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小説 Just moment 記録保存用ファイル


🌟タイトル Just  moment


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🌟本文 second1〜second4 (10,575文字)

second1

「あなたはこれまでに何人の男に抱かれたの?」 

さりげなくそれでも興味深そうに言う男。 

それもちょうど私がハンバーグを一口、大根おろしをたっぷりつけて口に運んだその時に。 私は肉がだめ。牛肉も、豚肉も、鶏肉も、すべてだめ。
どんなに高級と言われるステーキでも、その形状が、感触が、口に含んだときのふっと広がる匂いが、私の五感全部で受け付けない。唯一、肉らしきものを食べられるのがハンバーグ。
だから肉料理が好きという男に合わせる時は必ずハンバーグ。それも大根おろしがたっぷりついた和風ハンバーグ。
それしか食べない。

私には食物選択欲なるものがあまりないらしい。というより、物欲、所有欲、選択欲、というすべての「欲」が、私の感覚から少し欠落しているのかも知れないと思う。 
ただひとつ、男の選択欲だけは別なのをこの人はまだ知らない。 

男の言葉を聞いたとたんに、いつもはすんなりと喉を通るはずのハンバーグが、舌の上でぎくりと凍結してしまった。 

フォークを口に入れたまま男を見つめるわたしに男は

「いや、べつに気にしているわけじゃないんだ。過去のことは過去のことだから。僕は今の君を好きなんだし。」 

言い訳がましく、それでも少し悪そうなそぶりで言う。 

また・・失敗か・・と私は思う。おきまりのセリフ。 まったく誰も彼も教え込まれたオウムみたいに。

「私は今まで男に抱かれたことはないわ。」 

私の言葉に男はケラケラと軽い笑い声をあげた。

「そういう冗談は18、9の小娘のいうセリフだろ。大人の女の冗談じゃあないな。」 

just a moment 

私の頭の中でクイズの×音が三つ鳴った。 
これで失格。退場ものだ……。 

「冗談ではないわ。男に抱かれたことは一度もないの。」 

男はまだ笑っている。どうしようもないね、と言わんばかりに。
みごとな余裕だ。わたしは笑わない。 
その気さえさっきからとうに失せている。 

「怒ったの? 失礼な質問だったら謝るよ。」 

ためいきが思わずわたしの口から流れる。

「そうではないわ。鈍感な男が嫌いなだけよ。」 

僕が? 鈍感? 男の顔に戸惑いと少しの憤懣が見える。

だから抱かれたことはないと言ってるのよ。SEXをしたことはないとは言ってないわ。そこまで言わなくてはならないあなたの鈍感さが嫌いなのよ・・と後の言葉を胸の中で吐き出して。

