黒猫と古家と相方さんと私と (生きるということ)
我が家は築40年を超える古家だ。
住人同様にあちこちガタがきているが、それなりに踏ん張っている。
横長の古家に沿って細長い裏庭がある。
狭い庭に似つかわしくない大きな木が3、4本立っていて、夏に向けてこれでもかと言わんばかりに枝を伸し葉を茂らせる。あまりにも成長が早いので、何年かに一度は植木屋さんに頼んでかなりの伐採をしてもらうのだが、あっというまに枝を伸ばし夏には完全復活してわさわさと葉を広げる。
夏に我が家を裏から見ると、うちだけ森の中にある家のように見えるぞ・・と相方さんは言うのだが。
今年の秋前には思い切って、わたしの腰あたりの高さまで伐採しようと決めているのだが、命ある木の太い幹を切り倒す・・ということにじわっと胸が痛むのだ。
そんな限りなく自然に近い我が家の裏庭(雑庭というべきか)は、野良猫たちの通り道になっている。冬の西陽が差し込む日は、小さな古池跡に積もった枯葉布団の上で日向ぼっこをしていたり、春にはオス猫達がお気に入りのメス猫を追いかけて裏庭を駆け抜け、くんずほぐれつの恋バトルを始める。初夏には恋の果てに生まれた子猫達が室外機の横からひょいと顔を出したりもする。
間貸り猫
我が家のキッチンの裏には古びた物置がある。今は使っていないシューズボックスなどを放り込んでるだけの開かずの物置だ。ここは野良猫の休憩所になっている。野良猫はここで真夏の陽射しを避け、真冬の寒風や突然の雨をしのぎ、朝のひとときをここで過ごす。
さしずめ我が家は間貸し主で、彼らは間借り猫というわけだ。
どうやらここに入れる野良猫は1匹と決まっているらしい。今まで何匹かの野良猫が入れ替わっている。茶トラのときもあれば黒シマのときもあった。
野良猫の寿命は平均3~5年だと言われている。この休憩所に来なくなった野良猫達のその後はわからないが、おそらく・・の予測はつく。
今の間借り猫はメスの黒猫だ。この2年半ほどこの黒猫に物置を間貸ししている。我が家では間貸しはしているが、食事などの面倒は一切見ていない。
だから名前なども当然ない。朝早くに来て昼過ぎには出ていく。おそらくどこかへ食べ物を調達しに行くのだろう。
黒猫と直接出会うことはめったにない。黒猫の存在を知るのはいつもキッチンの窓のすりガラス越しである。物置のシューズボックスがキッチンの窓のそばにあり、その上でくつろぐ黒猫のシルエットが見える。
ああ、今日もお互い元気でよかったね、と毎朝窓越しに無言で確認し合うという素っ気ない関係だ。
我が家はこれまでずっと犬と一緒に暮らしていて、今までに3匹の犬を看取ってきた。最後の元保護犬のダックスが我が家に来て丸5年。予測もできず突然に亡くなってこの夏で1年が過ぎた。
動物と共に暮らすということは、その生涯に最後まで寄り添うということだ。一度人間と寝食を共にした動物は絶対に野生には戻れない。
保護犬や保護猫については、いろいろと思うこともあるが、相方さんやわたしの年齢を考えて、犬であれ、鳥であれ、猫であれ、最期を看取れないかも知れない動物は、もう家族として迎えない・・そう二人で決めている。
黒猫の悲劇
ある日のこと、相方さんが裏庭で洗濯物を取り込んでいたときのことだ。
「黒猫が物置の前にいて、その前に食いちぎられた子猫のような残骸がある・・。」となんとも言えない顔で部屋に上がってきた。
驚いて庭に出てみると、確かに黒猫のいる前に黒い毛がついた残骸が散らばっている。いつもは人の姿を見るだけで逃げていく黒猫が、その残骸の前で身動ぎもせずじっとこちらを見ているのだ。
何をどうしてやればいいのか?果たしてあれは本当に子猫の亡骸なのか?
だとしても母猫が子猫を食べるなどどいうことがあるのか?
もしかしたらカラスにやられた子猫を咥えてきたのではないのか?
だとしたら何故あんなに残骸が散らばっているんだろう?
こういう時こそのネット頼み。母猫・子猫食べる?で検索してみる。
「カラスやイタチなど他の動物などに殺されたり、傷付けられたりした子猫を放置することで、他の子猫が再び襲われたり、死骸から他の子猫が感染症にかかるのを防ぐために食べてしまうことがある・・」と書かかれている。 ううん・・。そうなのか・・。
だとしたら、むやみに人間が手を出すのはどうなのか・・。彼らには彼らの自然の摂理というものがあるのではないのか。いやしかし・・このまま見て見ぬふり?
