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起業してからの10年を振り返って。




こんにちは。としぞーです。


なんやかんやのらりくらりと生きてきた結果、
今年で起業して10年の節目を迎えました。
(法人は8期目)


当たり前ですが、その間様々なことがありました。

その様々なことは時に自身のアイデンティティすら揺さぶり
価値観に大きな影響を与えることもあります。

起業した当初の自分と今の自分を比べると
まるで別人のようです。


実は最近、個人的に思い悩んでいたことがあり、
それはそのまま11年目以降の自分についての問題だと考えています。


ということで、自分の考えの整理も含めて
10年間を簡単に振り返ってみたいと考えました。


細かい出来事などはブログや音声やTwitterで公開しています。
よろしければそちらもご覧ください。


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この記事では特に『人生や仕事に対する価値観の変遷』に焦点を当てて
10年間を紡いでいきます。


僕は『個』としてこの10年を生きてきました。


ですから特に『個』で生きていこうとお考えの方には
この記事が何かの参考になるのかもしれません。


大変長くなることが予想されますが、
ご興味のある方はぜひお付き合いください。



転機


僕が起業を意識した最初の瞬間。

それはあの大災害だったのかもしれない。


2011年3月11日。

その日僕は、渋谷のオフィスで働いていた。


当時25歳。
専門卒で板前になった後、3年で営業職に転職し
3年後の2011年には係長のポストでそれなりに仕事を楽しんでいた。

月給が100万円を越えることもあったし、
社内でのポジションは自身の承認欲求を十分に満たせるものだった。

当時の自分はその人生に納得していたと思う。
少なくとも表面上は。


今でも『そのとき』のことは明確に思い出すことができる。
揺れがはじまった瞬間に

「これは普通の地震ではない」

と確信した。


棚から崩れ落ちるファイルたち。
ポルターガイスト現象のように開いたり閉まったりする引き出し。
今にも割れそうに悲鳴を上げる窓ガラス。
ビル全体のきしむ音。

社内は混乱に陥り、オフィスがあった8階から非常階段で避難することになった。
僕はその先導役に選ばれた。
たまたまその日に本部会議があり、支部の長である部長が不在だったため
相対的に役職が高い自分が自然とそのポジションに落ち着いたというわけだ。


オフィスを出て非常階段に向かう際
2回目の大きな揺れに見舞われた。

後から分かったことなのだが、僕が勤めていたオフィスがあるビルは
渋谷の中でも1位2位を争う古さを誇る建造物で
耐震構造に多少の問題があったらしい。

その古いビルが割れた。

非常階段を目の前にしたちょうどそのとき
ビルの床が横に裂け、床と床が上下運動をしている光景が目に飛び込んだ。
(厳密には古いビルとビルとのつなぎ目が『裂けた』状態である)

横には念仏を唱えて震えている社員がいたし
泣き出す社員も少なくなかった。

自分もこのままビルが崩壊して生き埋めになることを
心のどこかで覚悟していたと思う。
(今思うと大袈裟だが、当時は本当にそう思った)


揺れが収まり、非常階段を使って1階まで転がり落ちるように逃げ
なんとか道玄坂通りまでたどり着いた。

おそらく避難には代々木公園が適しているだろうということになり
みんなで代々木公園を目指して歩き出した。
その間にも大きな揺れがいくつもあって、
そのたびに振り返ると、自分たちがいたビルがこんにゃくのように
揺れている光景を目にするのだった。


電話は通じなかったので、
公衆電話から総務に連絡をし、その後の指示を仰ぐ。

状況がはっきりするまでは業務は停止。
各員の連絡網を構築してそれぞれ任意で避難をするように。
もし事務所に鍵をかけてきていないなら戻って鍵をかけるように。

最後の指示には面食らったが、
勇気を出して事務所に戻り、荒れ果てた光景に愕然としながら
「もう戻ってくることはないかも」などと考えつつ事務所を後にした。


自宅に帰る方法がなく、同じ状況の社員も多かったことから
代々木に住む社員宅にみんなで泊まらせてもらうことになった。

社員宅に向かう途中、居酒屋が営業していたので
そこで夜ご飯を食べた。

居酒屋にはテレビがあったので、
そこで初めて地震の全容を知ることになる。


テレビに映し出されたのは東北の悲惨な状況。
あまりにも超自然的なその映像にまったく実感は湧かなかったが
僕の隣にいた後輩はボロボロと涙を流していた。

彼の実家は大船渡。
津波に飲まれた町のひとつだった。


彼の実家は漁師を営んでおり、海沿いに自宅を構えていたらしい。
安否確認をしようにも電話は繋がらない。
ニュースの映像から自宅が流されたのは確定している。

このときの彼の心境は、僕の人生経験では
到底推し量ることが不可能なものだっただろう。


その後社員宅に到着し、全員でニュースを凝視しながら
できる限りのことをした。

SNSなどによる無駄な安否確認は、
むしろ混乱を生み出すだけだと批判されていたが
当事者の感情を考えるとそれは抗いようがない行為だと思う。

目の前でことが進んでいるのに何もできない。
こんなに辛いことはない。


翌日と翌々日は会社が休みになった。
僕はその間もほとんど寝れず、
SNSで彼の家族の安否確認をし続けた。


安否確認が取れたのは震災から3日後。
幸い彼の家族は全員無事だった。

しかし、彼の友人の多くが亡くなってしまっていた。


出社日、彼は元気に会社にやってきた。
笑顔もあった。

しかし23歳の彼は、数日の間に白髪だらけになり
まるで人相が変わってしまった。


日常が一瞬で非日常になる経験。
昨日まで生きていた人が今日居ないという事実。
それが自分にも起こりえるという現実。

それまで『死』というものをリアルに感じたことがなかった自分にとって
震災の衝撃は大きすぎるものだった。

自分もやがて、死ぬ。
もしかしたらそれは明日かも知れないし
大切な人を失うこともあるかも知れない。
そのような変化の世界において、自分はなんと鈍感に生きていたのか。

この経験が自分の人生を見つめ直すきっかけになったのは間違いない。
というよりも、この瞬間まで自分の人生について考えたことすらなかった。
実は人生というのは、それについて深く考えなくても紡いでいけるものなのだ。


*ちなみに『彼』はその後地元に戻り、
 漁師としてその人生を紡いでいる。




過去


25歳までの僕の人生を一言で表すならば『無』である。

そこには何もなかった。


坂道にボールを置いたらそのまま転げ落ちていくように
単純な物理法則に流されてただただ生きるだけの人生。
それが僕の人生だった。


中学生までの記憶はほとんどない。
多分何も考えていなかったからだ。


中学、高校と特にこれといった思い出もない。
もちろん様々なイベントもあったのだが、
それは単純な物理現象に流されて起きたものであり
そこに色はない。


高校最後の年、多くの場合は人生について深く考えるのであろう。
しかし僕はあまり考えなかった。
とにかく早く働きたいぐらいの思考しかなかったため
大学に行くという選択肢は(お金も)なかった。


