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人に頼る

今日は書きたいことがいっぱいあるので、ばぁっと思いつくままに書いていく。

待つことの辛さ

先週の金曜日に内々定の連絡を頂いた。
勤務開始は7/16から。

ここまで来るのに本当に長かった〜。

最後に勤めに出たのが3/15。
そこから、内々定先の職場実習が始まるまで2ヶ月。
そして、職場実習から面接を2回経て、内々定が出るまでまた2ヶ月。

当初の予定では、職場実習は4月中の予定だった。
ところが、新型コロナウイルス感染者が発生したらしく、延期となってしまったのだ。

職場実習を終えて、いざ面接まで3週間待つことになった。
そして、最終面接までまた、3週間ほど待つことになったのだ。

待機期間中は、面接の案内の連絡がいつ来てもいいように、外出はなるべく控えて、スマホを手元に置く日々が続いた。

正直言って、待つのにほとほと疲れてしまった。
待つこと以外に、やれることが限られているのが辛かった。

ようやく内々定の連絡が来て、少しは楽になるのかと思ったが、そうではなかった。

無職の中年男の居場所がない

確かに、連絡を待つことからは解放された。
しかし、このご時世、無職の中年男が堂々と平日昼間に居られる場所がないのだ。

地元の図書館は、7月に入ってようやく、それまで撤去していた座席が設置された。これで長居できるようと思ったのもつかの間、高校生が試験機関に突入。

試験勉強に勤しむ高校生たちの横で、時間を潰すのがなんだか申し訳なく感じ、足が遠くなってしまった。

では、カフェなどのお店はと言うと、コロナ禍とあって、休業しているお店があるし、長居することで感染リスクを高めることが、お店に迷惑を掛ける気がしてならないのだ。

ただ自分が遠慮がちであったり、考え過ぎなのかもしれない。
また、無職故に堂々と振る舞えないだけかもしれない。

それでもやっぱり、「出かけようか」と思ったときにためらってしまうのだ。
なので、必然的におウチ時間が増えた。

寝て過ごすだけで、時間を無駄にしている

では、おウチではどうしているかと言うと、寝て過ごすことが多い。
特に食後に横になり、そのまま寝入ってしまい、気づいたらお昼だった、夕方だった…というパターンが定常化している。

これではマズい!
このままだと勤務に響くぞ!

と思うのだが、どうしてもリズムを整えることができない。

また、「時間があるから自分の好きなことに打ち込めばいい」と思われるかもしれないが、「自分の好きなこと」が見つけられなくて苦しいのが実情だ。

この、「自分の好きなことが見つけられなくて困っている」ことについては、別の機会に書くことができればと思っている。

Facebookのタイムラインを直視できない

そうやって、外にも出ず、時間をただ無駄にしているだけの身にとって、SNS、特にFacebookは観るのが本当に辛い。

・本を出しました!
・〇〇さんと一緒にいます〜
・△△というイベントをやります♪

皆、キラキラしていて、「それに比べて自分は…」と悲観的になり、ついついFacebookから疎遠になってしまった。

人を頼ることができない

ああ。そうか。
こうやって、孤立していくのかな。
そんな考えがふっとよぎった。

自分の場合だけど、無職であることを気にしたり、人に迷惑を掛けることは悪いことという思い込みがあったりで、傍からは「絶対に人に頼った方がいい」と見える状況でも、SOSを掲げることができない。

人とつながる。
人に頼る。

当たり前だけど、大切なこと。
でも、自分には難しいこと。

思えば、思春期の頃から、人に頼ることを避けるようになっていた。
家族にさえも頼ることを極力避けていたと思う。

そして、どんどん状況が悪くなって、もう一人ではどうにも対処できなくなってから初めて人を頼るようになった。

20代から、そんなパターンを幾度となく繰り返した。

あの時もっと早く人に頼ることができていれば…
そうやって後悔することが今でも多い。

受援力。
周りの人に「助けて」と言える力。
自分に不足している力だ。

もしくは、ASD当事者障害としての自分に当てはめるとしたら、「セルフアドボカシー」となるだろうか。
「自己権利擁護」という意味だ。

今からでも遅くはない。
人に頼ろう。
人に甘えよう。

そう。
少しずつでいい。

頼ったり、甘えたりするのは悪いことじゃない。
むしろ、人を信頼しているからこそできること。
「信」じて「頼」ると書いて、「信頼」なのだ。

はい。
いいこと言ったので繰り返します^^;

「信」じて「頼」ると書いて、「信頼」


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