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無題(習作)

 見るものすべて威圧的な日、石川啄木のような日、うっすら曇った今日この日、窓からの景観にしかかるマンションの屋上がこわい。双子のようなあるいは残像のような相似形の立方体が馬鹿になった遠近感越しに君臨、それは給水タンク。給水タンクの陰をちらちらと人間でないものが跳梁している。それがなんなのか確認できる前にただごとでないことだけは分かる。いかなる瑞兆か。おれは死ぬのか、という恐怖。すると凶兆。なにが起こるか待ちかまえるように目をはなせない。たぶんそれらは矛盾しない。
 馬鹿になった遠近感、見下ろす二階ぶんの高さは千尋、その底で、ピンクのシャベル持って穴を掘る餓鬼が頭のてっぺんでゆらゆら拍子をとっている。右手、つまり左手の道路に面した庭の奥、ビニールシートで車庫と仮定したスペースに車が二台。えらそうな黒塗りは毎朝おとうさんが乗ってでかける。もう一台は動いているのを見たことがない。
「ねえ」
 振り仰いだ餓鬼は女の子、おむかいの子供だろうが夕方に聞こえるへたくそなピアノはたいていこいつのしわざらしい。
「なに」
「そこに穴を掘ったら、車が出れねえだろ」
「そうかな」
「そうだろ」
「そうだね」
「埋めたほうが、いいぞ」
「分かった」
 とか言いながらまた掘りやがる。空模様があやしい、と、果たして底鳴りするような雷がひとくさり、響いて、天気予報の夕立もそろそろ来る。
「雨が降るよ」
「そう」
 おれを見ない。手を止めようともしない。
「うちに帰ったほうがいい」
「もうちょっと」
「なにしてんの」
「穴掘ってるの」
「穴掘ってどうするの」
「おとうさん入れちゃう」
 バケツひっくり返したように、驟雨、話を切断して、二度と再開しない。雨煙、雨幕、あくまで厚く、女の子がまだそこにいるのか、どうか。それさえ。雨幕はレンズ。給水タンクはさらに近く、黒い影はベランダに飛びうつり、網戸をひっちゃぶいて六畳の中心で破裂、蒸気より細かい粒になって部屋に遍満する。やがてまた凝結し、扇風機の前で寝そべる女になった。おれはこれからこの女と別れ話をしなければならないが、きっとこいつにはなにを言ってもむだだろう。穴があれば、とふいに思ったおれはまだ女を起こさない。
 扇風機のスイッチを入れた。空気を撹拌しかきまわすばかりで、すずしくもなければ、女もまた女に固着しきっていて、やはりおれは永遠に終わらないと知りながらも女の呪詛の言葉をすべて受け入れなければならない。

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