一見強気に見える相方さんだが、こういう悲惨ともいえる状況がすこぶる苦手な人だ。どう見てもわたしがどうにかしなければいけないのだが、どうしても手が出ない。とりあえずは少し様子を見てみよう、と相方さんと話し合った。
でもまだ次の日もそのままだったら、わたしがどうにかするんだよね。
俺には絶対無理だから!としっかりと言いっ切った相方さん! どこまで弱気なん?!
2匹の子猫を亡くした母黒猫
思いもかけない惨状を見た次の日の夜明けごろ、わたしは裏庭から聞こえてくる細くて低い猫の鳴き声で目を覚ました。
その声は寂しげというものでも、弱々しいというものでもなかった。
儚げではあるけれど、人の耳にしんしんと沁み込みながら、深いところまで届くような声だった。
早起きな相方さんはすでに隣の居間で朝のミルクを飲んでいる。
「猫、鳴いてるよね・・」寝床の中からそう言ったわたしに、相方さんは静かに、それでもはっきりと強い意志を持って答えた。
「今、庭には出るな。俺たちに何がしてやれるわけじゃない。昨日お前にあの現場を見せなきゃよかった・・。」
相方さんの真意はわたしにはわからない。彼は不幸といわれる人や動物、あるいは障碍と呼ばれるようなものを背負ってしまった人や動物を直視するのがとても苦手な人なのだ。
それは相方さんが冷たいということでは決してない。相方さんはすこぶる優しくてすこぶる弱い人だ。そして何より正直な人なのだ。 彼はただただ辛い・・昨日、自分が目にした悲惨な状況が・・ただただ悲しく辛いだけなのだ。
相方さんが仕事に出かけ、わたしはいつものように朝の家事を済ませ、冷たいレモンティをグラスに入れてPCの前に座った。
吐き出し窓からは、たっぷりな緑の葉がわさわさと風に揺れ、その隙間を初夏のキラキラした光が飛び跳ねている。
もう猫の鳴き声は聞こえなかった。いつもと同じ穏やかで静かな午後だった。キッチンの窓のすりガラスにも黒猫のシルエットはない。
なんとも落ち着かない気持ちになって、わたしは吐き出し窓から裏庭に降りてみた。そっと庭の先にある物置の前に目をやると、なんと、あの黒猫が昨日と同じところに、前足をきっちりと揃えて座り、昨日と同じようにわたしをじっと見つめていたのだ。
そこには、昨日黒猫のまわりに散らばっていた子猫の死骸らしきものは何ひとつ残っていなかった。黒毛の1本、血の一滴も残っていなかった。
その意味するものの真偽はわたしにはわからない。わかるのは、無残に散らばっていた子猫の死骸であろうと思われたものは、もうこの世界から跡形もなく消えてしまったということだけだ。
君が食べてしまったのなら、それはそれでいい。わたしには君の思いなど解るはずもないのだから。君は君のするべきことをしたのだろうから。
わたしは黒猫にかける言葉を持っていない。わたしと黒猫は黙って見つめ合っていた。ただ不思議だったのは黒猫はまだその場所からピクリとも動こうとしないことだった。
ふと、わたしが足元の少し先の草むらを見た時だった。黒猫とわたしのちょうど真ん中あたりで、青草に埋もれるように横たわっている、真っ黒な子猫の遺体を見つけたのだ。
もう一匹子供がいたんだね・・。この子が心配だったのか?
だからまだそこを動けずににいるのか?
この子をどうしたいの?わたしにどうしてほしいの?
しゃがみこんで、ただ所在居なく死んだ子猫を凝視しているわたしと、それを金色のガラスのような目でじっと見つめている黒猫と。
初夏とは思えない強い陽射しの中で、2匹の子猫を亡くした黒猫とわたしが、「虚無」とでもいうような時間を共有している。
ヤサシサ
わたしは部屋から小ぶりな和菓子の紙箱を探し出して、庭中に広がっているムラサキカタバミの花と葉っぱをいっぱいに敷き詰め、そっと子猫をそこに横たえ静かに手を合わせた。
大丈夫・・この子はわたしが空に送ってあげるから。それは君の望む意向とは違うかも知れないけど。君は最後まで自分の力で、この子の猫生に責任を取りたかったのかも知れないけど。余計な事をしてごめんよ。でも見て見ぬふりはできないから、少しだけわたしにも君の生き様に関わらせてもらっていいかな・・?
