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妄想と磁場

寄せる年波には勝てず、右肩に続いてとうとう左肩までいわゆる五十肩になってしまった。まだいつも痛いというわけではないのだが、左腕が体軸に対して一定の角度になるように動かすと肩関節に強い痛みを感じる。積極的な治療をせずに放置すると増悪してゆくことになるというのは右肩の時に経験済みだったので、右肩の関節鏡手術を行った両国の病院を受診しなるべく早く手術してほしい旨を告げる。前回執刀してくださった副院長は引退して非常勤になっていた。違う先生が出てきて外部の施設でMRIを取ってきてほしいという。なるほど、今やMRIというのは院内検査ではなく外注する時代なのだね。前回は院内で撮ったような気もしたのだが、正確には覚えていない。

経堂駅の北口にある「メディカルスキャニング」という、イメージング専門の施設でMRIを撮ることになった。水曜日の午後に出かけるが、駅から歩いて1分という立地。確かに便利。午後三時半に予約を取ったが、結局実際に検査をするまで大分待たされる。施設にはMRIは一基しかなく、その一基を休まず回転させるために患者の時間がバッファになるというのがゲームのルールだ。高額な機械装置をなるべく効率よく使いたいという意図はわかるが、靴のサイズに足を合わせるような気持ちになる。

受付を済ませると時計やスマートフォン、指輪などの金属の類を外して待合室で待つように指示される。あとから計算してみると待合室では30分近く待ったことがわかる。その間、スマートフォンはおろか本の類も全くなく無為な時間を過ごす。情報が無い30分。昔はこういうことは良くあったと思うが、スマートフォンが普及している昨今では、眠っているとき以外に何らの情報にも暴露されない時間の方が珍しくなっている。前の患者さんの検査が終わる気配がないので、まさしく途方に暮れる。待合室の貼り紙を全て、隅から隅まで読む。MRI実施の前の注意点。ペースメーカーは入っていませんか。入れ墨、カラーコンタクト、それにユニクロのヒートテックもダメらしい。その旨が数か国語に翻訳されているので、英文翻訳の妥当性をチェック。間違いなどあるはずもない。MRI設備のメーカーはシーメンスらしい。一人でうろうろして、動物園の熊みたいになっている。

子供の頃、こういう時はどうしていたんだったっけ。そうだ、妄想に逃げ込んでいたんだった。大人になっても妄想遊び、できるだろうか。どんな妄想がいいかな。子供の頃の定番は、サッカー選手として日本代表に選ばれている自分。 リアルでは自分では絶対にできないようなテクニックを使って相手を次々と抜いていく。まるでキャプテン翼だ。モテないわけがない。長澤まさみみたいなマネージャーが、休憩時間にタオルと飲み物を渡してくれる。なぜ日本代表なのに高校生的な女子マネージャーがいるのか、などという疑問を持ってはいけない。これは妄想なのだ。頭の中は治外法権。

五十近くのおじさんがこんな変質的妄想に耽っていると、ようやくMRI室の重そうな金属扉が開いて、前の患者さんが出てきた。ラインが取られており、シリンジを持っているところを見ると造影剤が入っていたのだろうか。どんな病気なのだろうか、いや、他の人のことにあまり立ち入ってはいけない。とにかくお大事に。頭の中だけで励ましてみる。

「20分ほどで終わりますから、なるべく肩は動かさないでくださいね。うるさいですからヘッドフォンをつけますね」謎の細い筒の中に、仰向けのまま送り込まれる。僕は目を強くつむって再び妄想の中に戻ってゆく。機械からは大きな単周波の電子音がリズミカルに発せられている。余りにうるさいのでヘッドフォンの中に小さくクラシック音楽が流れていることに気がつくまで少し時間がかかった。体を構成している原子の原子核が強力な磁場に共鳴している。脳の神経細胞内の水素原子にも影響が及んでいるはずなのに、その磁場は僕の妄想に影響を与えないのはなぜなのだろうか。左45度のペナルティーエリアのすぐ外から放ったインフロントシュートに掛かっているスピンは、超電導磁石が作り出す強力な静磁場によって脳内のプロトンに掛けられているスピンの影響をほとんど受けることなく、反対側のサイドネットに吸い込まれてゆく。歓声に包まれたところで、臨床検査技師に声をかけられる。20分は恐ろしく短く感じられる。子供の頃は20分無為におとなしく待っているなんてことはできなかったが、大人になるにつれて時間は益々短く感じられるようになる。更衣室に戻ると何よりもまずスマートフォンを探す。現実に引き戻される。メールボックスに引き戻される。さよなら妄想。次はいつになるかしら。

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