手っ取り早く働くためには手に職だろうということで
調理師をその職業に設定。

1年間で調理師免許を取得可能な専門学校に行くことになった。
(特に調理師時代の記憶は皆無に等しい。
未だに校内の景色すら何も思い出せない)

当然流れのまま調理師として社会人生活をスタートさせる。

3年働いて、給料があまりにも少ないことに不満を覚え、
歩合給の仕事をするために営業職に転職。
これも人生について深く考えた結果ではない。
『給料少ない』→『給料多い職に転職』という単純運動だ。

営業職においても社内で是とされている社員像に自分を変化させ
それなりに模範的な社員として働いていた。

転職などは考えておらず、とはいえ今の会社での将来像も想像すらしないで
ただ毎日を消費していた。消費していたという表現が適切なぐらい
ただただ毎日を過ごしていた。


25歳までの僕は、このようにして何も考えずに生きてきたのである。
単純な物理運動に衝撃が加わるまでは。



反転


震災後、改めて自分の人生について考えるようになった。
自分とは何なのか?みたいな哲学的な問いだって浮かんできた。

すると不思議なことが起きる。

今までなんの不満も持たずに生きてこれた人生が
急に窮屈なものに感じるのだ。

他人が生きてきた人生を「はいどうぞ」と急に渡された感覚。
いままでこの人生をどうやって生きてきたのだろうと不思議になる感覚。

見えていた景色の色が急に変わった。


そうなると後は雪崩のように全てが変化する。


それまで天職だと思っていた営業職が好きになれなくなったし、
得意だと思っていた人間関係構築は無理をしていただけだと気付いたし
自分の人生に全然満足していないことを発見してしまった。


今まで平気で生きてきた日常が、急に苦痛にまみれることになった。


特に僕を苦しめたのは人間関係によるストレスだった。

恥ずかしいことに、それまでの自分は自分のことを
『人間関係が得意な人種』だと認識していた。
確かに、得手不得手でカテゴライズしたら表面上は得意な方に分類されるだろう。

コミュニケーションは苦手ではないし
(だから営業成績は比較的良かった)
相手がどんな精神状態を原因にして行動するのかも
並よりは把握できる感性を持っていた。

それに、自分を環境に合わせて変化させ
TPOを弁えたキャラクターを演じるのがすこぶる上手だった。

しかし【能力的に出来ること】と【精神的に出来ること】は違う。

25歳にもなって初めて、自分の周りにある人間関係が
『無理して構築しているもの』だと気づいたのだ。

今振り返ると、どうしてそのストレスに耐えられていたのかはわからない。
何も考えないことがそのストレスに耐える唯一の方法だったのかも知れない。

しかし、考え出してしまったからには
もうそのストレスを放置することができなくなった。

日々の人間関係が全てストレスに感じるようになったし、
自分という偽りのキャラクターを演じていることが我慢ならなくなった。


また、これも25歳になって初めて気づいたことなのだが、
僕は『人に命令される』のがすこぶる嫌いらしい。

確かに過去を振り返るとそういうエピソードは腐るほどあった。
しかし、それを意識して考えたことすらなかった。

それに気づいてしまった途端。
まるで人生をがんじがらめに束縛されているような気分に苛まれた。

周りを見れば日々積み重なる人間関係のストレス。
自分の行動を制限する強要の数々。
そして考えなしにそれに甘んじていた自分に対する憤り。

たった一つの気づきが、世界の色を180度変えてしまったのだ。


『気付かなければ良かった?』

確かに、それに気付かないで最後まで生を全うすることができれば
それはそれで一つの成功だったのかもしれない。

しかし個人的には、人間いずれそのような気づきのタイミングがあるのだと思う。
早いか遅いかはあれど、みんないつか人生に疑問を持つ。
僕の場合はそれが25歳だっただけだ。


それまで何も考えずに生きてきた人生。
その人生を生きていくのに『我慢』が必要になった。

それからは毎日が辛かった。
苦行のようだった。


この人生は全然自分の人生じゃない!
出来ることなら自分の人生を生きたい!

そう叫びたかった。


そして、我慢の連続は病として自分を襲った。



入院


2011年の夏。

僕は恵比寿の総合病院に入院していた。


扁桃腺周囲膿瘍という、扁桃腺が腫れに腫れて
最終的には口を開けることすらできなくなる病気と

肺気胸という、肺に穴が開いて胸から肩にかけて
激痛が走る病気の二本立てでお送りしていたのだ。


特に後者の症状に関しては医師からも疑問に思われていた。
通常、肺気胸は痩せ型の男性に起こりやすい病気とされている。

当時の僕は間違っても痩せ型とはいえない体型をしていたので
医師曰く「原因があるとすればストレスでしょう」とのことだった。


ちなみに、肺気胸については入院中に完治。
扁桃腺周囲膿瘍についてはその後クセになってしまい、度々発症。
2016年に扁桃腺を切除する手術をすることで再発を免れている。


入院は約1週間に及んだ。
それまで忙しく暮らしていた自分にとっては
その1週間はまさに最初で最後の人生と向き合うチャンスだったのかもしれない。


この間、とにかく考えた。
本も読んだ。インプットとアウトプットを繰り返し
何か人生を切り開く道がないか必死で探した。


すでに今の会社で働き続けるのは不可能だと思っていた。
のらりくらりと続ければもしかしたらある程度の年齢まで
勤め上げることができるのかもしれない。

だが、その間も心の中の疑問やストレスは膨らみ続け
それがいつ爆発するかは分からない。


しかし『別の道』が何なのか、それが分からない。
当時の僕はあまりに無知で、世の中のことを何も知らなかった。
考えても考えても堂々巡り。

いっそのこと、実家に戻ってアルバイトをして
生計を立てようかと考えたほどである。

きっかけは単純なことだった。
情報収集の一環として購読していた堀江貴文氏のメールマガジンに
以下のようなことが書かれていた。

「せどりとアフィリエイトなら年収1000万は誰でも稼げる」

読んだ瞬間、電撃が走った。
比喩ではなく本当に電撃が走っていたと思う。
くすぶっていたニューロン同士が爆発的に繋がり始めた感覚。

とはいえ、せどりやアフィリエイトに興味を持ったわけではない。
当時はまだ、それが何かすら知らなかった。


それ以前の問題。
つまり『無職と勤めという選択肢以外にも起業という選択肢がある』
ことに電撃が走ったのである。

今思うとおかしな話だ。
普通に考えれば人生について思考する際に
当然のように起業・独立は選択肢に入るべきである。

しかし当時の自分にはその概念が一切備わっていなかった。
転職をするか、無職になるか、間を取ってアルバイトをするか。
転職するなら業種は何が良いか?無職になるなら何年生きられるか?
そんなことをぐるぐる考えていたのである。