裏庭ではあまリにも陽射しがきつすぎる。わたしは子猫を入れた箱を真新しいビニール袋で包み、玄関先の庭にある満開の紫陽花とクチナシの花の根本にそっと置いた。クチナシの強い香りがしゃがんだわたしの頭の上でゆらゆらと流れる。
この小さな子猫の亡骸をどうしたものだろうと思いを巡らす。我が家の犬達のようにペット葬儀社に依頼する? それは・・少し違うだろ・・と、こころの中のもう一人のわたしが言う。
わたしは生きている時の子猫に一度も会ったことがない。一度も食事を与えたこともなければ、頭を撫ぜたこともない。そもそも黒猫が子猫を産んだことすら知らなかった。黒猫とは間貸し主と間借り猫の関係ではあるが、その関係は必然ではなくどこまでも偶然でしかない。
シアワセ・・あの黒猫の願うシアワセと、人間が彼らに与えるシアワセは同じなのか?野生の子として生まれ、野生の秩序の通りにこの世界から消滅していったあの子猫はフコウだったと、誰が誰に向かって言えるのだろう。小さな菓子箱に入った子猫の亡骸を見ながら、そんなことを考えた。
わたしは博愛主義者ではない。わたしはキリストでもお釈迦様でもない。
この世に生きるものすべてに、満遍なく降りそそげるヤサシサなど持ち合わせていない。
わたしはこの子猫を生ゴミの日にそっと出すことにした。
生ゴミ・・この言葉を平然と使うことのできる自分の残酷さ。
人間が食べつくした肉や魚や野菜の残骸。切り倒され削られ加工され紙となった木の残骸。すべてかつて命あったものたちの遺骸だ。
かつて命あったものたちと一緒に君も天に昇って行くのだよ・・。
わたしのヤサシサなど・・この程度のものだ。
生きるということ
次の取集日まで2日ほどあった。わたしは毎日散歩の帰りに白爪草やヒメジオンをいっぱい摘み取ってきては、子猫の紙の棺の上に飾った。この子猫には野花が似合う。これもわたしの偏った人間的な思い込みなのだろう。
子猫の経緯を話した夜、相方さんは冷凍庫にあったありったけの保冷剤を持ち出して、棺の箱を包んでいたビニール袋いっぱいに詰め込んだ。
「遺体の腐敗が進んで蛆が湧いたら可哀想だからな。」
それが相方さんの精一杯のヤサシサなんだろう。子猫の亡骸は絶対見ようとはしないけど・・な。
あのとき、子猫の紙の棺を玄関前の植え込みに移したあと、わたしは再び裏庭を覗いた。黒猫はわたしのいる吐き出し窓のそばにじっと佇んでいたが、一歩前に足を踏み出すと真っ直ぐにわたしを見上げた。
「生きるって、そういうことよ」
黒猫の金色の目がそう言っているようにわたしには思えた。
それから、黒猫はすべてが終了したと言わんばかりに、裏庭のブロッグ塀をひょいと駆け登り姿を消した。
「生きるって そういうこと」なんだろうと思う。
それが人であれ動物であれ、生まれることや死ぬことの場所や期限を、自らの意思で決める権利を持っているものなどどこにもいない。子を早くに亡くした親も、親を早くに亡くした子も、さまざまな理不尽な理由で愛する人を亡くした人も、自分に命の火が残されているかぎり明日を生きていく。
今日がどれほど残酷で非情な一日であったとしても、有無を言わさず明日という日はやってくるのだ。そして、食べ、動き、思い、泣き、笑い、その日を越していくのだ。
いつかはこの古家も終わりを告げる日がくる。役目を終えた古家は跡形もなく取り壊され、更地にはまた新しい若い家族のための棲家が建つ。
おそらくその頃には、わたしも相方さんも、なんとか人生の役目を終えて、あの子猫や黒猫や先に逝ってしまった愛犬達のいる天の国とやらに辿り着いていることだろう。
そいうふうにすべての生きとし生けるものは、生と死を繰り返し命を繋いでいく。
子猫の亡骸を裏庭から移した日を最後に、我が家の休憩所に黒猫が来ることはなかった。新しい間借り猫が来る気配もなかった。
キッチンの窓のすりガラスは、毎日ぼんやりぼやけた空間だけを映していた。
そんなある朝のこと。夜更しでふやけた頭をもしゃもしゃしながら起きてきたわたしに、早起きな相方さんが「やっとお目覚めですか」とイヤミな言葉を吐きながらキッチンの窓を指さした。
キッチンの窓のすりガラスには、足を高く上げてゆっくりと毛づくろいをする黒猫のシルエットがあった。
それからの黒猫は気まぐれに来たり来なかったり。あの子猫の死などなかったかのように、いつもの日々をいつものように過ごしている。
わたしは今日も相変わらず日中はピコピコとPCのキーボードを叩き、仕事を終えた相方さんは、テレビがつまらん!と言いつつも、ノンアルビールを飲みながら、三種の神器のようにリモコンを握りしめている。
「生きるって そういうことよ」
黒猫の言葉にならない言葉が、胸の奥でリフレーンする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?