不思議なきのこの話 #2

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今日は朝、近くの真言宗のお寺で一時間ほど座禅をしてきました。
#中途半端部 の部員の身ですから、たいしてまじめに座禅をしているわけではないのですが、座禅的なことについても、ある程度時間的に経験を積んできましたので、一時間も座ると、外界を忘れて気持よく内界に遊ぶことができるほどにはそうした状態に馴染んできました。

そうやって座禅をしているときの意識状態というのは、これがやはり普段の意識状態とはいくぶん違うわけでありまして、その意識の変容した状態というものが、ぼくがこの人生で、だらだらと中途半端に追求しているものだったりします。

今昔物語集に「尼共、山に入り茸を食ひて舞ふ語」という話があり、
(たとえば  http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0005odorazu.htm )
これがいわゆるワライタケを食べたときにどうなるかということの、日本における原型の物語と言えるわけですが、今回はそうした「薬」を摂取した時の人間の意識の変容というものがどんなものであるかを、アルコールの酩酊状態と比較しつつ、自分の体験を交え記したいと思います。

ということで、前回のふぃろさんのコメントも踏まえ、今回はアルコールとの比較で話を進めていきます。

初めてぼくがキノコを摂ったときには、アルコールの感覚とはまったく違ったものを感じました。

どこか夢を見るのに近いような、この現実とは違う時空に連れ去られるような、そんなふうな体験で、アルコールを摂ったときの、抑制が解かれる感じとはずいぶん違うものだと思ったのです。

このことを喩え話として説明すると、ふだんぼくらは「暴走」しないように「ブレーキ」を踏みっぱなしで生きているんだけれども、アルコールを摂ると、その「ブレーキ」が緩められる。その結果ふだんとは違う意識状態になる。それに対してキノコを摂ったときは、「ブレーキ」を踏んでいる足に力が入らなくなると同時に、今まで経験したことのないところまで「アクセル」が踏み込まれてしまう、だから、夢の中でしか体験したことのないような奇妙な意識状態が、眠っていないにもかかわらず経験されてしまう、そんなことのような気がします。

ですから、その変容した意識状態が「笑い」につながるかどうかは、そのとき、その人の持っている心のありようによるわけで、「笑い上戸」の人が、キノコを摂ったときにも笑うのかというと、それはそうとも言えませんし、箸が転げても笑う、という状態は案外、キノコで笑い転げるのと似ているかもしれませんし、徹夜明けの軽躁状態で、何をしゃべってもおもしろい、などというのは、かなり似通った意識変容の状態だと思っています。

今回もあまり具体的な話にならず、どちらかというと抽象的な話になってしまいました。
次回はもう少し具体的な話を書いてみようと思います。
では、みなさん、また。

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