最悪の食事。最悪の状況。
最後まで男はあなたは解らない人だと悩み続けて困り果てて、私の機嫌は泥沼に入りこんだ。 

早くあの部屋に帰らなくては。そしてシャワーを浴びなくては。 
今日のこの時間を消さなくては。

当分はハンバーグもだめになりそうだ……。


「お姉さん、今日はご機嫌ななめ。」 

唄うように言いながら彼は、シャワー室からバスタオルで頭をわしゃわしゃさせながら出てくる。 
そうご機嫌斜め。斜めから縦になりそうで。 

あなたが私より先にシャワーを浴びているなんてね。おかげで見たくもないテレビのトレンディ・ドラマに30分も付き合ってしまった。そういうあなたも少し憂鬱気味。

むしゃくしゃするときシャワーを浴びる癖はふたりの共通点だから。 

彼はまるで自分の部屋でくつろぐみたいに、床にぺたりと座り込んでドラマの続きを見ているようで見ていない。
視聴率15%とかいう人気の恋愛ドラマ。

「どうしてこんなドラマがいいのかなあ。お先見え見えのドラマなんてね。」 

「見え見えだからいいんでしょ。安心できるじゃない。見てて。」 

人は先の見えないもの、安心できないものには拒否反応示すもの。
あなたと私以外はみんなそうよ、と顔だけで答える私に彼は綺麗な笑顔を向けた。

「僕にはお姉さんのドラマのほうが、うんと刺激的でわくわくするけどね。」 

それはこっちのセリフだわ、と思いつつ私はシャワー室に飛びこんだ。

シャワーを浴びて出てくると、彼はみごとな大粒の苺をお皿にひとつひとつ綺麗に並べていた。つやつやの真っ赤な苺。

真っ白な大ぶりのお皿の上に放射線状に並んだ苺は、それだけで一枚の絵になる。

「と、よ、の、か、い、ち、ご、だよ。今日友達が持って来てくれたんだ。
きれいでしょ。端から順番に食べてね。
決して真中から食べちゃだめなんだよ。
こころのバランスが崩れる。」 

彼の言葉に私はいつもの私にもどる。

端からひとつづつかわりばんこに苺をつまみながらの、彼の誘導尋問はみごと。 
最後のひとつをじゃんけんで奪い取った私は、その時今日の顛末をすでに彼にすべて知られていた。

「彼も不運な男だね。相手がお姉さんじゃなきゃ、今ごろ二人仲良くベットの中なのにさ。」

どっちが不運なんだか。

「彼が困惑するのも無理もないところも少しはあるね。 僕の知り得るかぎりの女はお姉さん以外、例外なく好きな男に抱かれるんだよ。好きな男に抱かれて喜びを感じるの。」  

人のことことなどはどうでもいい。
誰がどう思うなんてことはどうでもいいのだ。 いやなものはいやなだけ。 
私の選択肢の基準に反するものは受け付けないだけ。私の味覚が肉を受け付けないのと同じことだ。

「わ、が、ま、ま」 

彼はそう言いながら少しだるそうに伸びをする。彼が私を「お姉さん」と呼ぶときは、彼にも少し憂鬱の波があるとき。
気分がいいときには私のことを「MERUMO」とよぶ。昔、少年の頃に見たアニメの主人公なのだそうだ。 

おそらく彼の年齢からしたら、再再々放送くらいにはなる古いアニメ。
ほとんどの人がとうに忘れてしまっているだろうそのアニメを、彼がどうして子供のころに見られたのかは知らないけれど。 

いつもは少女なのに、ある薬をのむと突然大人の女に変身するという少し色っぽいアニメ。確か教育上よろしくないとかで、放送禁止になった記憶があるような、ないような。

少年の彼が唯一 "衝撃" をうけた作品なのだという。 あどけない少女が一瞬にして大人の女に変身する。その瞬間がとてもエロチックだったと彼は言うのだ。

「エロチックって言うのは一般論的な意味でじゃないんだ。
もっと幻想的でそれでいて、とてもリアルで。 
僕は小学生にしてすでに女の何たるか、に気付いていたってわけ。
でも大人になってかなり失望もさせてもらったけど。女ってやつにね。 

大人の物分りのいい女のふりをしているくせに、実はとてつもなく男に過大な幻想をもっているやつとか。
にっこりさんしていれば、すべての男は筋肉マンみたいに、自分を守ってくれると頑なに信じているお馬鹿とか。
かといえば、やたらと優しさの押し売りの好きなやつ。男はみんな母性回帰願望があるのだと言わんばかりに。
聖母マリアにでもなったつもりなのだろうね。バーゲンセールみたいにお手軽な「癒し」とか「ヤサシサ」とやらを、両手いっぱいに抱えてこられても、相手は唯重苦しいだけだということにも気づかない愚鈍さ。
最悪なのは、ワタシなんてスタイルも悪いし、顔も良くないし、ぜーんぜん自信なんてないから…とかってワザとらしく謙遜してみせるやつ。だけどワタシ、肝心のココロだけは綺麗なのよ、っていいたのか、そう思って欲しいのか。
ワカってる女を演じている自分を自覚しているのなら、まだその浅はかなしたたかさは乾杯ものだと思わないわけじゃないけど。
その自覚すらないのは救い様がないね。
まさしく頭の中身まで幼稚園並ってわけさ。」