そんな中、降りてきた天啓。


この瞬間から、僕の未来は『個』に設定された。
もうそれ以外考えられなくなった。

それまでひたすら考え続けた転職のことやアルバイトのことは
一瞬にして脳内から消え去った。
あるのは会社を辞めて独立した自分の人生だけだった。


記憶が正しければ『天啓』の次の日、
入院先から会社に電話をして辞意を表明した。

実際に会社を退職するのは2ヶ月後になるのだが
心はもうすでに、独立した人生に向かっていた。



独立


2011年秋。

晴れて会社を退職した。


前述の通り、自分の思考を占めていたのは
『独立した自分のイメージ』であり
決して取り組むビジネスプランではなかった。


つまり、独立したその瞬間。
ビジネスプランが皆無だったのである。


資金は50万に満たない。
(当然融資という選択肢は知らない)

ビジネスプランはない。

生活コストを切り詰めても月に20万はかかる。


詰んでいると表現しても誇張ではない状態である。


しかし、このときの自分は幸福のど真ん中にいた。
いまでも当時の『あの』感覚はリアルに思い出される。

初めて自分の手で、自分の足で、自分の人生を生きている!

25年間縛られていた枷が外れ、
きっと深層心理ではずっと渇望していた自由を手に入れ、
今やっと自分の人生を生き始めた僕にとって
『ビジネスプランがない』『資金がない』『破産寸前』
などの要素はどうでも良かった。

それを解決するためのあらゆる試練は全て乗り越えられる確信があった。
乗り越えられなくても良いと思った。それが自分の人生なら。


自分の人生を歩めるなら、どんな理不尽にも耐えられると思った。
明日死んでも良いと思った。


それは人生二度目の誕生日だったのかもしれない。


 
しかし、現実は甘くない。


覚悟や幸福感はお金にならない。


当たり前のように、貯金残高は目減りしていき、
日々の生活水準も急激に低くなっていった。


この間、パチプロのまねごとをしてみたり、
技術がないのにweb制作の仕事を受けてみたり
せどりをやったり、アフィリエイトに取り組んだりした。

結果的には全滅であった。


資金が枯渇したのでアルバイトを始めることにした。


朝は10時起きである。
10時から17時まではひたすらビジネスのための努力をする。
17時から24時までは和民でキッチンのアルバイト。
一度帰宅し、2時過ぎに家を出て新聞配達のアルバイト。
朝の6時前に帰宅して朝ご飯(夜ご飯?)を食べて寝る。
3時間ほど寝たら起床。


こんな生活を繰り返していた。


問題は10時から17時のビジネスのための努力である。
やることがあればまだ良い。
『これをやっていれば将来の役に立つ』ものが分かっていれば
それを一心不乱にこなすだろう。

しかし、知識がないとそれすら分からない。

つまり時間はあるのにやるべきことがみつからない状態。

今振り返ってもこの状態は大変辛かった。


だから、作業の大半は『何をやるべきか』を探すことに当てられた。
そうして見つかったビジネスにチャレンジするも失敗して挫折。
また何をやれば良いのか路頭に迷う。
生活費が足りないからアルバイトのシフトは賑やかになるばかり。

このような毎日が数ヶ月続いたのである。


同時に、強烈な偏頭痛が発症した。
昼夜逆転に近い生活をしていたのが原因だと考えているが、
ともかく日中に強烈な痛みに襲われることが多くなった。

ひどいときはソファから起き上がれずに、
(痛みを抑えるための薬すら取りに行けない)
一日を無駄にしてしまう日も頻繁にあった。


客観的に見ると、ほとんど地獄のような状態だ。
当然過去に戻りたいとは思わない。

しかし不思議と、それでも毎日が充実していたように思う。

少なくとも、それまでの人生よりは毎日が幸福だった。
『生きている』という感覚があった。


紆余曲折あり、最終的に『欧米輸入転売』に辿り着いた。

辿り着いたものの、最初は失敗の連続である。
何度も挫折しかけたのは言うまでもない。

暗い話が続いたので、
その挫折についてはここでは触れないこととする。



浮上


2012年春。

初めて自分が取り組んだビジネスで10万円の粗利を達成した。
もちろん、あくまでも粗利であるため資金が増えるわけではない。
また、当初毎月仕入れ額を増額していたから
常に破産寸前の状態が続いていた。

風が吹けば破産する。状態である。

状況は未だに危険。
どちらに転ぶか分からない。
いや9割地獄に転ぶだろう。


分が悪いシーソーゲームの中
なぜか根拠のない自信が芽生えていた。


それまでが悲惨だったからという要素もあるのだろうが
結果が数字として明確に現れたことで何かが変わった。

「これで生きていけるかも」

そう思った。


「これで生きていけるなら、他に何もいらない」

そうも思った。

時期を同じくして、自分の活動を外に発信したくなった。
当時は『モチベーション維持のため』とその動機を分析していたが
今思い返すとそれは明らかに『承認欲求』によるものだろう。

会社員時代にいみじくも満たされていた自己承認欲求は、
独立したことで空っぽになっていたはずである。

とはいえ、独立後しばらくは生理的な欲求を満たすことが最優先で
マズロー的なヒエラルキーにおける低次の欲求を満たすのに必死だった。

その『見込み』が見えたことにより、
急に上位の承認欲求が身体を突き動かした。
今では当時の行動をそう分析している。


自分を知って欲しい。認めて欲しい。
つまりはこういうことだ。


それで始めたのがブログである。
この活動は形を変えながら2021年現在まで続くこととなる。

2012年の夏終わり。

欧米輸入転売で月の粗利益100万円を達成した。
とはいえまだお金はない。

生活環境は一切変わらず、負債の額だけが増えている。

しかしこの頃にはビジネスモデルや資金の流れを
ある程度つかんでいたこともあって
後数ヶ月もすれば資金が増えることを理解していた。


アルバイトも辞め、日常がだんだんと落ち着いてきた。
逼迫していた課題が解決されたことによって、
次の欲求が目を覚まし、また人生について考える時間が増えた。

仮にこのまま事業がうまく行くとして。
今の生活が死ぬまで永遠に続くとして。

自分はそれだけで満足ができるのか?

