見出し画像

書評「熱源」 川越宗一

新しい小説を久しく読んでいなかった。新しい長編小説を読むにあたっての一番の大きな課題はその選択である。特に、ある決まった時期に、「小説を読む」ということだけを決めていながらどれを読むかを直前まで決めていなかったような場合は、その選択は非常に大きな問題となる。そこで、今回は昨今受賞作が決定したばかりの直木賞と芥川賞との受賞作品を選んでみることにした。これがうまくいけば、今後、「楽しむためだけに読む本」を選ぶ必要があるときに助けになるかもしれないし、もっとたくさんの小説を読むきっかけになるかもしれない。

ということで、今年の直木賞受賞作たる「熱源」であるが、まずストレートな感想から言えば、割と面白かったと思う。5段階評価で言うと4+くらいあげられると思う。一気に読み切ることができたし、読んでいて次の展開を知りたいと思わせるだけのドライブ感はあった。一方で、まあこれを欠点と言っていいのかどうかわからないが、文章全体の雰囲気が結構暗くて、そういうのは苦痛だった。こういう文学作品は暗い方が評価されるものなのかもしれないが、やっぱり「下町ロケット」的な、明るくて未来があるのが、この歳になると楽かなあと言うのはこちらの都合なのだが。いや、長手さん、これぐらいは暗いうちに入りませんよ。もっと救いのない小説とか、いくらでもありますから。そんな声も聞こえてきそうだが、そういうのは負担なので御免こうむる。それ以外の構成や修辞などの技術的な側面は、大きな問題はなかったと思う。歴史上の重要人物がちらほらと出てきて読者の共感を呼ぶだとか、複線の拾い方だとか、テクニックっていうのはどんどん向上して言っているんだなあと思った。実は読み始めてすぐに、本来は「けれども」と書くべきところに「けど」と書いてあり、さらには「~しうる」とすべきところを「~しえる」と表現されていた箇所があって、これは失敗したかしらんと少し絶望的な気分になったが、それ以降は気になるような箇所はなかったと思う。まあ、最後の方になると筋が少し端折りぎみになってきたきらいはあるが、ハードコピーではなくKindleを使って読んでいるところの良いところの一つに、残りがどのくらいあるのかということをあまり意識せずに読めるということがあると思う。それが読後感にもたらしている効果について、何らかの研究があるのであれば見てみたいような気もする。
さて、私が読んで受け取ったこの作品の最大のテーマはアイデンティティである。自分が所属する共同体、その共同体に対する所属の意識によって、人は生かされているし、そのアイデンティティの優先順位が自分の生命のそれを上回ることさえある。それが世の悲喜劇を引き起こしたりもするし、一方では人に生きる意味を与えている。そういうメッセージだったと思う。この物語では「樺太のアイヌ」というアイデンティティを守り続けたい主人公たち、「ポーランド」という引き裂かれた国家、いずれも葬り去られようとしているアイデンティティに搦め捕られて逃げられない(ちなみに文中には「絡め取る」と表現されていたが「搦め捕る」が正しい日本語である。最近はこういう新書も校正が入らないものなのか?)人たちの人間模様こそがこの小説の表現したかったことであろう。
この著作のテーマは非常にタイムリーというか、今私が考えていることと対照をなしている。それは所属という概念であり、私の考えは、人はそこから逃れるべきだというものである。サハリンに流されたポーランド人活動家が、幼い長男と二人目を妊娠している妻とを残してでもポーランドの独立運動に加わるべくサハリンの地を離れるとき、そして二度サハリンと戻らないままパリで暗殺されるとき、我々はアイデンティティの悲劇を見る。小説はそれをどうしようもない運命としてとらえている。だが、果たしてそうなのだろうか?

著者の主張はこうだ。

アイデンティティは忘れたほうが幸せなこともある。しかし、それは忘れられないものだ。そして、他の利益とアイデンティティが衝突するとき、悲劇がおこる。しかし、我々はそれを生き抜いていかなければならないし、アイデンティティこそが人の生きる意味である場合もある。

私の主張はこうである。

アイデンティティは忘れたほうが幸せなこともある。もちろん、人にある集団への所属の意識を与え、それによって人は生きる目的を見出すこともあるだろう。しかし、アイデンティティが人生の他の利益と衝突するときには、悲劇が起こってしまう。21世紀のわれわれが目指すべきはアイデンティティからの離脱である。自分たちが幸せになるために、日本に住んでいるということは重要な手段になりうる。しかし、日本人であるということは必須ではない。

結論を急げば、私はこの小説のあらゆる登場人物が抱えている自分の所属、アイデンティティに関する、文字通り「拘り」は21世紀の今日においては全く必要のないものに変わっていっていると確信しているのである。捕らわれてはいけない。我々に何かできることがあるのだとすれば、どのような共同体であれ、「そこでなければ生きていけない」というものを作らないように生きていくということこそが大事なのだ、と思っている。いざとなれば、いつでも、自由に、どこにでも旅立って行ける。日本が戦争を始めるのであれば、私は躊躇なくアメリカに逃げたい。日本人は1億人以上いるのに、自分のすべての知り合いだけでも10,000人程度、5年ビジネスをして好感した名刺の数がようやく1,000枚に到達したという程度なのである。つまり、私は日本人について、語れるほどは知らない。そんな日本に対して愛国心(この言葉の意味ももう少し詰める必要はあると思うが)を感じるなんて、とてもできない話なのである。
だから私はこの小説の中でブロニシが身重の妻と子供を捨てて欧州に帰ると決めたとき、心の底からがっかりした。もちろん、それを予測してもいたし、言ってしまえばあくまでも作り話だ。しかし、後眼史的な予断を差し挟む必要すらないほどに、革命なんて言うのは無意味なものである。小説の中でも、長谷川(二葉亭四迷)に著者はそのように言わせているではないか。
人は自分の幸せを追求すべきであるし、地球上のどこを探しても、それぞれの人々の幸せ以上の大義など存在するはずもない。そうであれば、何かが起こった時には、最初に逃げられるようにしておくべきなのである。地球温暖化は、地球にとっても生態系に取っても取るに足らない反応であり、人類だけの問題である。であれば、私がすべきことは、海面が上昇した時でも水に浸からないところに家を建てることであり、万一食料がひっ迫した時でも自分は最初の穀物の配給にあずかれるように蓄財をすることである。そういう思いを、この小説を読むことによってますます強化している。もちろん、著者の意図とは正反対の効果なのだろうとも思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?