時に彼の女というものに対する評価は残酷なくらいに手厳しい。 

彼のことをゆめいっぱいに愛してくれていると信じている女が、不用意に凭れかかりでもしたら、その心臓を一突きするような冷たさに、息の根が止まってしまうかもしれないほどだ。
でも、たぶん、女は死なない。彼は決して女を殺さないから。
彼という男は、どんなに女が瀕死の状態になろうとも、最後まで殺さずに生かしたままにしておく男だ。
優しさとどこか寂しげな顔を向けて。

彼が私をその "衝撃" 作品の主人公の名前で呼ぶからと言って、私が特別で彼好みの女に合致したと言うのでは決してない。
合致したからと言って嬉しくもなんともないが。人の好みの女になどなりたくもない。

わたしの欲の欠落がわたしに彼の何をも必要としなかったことと、私が男に対して少しばかり偏狭な選択肢を持っていたのが、彼をひどく喜ばせただけのこと。
私にとって彼は、そばにいても決して私の気分の波を苛立たせない存在でしかなかった。 

ほんとうに自然なあたりまえのかたちで、彼は私のこの部屋に滑り込んできた。
私しか入ることの許されない、私の特別なこの秘密の部屋に。 

ここは私のこころの外殻のようなところなのだから。 気の置けない女友達でさえ、この部屋の存在を知らない。 

私は孤独が好きなわけではない。人嫌いなわけでもない。 うまく対人関係を築くことも苦手ではない。
お酒を飲んで馬鹿騒ぎするのも結構楽しめる人間だ。 彼の嫌う「にっこりさん」を時にはうまく利用して、楽しい時間を作り出す術もちゃんと心得てもいる。 
陰と陽とに、あるいは積極的か消極的かなどと、人間を白か黒かに二分したがる世間から見れば、快活かつ元気な前向き人間だと言われる部類なのだろう。
そういう選別にどれほどの意味があるのか定かではないけれども。

そういう私なのだが、時々自分では止められないくらいの虚脱感に襲われる。 
晴れた空が突然薄いグレーな雲に覆われる瞬間がある。 
それは、あのNEVER ENDING STORYの 「虚無」 がやってくるようなものだ。
そんな時はあがいても騒いでも無駄。
ひたすら私は私の殻に閉じこもっているしかない。 台風が去るのを雨戸を閉めきって待つ子供みたいに。

すべての外界の物音を遮断して、突然煩わしくなる人間模様を断ち切って私は殻に逃げ込む。 ここはそのためのシェルターのようなもの。 
過呼吸症候群のようになった私は、この部屋のドアを閉めたとたんに生き返る。
酸素を送られた金魚のようになる。 

そんな私だけの部屋に、彼が入り込むようになったのはいつのことだったのか。
それさえも今ははっきりとしないくらい、彼はこの部屋になじんでいる。


second2

いつも私がここにいるわけではない。
彼もまた毎日来ているわけでもない。
私のいない間に彼が来ている事もある。
それは散らかした跡ですぐに解る。

彼はこの部屋でひとり遊ぶのが好きだ。 
作りかけの帆船のプラモデル。何枚あるのか気の遠くなるような複雑なジグソーパズル。 
どれも彼がこの部屋に持ち込んでそのままにしておいたもの。どれもみんな未完成のまま。

「遊びは完成させることに意味はないの。遊ぶ時間が大切なの。これはそのための道具。」 

彼の言葉だ。
その言葉どおり後は見向きもしない。 
帆のない帆船。所々が空白のまだらな地図のようなジグソー。
すべてが未完成で不完全な彼のかたち。 

そんな彼の奥を覗きこむほどの余裕は、ここにいる時の私にはない。たいていの時、私はここでぼおっとしている。
二人でぼおっとしていることもある。

言葉がわずらわしいときに、二人が名付けた「無口なオウム遊び。」
言葉を一言も発しないで、どれだけ相手の意志を読み取れるかという遊び。 

私がワインを飲みたい気分の時に、カルピス割りウイスキーを嬉しそうに作る彼。
二日酔いで胸焼け状態の彼に、とびきり甘いフルーツサワーを差し出す私。 
どれも不正解で正解。勝敗のいらない自分勝手なオセロゲームのようで。
二人に答えはいらなかった。無口な時間が必要なだけだった。 