答えはNOだった。


何かが足りない気がする。
そして当時の自分が求めたのは人間関係だった。


自分を独立に突き動かした原動力の一つは
それまでの人間関係対するストレスだった。
つまり人間関係を放棄することで開放感を得ていたとも言える。

そんな人間がまた人間関係を求めるのは矛盾しているかもしれない。
事実、その後人間関係において何度も嫌な思いをすることになる。

しかし、それでも人間は社会性の生き物である。
人間関係なしには生きていくことができない。

そしてその人間関係は自分でコントロールすることができる。
(と、今では確信している)


当時の自分が求めたのは『あのときの人間関係』ではなく
『まったく新しい人間関係』であった。


そのためには『外へのベクトルを持つ仕事』をしないといけない。
こうして情報発信というビジネスが僕の2つめのビジネスとして
はじまって行くのだった。



上昇


コンサルティング業は予想以上に需要があった。

有り難いことにクライアントにも恵まれて
多くのクライアントが一定の結果を達成した。


物販も安定期に入り、資金も増え始めた。
生活も普通にできるだけのお金があったし
生活水準に不満はなかった。


しかし、人間不思議なもので、あれだけ『他になにもいらない』
と思っていたのにも関わらず
一定以上の満足を続けて享受し続けるとその環境が当たり前になり
次の刺激を求めるようになるらしい。

『刺激』という表現は言い得て妙だと思う。
現実的には満たされているのだ。欲求不満なわけではない。
しかしそれ以上の『何か』をどうしても求めてしまう。
その『何か』は『刺激』以外のなにものでもないだろう。

本当に人間は弱い生き物である。

当時の僕は二つの考えに支配されていた。

一つは『自分はどこまでやれるんだろう』というもの。
もう一つは『きっともっと先により素晴らしい世界があるんだろう』というもの。

独立をし、ある程度の結果を独学で達成したことは
良い意味でも悪い意味でも自信になった。

それはまさに25年間くすぶっていた伏線を回収するような作業で
そこにはきっと気持ちよさすら感じていたのだと思う。
環境が満足のいくものになったとて、快楽にはあらがえない。
現状を越えて、より自分の力を試したくなった。


そして、僕は『事業の拡大』を自分の力を測る物差しとして選んだ。
より大きな収益をあげられれば、もっと自分に自信が持てるのではないか?
これまでの25年間を精算できるのではないか?

そして、収益が増えた先にある『より裕福な生活』への
まだ見ぬ魅力を感じていた。


このような思考は、僕をより仕事に没頭させる要素となった。
文字通りがむしゃらに仕事をした。


収益は右肩上がりで増えていき、
一ヶ月で平均的なサラリーマンの年収を稼ぐこともあった。

この頃の記憶は他の時期と比べて曖昧なものが多い。
きっとそこまで面白くなかったのだと思う。
また、ストレスも感じていたはずだ。
それらが顕在化するのはもう少し先になる。




相反


2013年夏。

晴れて法人成りをし、名目ともに『社長』になった。


法人化に際して、新しい事業を増やそうということで
学習塾経営に手を出し、事業開始前に怖じ気づいて撤退。
300万近い損失を出したなどというトラブルもあったが
引き続き事業は優秀な数字を出し続けていた。

社員も雇い、自分の時間も増えた。
縁あって、企業に対してコンサルをすることもあった。
『ビジネス的には』僕の人生のハイライトかもしれない。
事実、過去一番収益が大きかったのがこの時期である。

この時期から右肩下がりで収益は減っていくことになる。


収益が減った理由は事業の失敗ではなく、
意図的な事業の縮小によるものだ。


事業の縮小を決めた理由こそが、
僕の人生哲学の大きな部分を占めるものなので
これについては詳しく語らせて欲しい。


事業が最高潮を迎えていたある日、
取り組んでいた対企業のコンサルティングにおいて
ちょっとしたトラブルが発生した。

簡単にいえば、先方が契約条項を独断で破棄しようとしたのである。
本筋とは関係のない話なので簡潔な説明にとどめるが
歩合制で契約していたコンサルティングにおいて、
先方の予想以上に結果が出てしまい、歩合がわりかし大きな額になった。
これに不服を覚えた担当が、契約通りの報酬支払いができないと宣言したのだ。

結論からいうと、僕はこの『言いがかり』を飲んだ。
受け取るはずだった報酬(100万以上!)を破棄して
二度とその企業と関わらないことに決めた。

元来、無駄な争いは積極的に避けようとする性質を持っている僕は
先方からの提案を聞いた際に、極度に面倒くさくなった。
もう一言もこの件についてやりとりしたくない。

一言言葉を交わすたびに、自分が腐っていく気さえした。
だから、なかったことにした。


この一件が直接価値観の変化に影響したかは分からないが
ひとつのトリガーになったのは間違いない。
それまで無意識に積み上げてきた微妙なストレスと違和感が
一気に噴出したのである。

微妙なストレスと違和感を生み出していた要素は
二つに大別することができる。

一つは『自ら個を手放していたこと』

独立したのは『個』で生きたかったからだ。
言い換えれば『集団』で生きられなかったからだ。

独立してしばらくは本当の『個』だった。
『個』特有の孤独感はあるものの、毎日が楽しかった。
これが自分にとっての正解だと本当に思っていた。

しかしいつの間にか『個』から離れていった。
日を追うごとに事業が社会性を獲得していき
事業が社会性を増すごとに僕の苦しみも増していった。

あれだけ嫌で逃げ出した世界に、
今まさに自分から飛び込もうとしているのだ。

手っ取り早く事業を拡大させるには
事業形態に社会性を持たせる必要がある。

ターゲットが企業の方が収益が上がりやすい。
社内に人を入れ、組織を構築した方が生産性が上がる。
至極当然のことである。

しかし、僕にとっては『その全てが』自分の生き方に反するものだった。
『個』とは対極に位置するものだった。


前述したとおり事業というものは
社会性に引き寄せられる性質を持っている。
単純運動に任せていると、事業は社会性を帯びていく。

この運動から抜け出すためには、
意志を持って逆方向の力を加えなければならない。

つまり『個』でいる努力が必要なのだ。
僕はそれを怠った。怠ったばかりか、それに気づきもしなかった。
気付いたときには『個』からずいぶん離れた位置にいたのだ。

微妙なストレスと違和感を生み出していた要素の二つ目は
『収益が伸びることが幸福に繋がっていない実感』だった。

自分の力を試したい。その一心で事業拡大に没頭した。
確かに事業が拡大すると多少の自信には繋がった。
しかしそれだけだった。

収益が増えたことで、買えるものも増えたかもしれない。
しかし幸福度はほとんど変わらなかった。


当時僕は、1000万稼げば自信がめきめき向上していって
【捉えようのない不安】から脱却できると思っていたのかもしれない。

しかし、どれだけ稼ぎ、自信をつけても
【捉えようもない不安】は依然そこに存在していた。


事業を拡大したことで、僕自身が受け取ったリターンは
(精神的に)あまりに少ないものだったのだ。

一方で、事業拡大による(精神的な)ストレスは
比較にならないほど大きなものだった。

この気づきは強烈なものだった。

それまで『独立』と一括りにしていた概念が
『個』と『集団』という二つの概念に分裂したのだ。

そして、自分にとってのビジネスは『個』でないといけない。
それ以外の選択肢は全て最終的な後悔に繋がってしまう。
そう確信したのである。


それからは、純粋に個を追求していった。
そして、必要以上の収益も求めなくなった。

その結果、事業は右肩下がりに縮小。
今に至っては最盛期の1/10程度の収入に落ち着くこともあるほどである。
それでも、人生への満足度・納得度は年々増加している。


2014年付近からの人生はまさに
『個として生きるための戦い』だったのだといえよう。



不安


とはいえ、『個』で生き続けるのは簡単なことではない。

それを説明するためには
前述した【捉えようがない不安】について触れざるを得ない。

人間には生得的に【捉えようがない不安】が備わっていると考えている。
その不安は常に心のどこかに存在していて、僕たちをかき乱す。
その不安によって気持ちが落ち込むこともあるし、
逆にその不安が行動を起こす要因になることもある。

