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人間関係の距離と非ゼロサム性との関係に関するメモ

・AとBとの人間関係には距離が概念出来る。AとBとが家族であるとき、AとBとの距離は近いと言えるし、全くの他人であるときには遠いと言える。距離でカテゴライズできる関係には、近い方から家族<友人<隣人<人類全体の4種類を概念出来る

・家族:文字通り、一緒に住んでいたりする家族で、利益共同体としての性質が高度であり、法的にもその関係性が守られている

・友人:家族ではないが緩やかな利益共同体を形成している人間関係で、一般的な友人や会社の同僚などを含む

・隣人:利益共同体を形成していない他人同士の人間関係であるが、視認できる範囲内におり、緩やかであるが資源を共有している。電車で隣に座っている人どうし、何かの待ち行列に並んでいる人どうし、カフェで隣に座っている人どうしなど

・人類全体:視認できないところにいる他人

・距離とは別に、人間関係にはその関係から得られる利益の程度を概念することができる。具体的には、AとBとの関係の非ゼロサム性を概念することができる。非ゼロサム性は例えば-1から1の間の連続的な値を取ると概念出来る。非ゼロサム性が-1の時は完全にゼロサムであるため、Aの利益は100%Bの不利益となる。例えば、1つのケーキを2人で分けるときなどの状況。逆に非ゼロサム性が1の場合は完全に非ゼロサム的である。例えば、家計を一緒にしている夫婦の場合、夫の昇給は夫婦両方の収入が上がることを示すので非ゼロサム的である。0の時にはAが利益を受けることとBの利益とは関係がないため、利益は独立であると言える。

・家族は4つの人間関係の類型の中でもっとも非ゼロサム性が高い。これは自明のことであろう。

・友人の人間関係では非ゼロサム性は家族よりも低いが0よりは大きい。したがってこの関係は非ゼロサム的であるといえるし、この関係がゼロサム的になるのであればその人間関係を維持する理由がないので友人としては成立しないであろう。

・人類全体の人間関係も非ゼロサム的である。人類全体は基本的人権などの秩序を共有しており、これによって共同して利益を受けている。AとBとが全く接触がない赤の他人であっても、AとBとは相互に利益を与えあっていると言える。

・隣人の人間関係はゼロサム的である。待ち行列。満員電車。交通渋滞。こういう局面では、Aの利益はBの不利益である。お互いが視認できる範囲内にいる人間どうしは資源を奪い合う関係にある。これは家族でも友人でもそうだが、しかし家族や友人においてはそのゼロサム性を上回る非ゼロサム性があり、協力によって得られる利益が十分に大きいために全体として非ゼロサムな関係になる。隣人にはこの非ゼロサムの要素がないために、全体としてもゼロサム的になる。

・整理すると距離と非ゼロサム性とは以下のような関係になっている
距離:家族<友人<隣人<人類全体
非ゼロサム性:家族>友人>人類全体>0>隣人
ここで距離と非ゼロサム性とが完全なトレードオフの関係になっていないことに注意をする必要がある。

・世の中の多くの問題は、このカテゴリー間の距離と非ゼロサム性との不連続性の問題に帰することができると言える。例えば、環境問題は人類全体としての非ゼロサム性を問題としているはずだが、視認できる他人である隣人のために自分の利益をあきらめることができないという状況が環境問題の解決を難しくしていると言えるだろう。

・我々の持つ、隣人の利益を許容できないという性格が多くの社会問題の解決を困難なものにしていると言える。特に相手を隣人としてみるか、友人としてみるかによって、非ゼロサム性が逆転するので、この不連続面の共有は極めて重要である。例えば、アメリカの社会的分断が進んでいるという場合、民主党と共和党とがお互いを友人としてみなせるか、隣人としてみなしてしまうかによって、超党派的な活動が可能になるかどうかが決まってくる。しかし、自分たちの党派の中の友人性を高めるためには、その外部の非友人性すなわち隣人性も対比的に高める必要があるのであれば、この問題の解決は容易ではない。

・今後、この切り口によって説明できる事例を蓄積してゆくことによってよりロジックを鍛えてゆくことができるだろう。

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