彼がこの部屋に、自分のお気に入りの座り場所を見つけたように出入りし始めた頃、私は一切彼に関わらなかった。
彼がここにいることを私が認めたわけでもなかった。
人を意識して関わるだけの気力も、ここに居るときの私にはないのだ。 

唯々、ぼおっとしている私の傍らで、彼はひとり自分だけの遊びに熱中していた。
まるでひとりお留守番している子供のように。彼もまた私の存在を無視していた。 
その互いを否定しない無視が、私達にはとてもここちよかった。 

「ひとり遊びが好きなのね」 と聞く私に、彼は答えた。

「そう。好き。自分大好き人間だから。そしてあなたもまたそう。」

正確で的確な返答だ。 

そして私達はときどきひとり遊びから、ふたり遊びをするようにもなった。
どこまでもお互いちぐはぐな、ふたり遊びだったけれど。

彼の遊びの探求心は徹底していた。 

シャボン玉を様々なもので作っていたことがある。 
洗濯用洗剤。これはデジタル模様の乾いた玉なのだそうだ。 
台所用洗剤。これは虹いろの綺麗な玉だけれど、ぴらぴらのナイロンのようであまりお気に入りではなかったようだ。 
ボディシャンプー。これは小さくて淡くて小花のような玉で、けれど儚すぎる軽さが意識の中に残らないと不満げだった。 
固形石鹸。これをを細かく刻んで、コップにとかして作ったシャボン玉が一番いいらしい。

彼の言葉を借りれば 
「シャボン玉は軽すぎても重すぎても綺麗に飛んで行かない。正確な重さを持ってなきゃいけない。 確かな厚みがなければ、複雑でまろやかな色は出ない。きらきら光るだけのシャボン玉は、すぐに割れて消える。」 ものなのだそうだ。

そんな言葉に意味があるのかないのか、わたしは考えようともしなかったけれど。
無意味なことに無意味に挑戦する、彼の存在が楽しかっただけなのだ。 

私達はいつでも無意味な遊びに熱中した。 
漢字変換遊びとか。 
今思いついた言葉を自分のこころの赴くままに、どれだけ違う漢字に変換できるかという無意味な遊び。  

たとえば。「ほうよう」という言葉。 
彼が変換した漢字は「放遥」 
揺れる自分のこころで相手を思いきり抱きしめて、その後でそっと大空に放ってやる。 

私なら「泡溶」となるけれど。
抱きしめ合うことは、溶けて崩れて漂う海の泡のように確かで儚いもの。

「なんだかなあ・・。」 

「なに?」 

「いいけど。」 

あとは沈黙。 

オーロラ。「黄露螺」
届かない海の地平線のむこうの端で、黄金に輝く露の螺旋模様。 
掴んだとたんに目が覚めた悲しい記憶。 

「目が覚めたとき涙が出てたでしょ?」

「そう。何故泣いてるのか、その意味はもう記憶に残ってないのに。でも悲しいという感覚だけは確かなんだ。」

「今、自分は悲しいということだけわかっている悲しさよね。」

私達の会話もまた、道筋の不必要な無意味な Pin-pon Talk 。

熱中はしても集中はしていない私達の遊びはすぐに頓挫する。 
行為を作業にしないのがこの部屋にいる目的のようなものだ。

それは子供の一人遊びと同じ。 
お絵描きしている子供は、完成することを目的にしていない。
クレヨンが画用紙をすべるときの、にゅっとした感触だけを楽しんでる事だってある。 
四角い白い枠を黒と赤で塗り潰す、その鮮やかな対比を喜んでいるだけの時もある。 