【捉えようがない不安】を解消する一番の方法は行動することである。
ビジネスにおける【捉えようがない不安】に対しては
ビジネスにおける前進行動を対応させると最も効率が良い。
つまり、事業の拡大である。

事業を拡大している間は【捉えようがない不安】が薄まる。

新幹線が動き出し、加速度を体感している状態が事業を拡大している状態だとすると
加速度を体感しているうちは不安がかき消される傾向にある。
しかしひとたび加速が終わり、慣性での運行がはじまると
【捉えようがない不安】は急にまた顔を出す。

この仕組みは事業の拡大、もっと広いスケールでは
資本主義の発達に大きく貢献したことであろう。
ある意味、資本主義という仕組み自体が人間に備わった
【捉えようがない不安】を上手く利用した巨大な装置なのかもしれない。


しかし『個』で生きる場合は事情が違う。
(そういう意味では『個』で生きるということは
 資本主義に反した行為なのかもしれない)


『個』において【捉えようがない不安】が発生した場合、
その(一時的)解決に事業の拡大が利用できない。
なぜならば前述のとおり、事業の拡大には社会性が伴うからである。

【捉えようがない不安】から安易に脱却しようとすると
社会性を帯びることとなり、『個』との距離が広がる。
確かにその瞬間【捉えようがない不安】を軽減できるかもしれないが
結果的に待っているのは『個』から乖離したことによる精神的ダメージだ。

つまり『個』で生きるということは、
【捉えようがない不安】に対して、
事業の拡大という手っ取り早い方法以外で対応する必要がある選択なのだ。

一応補足はしておこう。

以上の論理は、あくまでも僕がとびきり『個』を
求めていることに起因するものである。

そうでない人にとってはあまり共感を呼ばない内容であるはずだし
同様に『個』を目指す人の中でもその偏りは様々だから、
極端に偏った僕の意見は当然極論に近くなる。

あくまでも極端に『個』を目指した人間の論理だということを
理解していただきたい。

僕は、1mmたりとも無駄な社会性を獲得したくなかった。
極限まで組織的なものは作りたくなかったし、
我慢が必要な人間関係も一切作りたくなかった。

ここでもう一つ補足が必要だろう。
社会性を一切排除するとなると
情報発信ビジネスはその最たるものではないのか。

確かに多くの場合、情報発信では人間関係を必要とする。
特にコンサルティグとなればその本質は人間関係である。
しかし僕にとってこの人間関係は『許容できる』性質のものだった。


第一に、コンサルティングにおいては利害関係がはっきりしている。
こちらはコンサルフィーをいただく。
クライアントは情報とサポートを受け取り、それをリターンに変化させる。
そこに忖度はなく、利害関係における駆け引きも存在しない。

このような人間関係は僕にとって許容できるものだった。

逆に言えば、利害関係の駆け引きが存在する人間関係。
忖度が必要な人間関係。
及び、そのような関係が継続的に連続すること。
このような環境が僕にとってのストレスだったのだ。

情報発信というビジネスにおいては、
(あり方を工夫すれば)そのような人間関係を
構築せずに成立させることが可能だ。

そういった意味で、僕はその人間関係を人生の中に組み込む選択をした。


第二に、承認欲求がある。

自分でいうのもおかしいが、
僕は多分人一倍承認欲求が強い。

人に認められたい。感謝されたい。
すごいと思われたい。褒められたい。
(と言いつつ、褒められると虫の居所が悪く
積極的に褒めるタイプの人間が苦手である。)

『個』で仕事をする上で、
承認欲求をどう満たしていくのかというテーゼは
多くの人にとって共通のものであるように思う。

人間関係が希薄になりがちな『個』において
承認欲求を満足に得るためには何かしらの工夫が必要だ。

僕はそれを情報発信に求めた。


先般『許容できる人間関係』という表現をしたが、
許容できるということは少なからずストレスがあるわけで
そのストレスと他の要素を加味したときに
他の要素がストレスを上回るから『許容できる』のである。

情報発信における人間関係の特性。
そして情報発信から得られる承認欲求。

両者を天秤にかけると、僕の場合は
圧倒的に後者に軍配が上がるのだ。


だから、僕は情報発信を『やれて』いる。


話がだいぶ逸れてしまった。

『個』で生きるということは、【捉えようがない不安】に対して、
事業の拡大という手っ取り早い方法以外で対応する必要がある選択だ。
という話の途中だった。


『個』で生きると決めた以上。
現状以上の収入を求めないと決めた以上。


ビジネスを拡大させる以外のベクトルで
何かしらの行動を起こす必要がある。


おそらく5年ほど前。
僕はそのベクトルを『個人としての力を身につけること』
に設定した。のだと思う。

当時はそこまで状況を俯瞰して見れていなかったが
今振り返って分析すると、そういうことだったのだと思う。


『個』で存在しているにもかかわらず、
事業の拡大を目指さない。

一方から見れば、それは単に成長を拒否し
ビジネスに対する不誠実な態度をとっているように見えるだろう。
平たく言えば、ぬるま湯に浸かっているわけだ。

しかし、もう一方から見るとその印象は反転する。

『個』を貫き通すためには一定の強さが必要である。
『個』を維持したまま、それでもお金が欲しい。
ビジネスに社会性を持たせたくない。
これはどこからどうみてもわがままだ。

古今東西、わがままを通すために力が必要なのは真理である。

だから『個』で居続けるというわがままを通すためには
相応の力を持っていないといけない。

オンラインゲームにおいて、ソロでプレイをしたいというわがままを通すためには
それなりのプレイスキルが求められることを想像してみてほしい。
妥当な例えかは疑問だが、概ねそういうことである。


このようなロジックから、僕は『個人としての力を身につける』ことを
行動の第一原理に設定した。


個人で生きる力を身につけるためには
とにかく成功体験が必要だ。

僕は、がむしゃらに色々なビジネスに手を出してみた。


面白いもので、起業当初にあれだけ難しかったビジネスが。
全体像が全く見えなかったビジネスが、
驚くほどスムーズに進められるようになっていた。

当時あった物販のスキームの8割ぐらいは経験したし
アフィリエイトやオンラインサロンなどの情報系もそれなりに経験した。

そして、その全てを一定の結果が出た後に手放した。


事業が大きくなれば『個』から離れていくことがわかっていたし
事業を大きくするメリットは自分にとって皆無だったからだ。
その過程において力を身につけたという感覚が得られればそれで良かった。


