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お気持ち供養

21時頃の電車の中というのは、まるで図鑑のようなものだ。
都会の電車に乗ってみるといい。席に座って、じっと向かいの乗客を眺めてごらんなさい。入れ代わり立ち代わりする乗客たちの人生を想像するのは、それだけできっと短編集を読んでいるようなものだから。


神田

向かいの席には全身黒服に毛虫みたいなまつ毛の金髪女子と、Here Is Loveと書かれたTシャツを着たおっさんが座って話し合っている。年の差は親子くらいだ。二人は時折視線をあげ、バーの電気が消えるまで残っていた客のことを思い出している。
毛虫「あの人今日はいつになく粘ってましたね」
Tシャツ「まあ、すぐには家に帰りたくない日もあるんだよ。あのお客さんは子供が3人もいるから、大変なんだろうね」
「ああいう大人には、なりたくないですけど」
「まあ実際、大変なんだと思うよ。僕は子供はいないから、お金も時間ものんびり使えて良いけど、そうでもなきゃこんな仕事できないしね。それでもたまに思うよ、子供がいたらなあって」
「作らなかったんですか?」
「そうだね、作らなかった」
「子供好きなのに?」
「子供は単純だから、良いんだ。だけど、たぶん大人になって人格というか、我(が)みたいなものを持つようになったら、僕は何となく、そういうのがダメなんじゃないかと思ったんだ」
「臆病なんですか?」
「まあそうだねえ......君はさ、毛虫と蛾だったら、どっちが好き?」
「店長さ、ホントは子供も嫌いでしょ笑」

おそらく、彼らはこんなことは話してはおらず、もっと互いのことを知り、じっくりと味わうような会話をしていたはずだ。長く時間を共にしながら、それでもまだ相手のことに興味があるように話す二人を眺め、僕は心地よさを感じている。


新宿

彼女も今年で30代半ば。ミドルロングの黒髪を左右に分けただけのスタイルで、やけに太いピンクのテンプルをしたメガネをかけている。
控えめに言ってかなり控えめな彼女と比べると、このメガネは幾分目につく。とはいえこれはメガネと一体型の骨伝導式補聴器なので、実際ある程度の太さが必要なのだ。どのみち目立つものだが、彼女は比較的ピンクが好きなので-買ってきたカバンの持ち手をわざわざピンクの革に付け替えてしまうほど-この色が最適解なのである。
一昨年の初夏。道沿いに植わった木々の緑が段々と濃くなってくるような、そんなある日、彼女は初めてピンクの補聴器付きメガネをつけて職場に出向いた。同僚たちは彼女の新しいメガネを見て、初めは珍しがったが、昼食をとるころにはすっかりそのメガネに見慣れてしまっていた。それは、彼女がごく自然にそのメガネに親しみを持ち、ごく自然に自分の一部として取り入れていたからなのだと、今になって彼らはようやく分かるようになった。
僕はといえば、もう既に、メガネではなく足元のベージュのフラットシューズの方が気になっている。彼女は比較的高めな身長を隠すためではなく、単に自分に馴染むだろうと思ってその靴を買ったのだということに気が付いて、僕はすっかり満足してしまった。
自分の好みに正直。この人は、いつでもそういう人なのだ。


吉祥寺

もしも前から気になっていた人との初デートで、自分と相手の着ている服が全く違う系統の服だったとしたらどうだろう。これはTPO・空気を読む力というよりは、むしろ互いのデート観、あるいは互いの歴史の話なのだ。
一人がTシャツとパーカーにジーンズで、もう一人が綺麗目なニットにスカート。一方の靴はスニーカーで、もう一方はスウェード靴。彼・彼女らはその違いに幾分がっかりしただろうか。あるいは、その違いを何らかの形で笑いに変えたりしただろうか。
否。おそらく彼らは、そんなことなんて一切気に留めなかっただろう。そんなこと、考える必要もなかったのだ。ただ相手が好きという気持ちさえ共有されていれば、彼らはそれで満足だった。二人でいる時、服は、あくまで自分を普段より少しだけ良く見せるためのツールでしかないのだから。

そして、おそらくこれも彼らには必要のないことかもしれないが、もしも二人のどちらかが、今夜どうする?と相手に聞いたらどうだろう。
簡単なことである。
どちらに聞いたとしても、間違えなく『もちろん一緒にいようよ!』と答えるだろう。


電車から降りて、見たことを書いた。
次の日、浮かんだことを書き足した。
こうした雑巾絞りが、多分、今の自分には必要だったのだろう。


-25歳の気持ちたち、ここに眠る 2021/09/29-

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