一種の自慰行為のようなもの。

だから描き終えた絵になど子供は執着しない。描き散らかしたまま、次の遊びへと気持ちは飛んでいる。

残された絵は行為の残骸のようなものだ。 

残された残骸を見て大人たちが知ったふうに、子供の無垢なこころで描かれたものは色彩感覚が素直だの、構図が伸びやかだのと、勝手に決め込むのは自由だけれど。

子供にもし大人としての意識があったとしたら、ふふん と鼻で笑ったりするだろう、と思ってみたりする。


お絵描きといえば、一時期ぬりゑ遊びに熱中した時期もあった。彼がどこからかたくさんのぬりゑを手に入れてきた。 

なんでも昔なじみの友人の、古い駄菓子屋のおばあさんが亡くなって店を閉じるので、好きなものを持って行っていいと言われたのだとかで。それが何故 ぬりゑ だったのかはよく解らないけれど。

あまり上質でない、ざらざらした紙の中の白雪姫やシンデレラ。 どこか少し間の抜けたバランスの犬や猫。 
それらを二人で次々に塗っていく。 
それも一枚のぬりゑを、二人同時に思い思いの色で。 
グレーの濃淡のフリルの袖と、大胆な青とピンクの幾何学模様のドレスの裾。
星がきらきら光る瞳の顔を、薄いグリーンに塗りこめたのは私。

出来あがったのは、アンバランスで不可思議で妖艶でシャープな白雪姫。
二人で満足げにうなづき合ったりした。 

彼はそれを MERUMO姫 と呼んだ。 
ついでに新しいお話まで作ってしまう念のいれようで。 

「MERUM姫はリンゴに毒が入っていることなど、とっくに知ってたんだ。だからちゃんと最初から、解毒草を飲んで騙された振りをしてた。わざと小人達を悲しませるふりしをて楽しんでたんだ。 

小人達もそれを知っていて、でも姫が眠ってくれていることで、彼女のわがままに振りまわされずに、毎日姫の美しい顔を見られることに満足してた。 
お互いの望みと欲が一致した GIVE AND TAKE な遊び。 
お互い嘘だと解っていても、最も真実らしく振舞うことのできる、大人の楽しい遊びなの。 

その楽しい遊びの邪魔をしたのが白馬に乗った王子。 少し遊びにあきた姫が、王子の誘いに乗って違う遊び見つけちゃったんだ。  
ちょっと刺激的でスリリングな遊びをね。 

だけど小人達は分かっているんだ。 
姫は王子の誠実な無神経さに、すぐに嫌気がさして、遊びに飽きてここに帰って来ることをさ。だって姫はとんでもないわがままで、傷つきやすくて、独り善がりな、こころやさしい姫だからね。 
かわいそうだったのは白馬の王子。
姫に振りまわされて、疲れ果てて、気がつくと浦島太郎のようになっちゃった。」 とか。

まったく無秩序で略脈もないお話。 

そんな彼のどうでもいい作り話を聞きながら、うとうとしている時間が妙に心地よいのはどうしてなのだろう。 

これも結果のいらない時間のありかた。 

すべてが意味付けのいらない、行為と会話で成り立った時間の重なり。


second3

今日もいつものように酸素不足になりかけの私は、この部屋の鍵を開けた。
彼の気配がまだ残っていた。

飲みかけのオレンジジュース。
脱ぎ散らかしたバスローブ。
彼が持ってきたのだろう白いポピーの花が数本、無機質な部屋のテーブルの上の、青い切子硝子のコップに投げ入れてあった。 
白い和紙を一握りしたみたいなたよりない花。勝手きままな方向に俯き加減に収まっている花の姿は、この部屋に居るときの彼のようでもあり私のようでもあり、その自由さとなげやりさが私のこころを安心させる。