だから、色々なビジネスにチャレンジし続け
それなりにうまくいっているのに
会社としての収益は年々右肩下がりという
周りから見たら意味不明なサイクルが発生していた。


個人的に、この間の自分は満たされていたと思う。

その道中、結婚をし子供が3人生まれ家を買い。
生活は様変わりしていった。

ただ、生活に必要なコストは多少上がったものの
思想自体には何の変化もなかった。

なるべく個で生きられる環境づくり
収入は必要な分以上は求めない
やるべきこと、やりたいことを最優先する

このような思想の元
とにかく(ビジネス的な)自分の実力を確かめるために
さまざまなことにチャレンジしていたのだ。


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ここから先は僕の個人的な【捉えようのない不安】に対する解釈について触れる。
多少こんがらがった話になるため、読み飛ばしてしまっても構わない。

多くの人は『不安がない状態』が存在すると思っている。
それを否定するつもりはない。
刹那的にそのような状態は存在しうるだろうし、
精神的に悟ればそのような境地に至ることも可能なのだろう。

しかし、ほとんどの場合は連続的に『不安がない状態』が続くことはない。

あらゆる人間は何かしらの不安の種をもっており、
その種類は違えど、量的には一定なものだと僕は考える。

1800年代前半のドイツの哲学者に
ショーペンハウエルという人がいる。

彼は非常に強烈な厭世観的思想をもっていて
「人生は基本的に全て苦である」と説いた。
(ちなみに彼の思想はかのニーチェに大きな影響を与えた)

これは仏教における一切皆苦と似通った思想である。

彼のロジックを端的に表すと以下のようになる。

1、人間には生得的に生に対する無際限な意志が備わっている
2、無際限な意志により「よりよく生きたい」という目標に向かって努力する
3、その目標が満たされない場合、それは苦痛となって表出する
4、仮にその目標が満たされた場合、生得的に備わった生に対する意志を行動に移せない『退屈』という苦痛が表出する
5、つまりどんな状況においても苦痛が存在することになる
6、よって生は苦痛である


もっと噛み砕いて解釈してしまうと、
人間の状態には『目標に向かって突き進んでいる状態』と
『目標を見失って停滞した状態』の二つのパターンがあり

『目標に向かって突き進んでいる状態』の場合は
その目標とのギャップに対してストレスを感じるし
『目標を見失って停滞した状態』の場合は
やることがないというストレスを感じることになる。

どちらに転んでも一定のストレスは存在する。
と表現できる。

人生とはその二つの状態を振り子のように繰り返しながら
紡がれていくものだから、
どっちに転んでも苦痛やストレスからは逃げられないというのだ。

この苦痛やストレスを【捉えようのない不安】と言い換えても
大きな問題には当たらないだろう。

ここに物質的に満たされた人がいる。
その人が満たされたことによって歩みを止めれば
『目標を見失って停滞した状態』になり、不安が発生する。
一方で次の目標を設定して邁進すれば、
その目標に対するギャップに不安を覚えることだろう。

我々の想像も追いつかないほど物質的に満たされた人たちが
それでも何かに思い悩み、時に自死を選んでしまうのも
物質的な充足が不安を解消しない一つの証左であろう。

僕はこのロジックをそれなりに支持している。
個人的にも人生は苦で彩られていると考えている。
(といっても非常にポジティブな捉え方で)

だからこそ、人生において必要なのは
目の前の不安から逃げ出すことではなくて、
その行動に『意味』を持たせることであろうと思う。

どうせ苦しいのだ。
だったら自分が納得できるという一点において
意志を通すべきではなかろうかと考える。


どちらに転んでも捉えようのない不安は付いてくるが
人生に何かしらの意味が含まれていれば、
その不安は多少軽減できると思う。

しかし『目標を見失って停滞した状態』において
その状態に意味を持たせるのは非常に難しい。
だからこそ擬似的に『目標に向かって突き進んでいる状態』を作り
意味を持って行動するのが僕にとっての不安に対する処方箋だった。

【捉えようのない不安】がすぐそばにあって、
それがトリガーとなり次の行動を起こす。

書いていて、そのような感覚が理解されづらいのでは?
と感じたので補足をしてみた。
補足できたかどうかは甚だ疑問である。

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疑惑


しかし2年ほど前。
一つの心境の変化が起こった。


それまでに一定量のビジネスにチャレンジしては辞めてきた結果
あくまでも自分の中での話ではあるが
『ビジネスに対する自信』ひいては
『個人の力に対する自信』が身に付いてしまったのだ。

自信が身に付いてしまうという表現はおかしいかもしれない。
それ自体は単純に素晴らしいことだからだ。

しかし、力を身に付けたかった元々の動機を考えてみると
『自信が身に付いてしまった』という表現は
あながち間違っていないように思う。


様々なビジネスにチャレンジした原初の動機は
【捉えようのない不安】を軽減するためだった。

生活費は稼げている。不満もない。
それでも存在する【捉えようのない不安】に対して
『個人で生きる力を身につける』という目的を持ったチャレンジをすることで
向き合おうとしていたわけだ。

つまりその自信が身に付いてしまうということは
【捉えようのない不安】に対するアクションの理由を
失ってしまうことと同義なのである。


こうして僕は少しだけ路頭に迷った。

何に新しいモチベーションを捧げれば良いのか?
それが見つからないのは僕にとって一定量の苦痛だった。


書いていて再認識したことだが、
上記のような悩みは贅沢であり、貧弱である。

一般的に見たら
自由な仕事をして
日本人の平均収入よりは稼いでいて
それなりに満たされた生活をしている人間が

「不安だ」
「不安に対してアクションを起こしたい」
「何かモチベーションをぶつけるものが欲しい」

と悩んでいる姿は滑稽なものだろう。


しかし、僕はそのような悩みを抱えてしまう人間だった。
そして少なからず僕の周りには同様の悩み
(悩みの本質的な部分を聞き出すことは容易ではない。
周辺情報から推察した心理であることを補足しておく)
を抱えている人間は山ほどいるように思える。


起業当初、お金を稼がないといけないのに
何をしたら良いかわからないあの嫌な感覚。

状況は違えど、同じような感覚をそこに抱くのだった。


2ヶ月ほどだったと思う。
そのような路頭に迷う時期が長く続いた。

後述することであるが、
このような状態において、新しい目標が見つかるとき
それは往々にして『原初の欲求』を見つめ直すことによって道が開ける。

それまでの自分は『個人で生きる力』を身につけたかった。
それはあくまでも物質的なものであり
精神的な要素はほとんど含まれていなかった。

相変わらず情報発信だけはマイペースに続けていたのだが
そこにはどんな動機が働いているのだろう?

