映画評:七つの会議

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何度も言っていることだが、私は映画をあまり見るほうではない、というかほとんど見ない。私は高校生のときに8mmカメラを回して映画を撮る部活に所属していて、実際には何本か20分程度の映画を撮っているし、ちなみに言えば演劇部に所属して90分の脚本を一本書いて県内のコンテストで演じたこともある。「映画の教科書」だって読んだし、スタッフの舞台設定の講習会にも行き、ダンスも学んだ。真正の映画小僧、演劇小僧だったのである。その後表現者としての道を歩むことを考えても良かったはずなのに、しかしなぜか高校を卒業してからは映画にも演劇にもすっかり興味を失ってしまった。理由はよく覚えていないが、‌チームをオーガナイズするということに少し辟易していたのかもしれないし(そうはいっても、今の会社の前身であるe-Projectを大学時代に本格的に立ち上げたりしていたが)、何といってもそのころ身近にいた「俺は映画を撮りたいと思っている」みたいな連中に少し嫌気がさしていたのかもしれない。とにかく、それ以来、映画に興味をもてなくなって今日に至っている。

しかし、最近下北沢に引っ越してきたので、もう少しそういうサブカルチャー的な、表現者的なものに興味をもってもいい環境にシフトしてきたと言えるわけで、何かの折に触れて映画を見るところから始めてもいいのかもしれないと思って、前回の出張あたりから飛行機では映画を一本位見てみようと思うようになった。私は映画を見るときには、基本的には邦画を見たいと思っている。なぜか。自慢じゃないが、英語はそこそこ話せて聞ける方だと思うのだが、それでも洋画の、特にアメリカ映画の英語は理解できないからである。映画の英語は最もヒップな言葉の使い方がされており、あるいは外国人には理解できないような文化的な背景に基づいていたりして、私のように学んだ英語では理解できない部分がありすぎて、つまりロスが多すぎると思うのである。そうであればニュアンスが分かっていて、言語の漏れが殆どないと言い切れる日本語の映画を見るに限る。だから私は「洋画が好きだ」という映画ファンは基本的には信用しないようにしている。なぜなら、彼らはその映画、その映画監督の伝えたことを骨の髄まで理解したいという衝動ではなく、その映画を見た、という、いわばフラグを取りに行っている、さらにその映画を見たということを自分の周りの人たちとの話題に使いたいと思っているという、邪な動機に基づいて映画を見ていると断言できるからである。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。

さて、いつも通り前置きが長くなったが、この映画、池井戸潤原作の小説ということで、確か下町ロケットは小説版は呼んでいたはず。池井戸の筆には特有のドライブ感があって、きっとこの作品も活字で読むとそういう感じなんだろうな、と思わせるものがあった。しかし、映画は申し訳ないが少し物足りないかな。ドライブ感というのは直線的な増加でもたらされるものでなく、指数関数的な増加を必要とするのないかと思う。そのために、最初はいろいろと伏線を張り巡らせて、終わりが近づけば近づくほどどんどんと伏線を回収してゆくスピードが上がってきて、最期にビッグバンが起こるという感じだと思うのだが、なんだか物語の後半で「実はそうだったんです」という暴露イベントが起こる頻度が一定になってしまっていたように感じて、「もっと、もっと来いよ」と思わずにはいられなかった。

登場人物も多すぎるし、視点も数も多く、複雑な割には各人のロールに特徴があったとは言い切れず、皆が皆、「なんか不正を隠してた人」みたいな感じで単調だったと思う。誰が主役かもちょっとよくわからないし。及川光博視点をもっとメインに据えたほうが良かったんじゃないか。あと、北大路欣也と鹿賀丈史との役外のキャラにちょっと乗っかりすぎという気もした。したがって、どうにもバランスの悪い作品だったんじゃないかと思ってしまう。

まあ、この作品、ドラマ化されていたと聞いているので、そこからくる制限もあったのだと思うのだが、今回はさすがにそんなにいい点数はあげられないかな。映画は映画として、スタンドアローンの魅力を持つ作品になるべきだと思うので。しかし、また僕と違う感想を持つ人もいると思うので、そのあたりの話も聞いてみたい気もします。

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