部屋の隅に置いてあるだけの、外界との接続線は切られたままのパソコンのモニター画面に一枚の紙が貼り付けてあった。

「HELP! MERUMO。 BUT YOU ARE NOT SAVE」

誰かに助けを求めることなど、彼には絶対ありえないことだということを、私が充分に知り尽くしていることを知っている彼の、真顔なジョークにわたしも真顔で笑ってみせた。

そして、その紙が丸められることもなく、すぐに屑篭にすとんと落とされることも、おそらく彼には分かっていることだろう。

やがて予定どおりの約束のように、その紙は紙飛行機になって、きれいな曲線を描いて、何度目かの挑戦ののち屑篭にみごと着陸成功した。 

うつらうつらの似合う春の日。 
夕暮れには少し間のある午後の陽の光。
部屋中の酸素が私の足のさきから徐々に浸透してゆく。 
目を閉じたまぶたの裏に、明るい丸と楕円が重なり離れて浮遊している。 意識の遠のくときの離脱感はどこか遠い記憶の中にある。 

それはいったいどこなのだろう・・。 

カバンの中のスマートフォンの着信音でふと目が覚めた。 閉め忘れた外界との扉。
そこから雪崩れ込んでくる不必要な情報は、腕を伸ばして自ら遮断しないかぎり執拗に呼び続ける。

より夕暮れに近くなった午後は、少しだけ陽の光が弱くなっている。 
全身に酸素がまわると、私の体は急に重くなって動作がより緩慢になる。

身体を横たえたままカバンを引き寄せて、腕だけ延ばしてカバンの中からスマートフォンを掴む。 開いてみると、めずらしく彼からのlineだった。
彼に自分のlineをいつ教えたのかも、わたしの記憶には残っていない。

「 I'm making love just now 」 

彼ならやりそうなことだ。

女を抱きながら片手でlineを打つことくらい、彼なら造作なくやるだろう。
女の首筋に唇を這わしながら、まるでモールス信号のSOSでも打電するように、一文字一文字ボタンを押してゆく彼の姿が見える気がした。

F ・ A ・ I ・ G ・ H ・ T ・ !  

スマートフォンを床に置いたまま、人差し指だけでボタンを押す。  
がんばれ・・ね・・。 少し意味が違うか。 
FAIGHTのもうひとつの訳は 闘う… だったっけか。 
彼の体をつらぬく心地よくむなしい闘いに エール を。送信。

ほどなくして返ってきたメール。 

「Safely complete now Sank you ! 」  

たぶん今日も彼はこのバスルームで、お気に入りの桃の香シャンプーで二度目の頭を洗うことになるのだろう。


second4

沈丁花の濃厚な香りが部屋中に満ちている。 

この肉厚の、綺麗とはほど遠い花のみごとな自己主張。鼻を近づけてはじめて香りを感じる花は総じて美しい。 

たぶんそれは花開くだけで人を惹きつけることを、自ら知っている花の傲慢さなのかも知れない。 それも枯れてゆくときの、残酷なくらいに哀しい自らの姿を知っている、精一杯のはかない自己主張。 

沈丁花の濃厚な香りは人を惹きつけもするけれど、その激しいくらいの香りの密度に辟易されたりもする。どの花とも相容れない。 

薔薇のようにどんな花を横に据えても、ちゃんと自分の存在を中心に置いておける花ではない。 小さく枝分かれした葉が邪魔をする。 
花と呼べないくらいの硬い花弁と、しっかりしすぎた枝は、花を生けるという要素からは程遠い。切り取って単独で差す花。 

孤立して他者を拒絶してはじめて、この花のひそやかで強烈な自己主張が生きる。

辟易するくらいに濃蜜な存在理由。


彼の今日の憂鬱の波はいつもより大きいのかもしれない。 
さっきから私が持ちこんだ出始めの青みかんを、片手で宙に飛ばしては受け止めて、壁に寄りかかったまま。 
その横で同じように足を投げ出して、きれいにひとつづつ薄皮をむいて、私は青みかんを食べる。 
まだ甘くない酸っぱさしか口に残らないみかんの、冷ややかな味が好きだと思った。 