もちろん、それが生活を成り立たせるための仕事だったのは間違いない。
しかし、生活を成り立たせるだけであれば他のビジネスでも良い。
当時、自分はいくつでもビジネスを選択できる立場にいた。


にも関わらず、情報発信を続けてきた理由。
意識的か無意識的か情報発信を選び続けた理由。
それは何だったのか?

やはりそれは『承認欲求』だった。


自分はここにいるぞという意思表明。
その自分を認めてもらうことによって生じる安心感。

僕はそれなしに生きていけないのではないか?

そう考えたときに、ふと一つの疑問がよぎった。

「としぞーという人格は一定の評価を受けているが
それは僕個人の評価と一致するのであろうか?」

「としぞーという人格はたまたま時流に乗って
受け入れられただけであり、それは自分の実力とは
相関しないものなのではないか?」

疑問がよぎってしまった以上、
それを検証しないといけない。


こうして2年前。新しい目標ができた。


それが『としぞー以外の名義で発信をしそれが世間に受け入れられるかの検証』だった。



変身


2020年1月。
僕は別名義でYouTubeを開始した。

同じタイミングで娘が生まれたこともあり
ここからしばらくは貯金を切り崩す生活をすることになる。

それまであった収入の半分以上をなしにして
毎月の支出のうち20万ぐらいを貯金から捻出する生活。

それでいて別名義のYouTube活動には
毎日6時間程度の投資をする生活。

こんな生活が1年ほど続いた。
(往々にしてこのような『苦境』が一番幸福度が高い)

当然最初の半年はやっていることにほとんど反応がなかった。
毎日6時間努力をしているのに、反応もなければ収入もない。

そんな状況でも僕は明らかに満たされていた。
毎日が刺激的すぎて幸せだった。

これも後述することだが、
そのような感覚に浸れたのは心のどこかで
『この活動は認められる』という自信があったからだと思う。
ロジックのない自信があったからこそ
そんな生活を続けることができた。


そんな生活を半年ほど続けると
(作業時間は1000時間!)
少しずつ状況が変化する。

チャンネル登録者数が右肩上がりに増えるようになり
感謝のコメントも数多くいただけるようになった。


詳細は割愛するが、このとき僕が選んだ発信のジャンルは
世間的に非常にニッチなものである。
しかも、一般には難解とされ、学問にカテゴライズされるものである。

そして僕はその学問を体系的に学んだことはない。
個人的に好きだったから独学で学んでいただけである。


そんな僕の発信に、大学などで体系的に同ジャンルを学んでいる視聴者から
感謝のコメントが届いたりする。
これはまさに承認欲求を満たすとんでもないプレゼントだった。

ときには自分の動画を講義で使用したいという
教師の方からの連絡ももらったり

ある有名な経済誌に取り上げていただいたり

そのジャンルの大御所の方から連絡をいただいたり

少しずつ活動が目に見えた結果を生み始めていた。

2021年。
遂にチャンネル登録者数が1万人を突破した。
同ジャンルにおいては僥倖ともいえる数字である。

広告収入も入ることとなるが、
これについては目的とは一致していないのでどうでもよかった。


僕は見切りが早い。

それまでのビジネスをかなり早い段階で
「このビジネスのことは大体わかった」
と手放してしまっていたように、

かなり早い段階で判断をしてしまい、
その判断に殉じてしまう性格を持っている。


これはYouTube活動においても同様だった。


他名義での活動において一定の結果が出たことによって
「自分の発信は認めてもらえるものだった」
と早急に判断してしまったのだ。


ここまで読んでいただいた方なら理解していただけると思う。
僕はまた路頭に迷うこととなる。


YouTube活動を始めた本来の動機
『としぞー以外の名義で発信をし
それが世間に受け入れられるかの検証』
が達成されてしまったのだ。

当然(?)その活動に対するモチベーションがなくなるのである。


それまで毎日、平気で数時間作業していたものに対して
なんのモチベーションも湧かなくなってしまった。

一般的にいえば、チャンネル登録が1万を超え
広告収入も増え始めたその状況は
『まさにこれから』という希望に満ち溢れたものだろう。
ここで活動をやめるバカはいない。

しかし僕はバカだった。
そのYouTube活動を休止したのである。


こうしてまた僕は次なる目標が明確ではない
あの『嫌な感じ』を携えて路頭に迷うのだった。



夢想


実は最近までこの状態は続いていた。
(厳密にはまだ解決したわけではないが
すでに迷走状態は抜けている)

こういうときは、YouTube活動を始めた際と同様に、
原初の欲求に立ち返って自分の人生を検討してみる必要がある。


1ヶ月以上に渡る思索の結果、
1つ大きな気づきに出会った。

これまでのあれこれをお読みになった方には違和感があったかもしれない。
僕のこれまでの人生には『やりたいこと』という概念が抜け落ちていたのだ。


確かに情報発信は好きだし、やりたいことだ。
しかしそれは結果的にそこに落ち着いたという類のものであり
やりたいから始めたというよりは
【承認欲求を満たせる装置】であり【出来ること】だから始めたのであり
一般的な夢に当たるような大それたものではない。

さまざまなビジネスに挑戦していたときもそうだ。
それは確かに外面的にはやりたいことであったが、
【力と自信を付ける装置】であり【出来ること】だから求めたことである。

別名義のYouTubeを始めたときもそうだ。
それは確かにやりたいことではあったが
【自分という媒体が世の中に受け入れられるかの検証】であり
【出来ると思っていること】だから開始したものである。

僕の起業人生において【達成したい夢】みたいなものは
その一切が抜け落ちていた。


そこで、僕は過去を振り返り
本当にやりたいことが何なのかを考えてみた。


本当にやりたいことが何かを考えれば考えるほど、
それまで気づかなかったあることが見えてくるようになる。
『気づかなかった』という表現は間違っているかもしれない。
深層的には『気づかないふりをしていた』という表現が正しいように思う。

結論から書くと、僕は本当にやりたいことから
逃げ続けていたのだ。

ここで詳細を書くのは憚られるので、多少ぼやかして表現するが
今この瞬間、僕が真にやりたいことは複数存在する。


例えばそれは小説家になりたいという夢。

これは小さい頃に持っていた原初の夢だった。
実際、小学生の頃には自作の漫画を描いて
集英社のグランプリに応募したことがある。
(郵便切手が不足していて自宅に作品が戻り、
それで心が折れて諦めたのだが)

小説である必然性はどこにもないのだが、
つまりこれは承認欲求の最たるもので
自分の作品が世の中に残ってほしいという欲求。
そしてそれが世に受け入れられるとなお良いという欲求。
その頂点にあるのが小説家のような仕事なのである。

情報発信としてコンテンツを作成したり、
YouTubeの動画を作ったりしていたことも
もしかしたらこのような深層心理が影響していたのかもしれない。

振り返ってみると『小説家になりたい』という欲求は
常に心の奥底に存在していた気がする。
一般的に小説家になる最初の一歩は小説を書くことである。
しかし、僕はこれまでに一編の小説も書き上げたことがない。

