとばかりに話し出す。かまってちゃんか?めんどくさいおじさんか?俺おじさんだったわ・・・。

何もしてなくても気持ち悪いと言われる(思われる)恐怖に囚われ行動できず、結局何もせず離れたところからニチャニチャ集団を見ている奇行癖のある成人男性、それがぼくである。それはきしょいな。

まあでもここ数年、オンライン上で温故知新をしまくったりしてやっぱり人との関わりは断ちたくないなとは少し思ったり。

最近、「ぼっち・ざ・ろっく!」を見たのだけど、ぼっちのぼっちたる所以は「相手からのアクションを待ちすぎて身動きが取れない」「余計なことすると嫌われる」「失敗したらどうしよう(だからできない)」で行動できないことにある。

来年は自分から行動できるようになりたいな。来年の抱負。
案外相手も待ってるのかも。
だったらちょっとウザいかなくらいに積極的に行こう。







ただまあ、本当にしつこいとか下心丸出しだとただただ嫌われるだけだけどね。
加減しろ莫迦!

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