「ね。 膝だけ貸してくれる?」 

笑わずに言う彼の瞳が青く沈んだ。 

青いみかんの色に似ている。

私の返事を待たずに、彼は私の投げ出した膝に顔を埋めた。 
薄い春物のスカートの上から彼の熱い息だけが軽く呼吸している。 


私達はいままで互いの何かを、何一つ互いに要求したことはない。
ふたりの時間などいつ始まっても、いつ終わっても、そのことに意味はなかった。
ひとつのものを二人が必要とする事柄など見つけようともしなかった。

彼が一人で繰り広げる、数々の女達との数々の瞬間なLOVE・GEME。 
そのたびに青ざめた顔で、疲れ果てて、彼はこの部屋にたどり着く。 

無関心な私の、無関心な横向いたこころに、座りごごちのいいソファを見つけたときのような嬉しそうな顔で、彼はいつもここで息を吹き返した。 
そのことについて私は一切の関与をしていない。

ある日のある時間を共有はしていても、壊れた時計の針のように、秒針と分針は無秩序な方向に勝手に動いていたから、互いの外側を動いている時間が、重なリ合うことなど一度もなかった。

お互いはどこまでも不必要な存在だった。

けれどまた、ある意味では必要不可欠な存在であったかもしれないが、そのことを確認し合うことなど互いにしたこともなかった。


彼の手がスカートの裾から、這うように滑りこんできたのを止めなかったのは、止めるだけの理由も、止めるだけの気力も、その時の私にはなかったから。 

行為そのものに意味がなかった。

意味のない彼の手のさらさらした感触だけが、私の体をすべってゆく。 男と女の行為とはほど遠いほどゆっくりと緩慢な動きで。 

動物の匂いがしない… と私は思う。 

男という動物のあの狂おしいほどに貪欲で、征服欲に満ちた獣の匂いが彼にはない。 

まるで透明な植物の蔓が、私の体に絡み付いているような。 透明な青い蔓が、するすると私の体の隅々をくねって這ってゆくのを、私はとても冷ややかに見つめていた。 

彼の唇が私の唇を塞ぎ、彼の少し暖かい舌がするりと入り込んだとき、青いみかんの冷たい酸っぱさが二人の口の中で飽和した。

ひょっとすると彼の精液そのものも、青い樹液なのではないかと思えるほどに、今の彼の存在は植物の感触に似ている。

やがて彼は私の中で静かにためいきをついた。それは私の中でゆっくりとひろがり拡散してゆく。薄くてかさかさした透明な青いためいきだった。

まるで青いセロファンのようだ。

握り締めれば本当にかさかさと音がする気がした。それは私の中で薄い重さでひろがりながら、ところどころで小さな亀裂を作り、そのたびに私の中のどこかにかすかな痛みを生んだ。

彼はこれまで、どれだけの女の体の中に、このためいきを落としてきたのだろうか。 

そのたびに失望し嫌悪し疲労して。 

こすっても取れない生まれつきの痣のような刻印を、消えない消しゴムで日がな一日こすり続けるように。今までずっと。そしてこれからも。


私の上の彼の胸の鼓動は、正確な激しさで打ち続けているのに。少し汗ばんだ体は、熱い体温を放出しているのに。

そこには重い熱さがない。  
どこまでも乾いた冷たい ねつ しかない。

私は唯それを静かに見つめている。 
彼の下で彼の放ったどうしようもないためいきを、唯黙って。

「薄いね。」  彼がつぶやいた。 

ん? 顔だけで答える私に彼が言う。

「あなたの む ・ ね。 あなたの こ・こ・ろ みたいに。」  

そして二人 ふふっ と顔だけで笑いあった。


部屋中に沈丁花の濃密な香りが充満している。   すべての酸素がその香りに染まっている。

床にころがった青みかんが、小さな丸い青い酸素をひとつ吐き出した。

                      完

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