夢に対する憧れの強さと同じぐらい(いやそれ以上に)
そこで発生する苦悩から逃げていたからだ。

仮に小説家を目指したとしよう。

当然、まずは小説を書くことになる。
そこで自分の才能のなさに絶望するのは間違いない。

文章が下手くそだ
想像力がない
取材力がない

このような絶望と向き合って、それでも努力を続ける。
仮にその努力を続けたとしても報われない可能性の方が高い世界。
そんな世界から逃げていたのだ。


例えば他には、あるビジネスプランを形にしたいという欲求。

僕の考えで行けば、それなりに社会に影響を与えるであろう
ビジネスプランをここ数年ずっと練っていた。
(ビジネスプランというよりは社会貢献といった方が妥当かもしれない)

しかし、そのビジネスプランを実現するためには
相応の金銭的リスクを負いながら
人間関係を広く構築していかないといけない。
とてもではないが、僕の今の状態では実現できないプランだからだ。

そこには当然のように人間関係におけるトラブルやストレスが発生するし
そもそもその事業自体、上手くいくかは甚だ疑問である。
今よりも強度の強いストレスの中で、それでも前進を辞めないで
動き続ける困難から僕は逃げていたのだ。

また、そのプランを『個』のままで達成することも不可能ではない。
しかしその場合は想像を絶するような力が必要になる。
今の僕には到底そのような力はないし、身につけられるかもわからない。
そのための努力からも僕は逃げていたのである。

それ以外にも叶えたいことは意外にたくさんある。
(これは万人にとってそうであろう。普段はそれに蓋をしているだけで)
そしてその全てから、本質的には逃げている。


つまり、僕のこれまでの人生は
『出来る』と思ったことをチャレンジに選んでいただけであって
そこに本来の意味のチャレンジは存在していなかった。

本当に叶えたい欲求の周りにある
柔らかい部分でぬくぬくと生きてきたのである。

もちろん、そのような人生は悪いものではないし、
自分の人生を責めるつもりも毛頭ない。

しかし、残りの人生を考えたときに
そろそろ覚悟を決めないといけない時期が来たのではないか?

今後の人生をこれまでと近い形で『欲求に蓋をしながら』生きていく覚悟。
欲求に忠実に動き、今までよりも荒波の人生を生きていく覚悟。

そのどちらかを選ばないといけない時期が来たのではないか?

そう考えるようになった。


かの孔子は
『子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(論語・為政篇)』
と語ったという。

35歳の今の自分が5年後の40歳のときに
自分の人生について迷いなく生きられているだろうか?
そう考えると、今まさに何かの選択を迫られているような気がしてならないのだ。


この答えは未だ出ていない。

しかし、心は次の瞬間に向けて『必然的に』動き出している。



未来


思い返せば会社員時代。
僕は自分の人生について何も考えていなかった。
周りの環境も自分の人生もたまたまの結果であり
それが普通のことだと思い込んでいた。

しかし、あるときそれに疑問を覚えた。
疑問が現れた瞬間に周りの環境に違和感を感じだした。
それまでに紛れもない自分自身が作り上げてきた環境を呪った。
それを変えたいと心から願った。

起業してたくさんの苦労をした。
でもその苦労は『それを変えたい』という欲求に根ざしたものだったから
受け入れられる苦労だった。

すると、面白いぐらい環境が変わった。
環境は自分の力で変えられるものだという当たり前のことを理解した。
もっと良い環境を手に入れたいと思ったし、
『環境は自分の力で変えられる』ということを
周りに広めていきたいとすら思った。

物質的に満たされることが『環境が良くなること』とは一致しないことを学んだ。
精神に根ざした欲求を一つずつクリアしていくことが
『環境を良くなること』だと理解した。
僕の場合は【個】であり続けることがそれだった。

【個】でありながら、自分のわがままを通すためには
力を持っていないといけないことに気づいた。
わがままを通せるだけの個人としての力。
それを追求した。
知識や経験や能力を蓄えた。

生きていく上で必然的に向き合うこととなる【捉えようのない不安】を
軽減するために自分に力と自信をつけることにした。
その行動は確かに力と自信につながったし、一定の効果を生み出したが
それでも完璧な自信というものはなく【捉えようのない不安】が消えることもなかった。

しかし、この繰り返しの中で確実に『環境』は良くなった。

物質的欲求を乗り越え、
社会的欲求を乗り越え、
そのための課題を一つずつ潰していった。

そうして『解決可能な』課題をクリアしていった結果、
最後の残ったのは『解決可能かは不明』な課題だった。
つまりこれが原初の欲求である。


この欲求を放置して、知らんぷりをし続けるのか?
この10年を振り返るともはやそれは不可能であろう。

環境は自分の行動で変えられるという事実。
それを10年間繰り返してきたという自負。

僕に残った選択はもはやそれを続けることしかないのだと思う。


だから心は次の瞬間に向けて『必然的に』動き出している。

正直、これから具体的にどんな夢に向かって進んでいくのかは決まっていない。
しかし間違いなく言えるのは、どの夢に向かうとしても
『個』は捨てないんだろうし、捨ててはいけないということだ。
そして『個』でいながら夢を叶えるというわがままを通すためには
今以上の力が必要なことだ。

求める『個』の力を身につけるためには
短期的な利益をなるべく排除し、生産性とは逆方向にある様々な努力を繰り返す必要がある。
これは、ここ数年でまさに取り組んできたものでもあるが、
おそらくそれでは量が足りないと考えている。
もっともっと、努力が必要だ。

こう考えると『個』の力をより高めていくという目標は
無限に設定し続けられるものだとすることができ、
そこに重要な意味がある以上【捉えようのない不安】に対抗する
非常に有用なアプローチの一つなのかもしれない。


ある意味僕は『個』で生きるという人生に縛られてしまったのかもしれない。
会社員として縛られていたあのときと状況的には同じかもしれない。

しかし徹底的に違うのは、それを自分で選択したということだ。

つまりこれは単純な物理現象ではない。
少なくとも自分にとっては意志を持ったベクトルだ。


次の10年は今までよりも過酷なものになると思う。
きっと何かの夢に向けて動き出すはずだから
そのための力を懸命に蓄えなければならない。
『個』でいるためのわがままを通し続けなければならない。

だから、僕は今日も自分を鍛える。
もっと能力が欲しい、もっと知識が欲しい、もっと経験が欲しい。
『個』で生きながらにして、自分の欲求を最後まで追い続けるという
度を超えたわがままを通すために僕は今日も自分を鍛える。

もしかしたらその行動自体が僕にとっての幸せな人生なのかもしれない。

願わくば、死ぬ瞬間に【捉えようのない不安】に感謝できるように。
次の10年、そうやって生きていきたいと強く想っている。

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