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不死王曲 (5)

普律殿下「それで、姉上」
茉莉杏殿下「赤くなっちゃったでしょ。馬鹿ね。手かげんしなさい。わたしは幼児ではないので、言われれば分かります」
普律殿下「はい、気をつけます。旅券なのですが」
茉莉杏殿下「ないわよ、そんなもの」
普律殿下「そうですか。では、とりあえず船を探しましょう。飛讃フェリーよだかです。はい、どうぞ(チケットを渡す)」
茉莉杏殿下「なに」
普律殿下「ですから、チケットを調達できましたので、乗り場へ。買収するなり、ごまかすなり、旅券のことはあとで考えましょう。時間がない」
茉莉杏殿下「おまえな」
普律殿下「はい」
茉莉杏殿下「姉上、姉上、って、やめろって言ったでしょ」
 それどころではなかった。理不尽でもあった。以前、まあ、つい前日のことだが、
茉莉杏殿下「大衆はそのような呼びかたをしない。姉ちゃんとでも呼びなさい」
普律殿下「うん。姉ちゃん」
 というやりとりが、就寝のとき、ネットカフェであった。普律殿下は、一を聞いて十を知るどころではなくご賢明なので、姉君の呼びかたを変える、ということは、口調一般にまでその擬態を適用しなければ意味がないと判断され、はい、ではなく、うん、とおっしゃった。
茉莉杏殿下「やはり、やめなさい。姉上でいい。要は、人に聞こえなければいいのだから」
普律殿下「はい」
 すぐに取り消されたが、やはり、気持ち悪かったらしい。普律殿下も、完璧に下々の口調をまねる自信などなく、しょせん不完全な迷彩にしかならないなら、いっそやらないほうがいい。いらざる神経の負担になるだけである。その理屈も理解できたので、普律殿下はなにも言わず、ひらひらとスカートをなびかせて背中を見せ、次の瞬間には正面を向いておられるのを、立ってすわって、また立たれたのを(二度の朝令暮改的変更)、つまり現状維持を受け入れられた。
 こういった一連の経緯を確認して、茉莉杏殿下を論破してもしかたなかった。普律殿下に言われずとも、(一時的に忘れているにしても)はじめから心得ているに決まっており、この際、重要なのは、むかついた、むかついた余波がつづいている、とりあえずやつあたりしたい、ということにつきる。つまり、腕の一本(や二本)ではゆるしていない、旅券調達係としての不首尾をちょっと悪いと思っている、普律殿下の手際のよさがかえって(搦め手から譴責するようで)むかつく、ということになる。
普律殿下「申し訳ありませんでした」
 謝罪の一手、見事なご判断である。姉上、とも、姉ちゃん、とも、余計なことは言われなかった。それも、ただしい。
普律殿下「まいりましょう。こちらです」
 また手際自慢になりそうなので、(やつあたりされているうちに)乗るべき船を見つけた、などとは報告しなかった。色旗が掲揚され、ラッパの吹奏、さらにアナウンス、
ウグイス嬢「飛讃フェリーよだか号にご搭乗のお客さまは、レッドフラッグ埠頭までおこしください。お子さまをおつれのお客さま、ご年輩のお客さま、スタッフの介助が必要なお客さまから先にご案内しております」
 見え、聞こえた。これこそ空港なみのサービス。非効率、非合理、不衛生をいつまでものさばらせておくつもりはない、慣習、惰性という魔物と正面から対峙し、徐々に、できるところから改善していこうという殊勝な姿勢に、普律殿下は感動なさった。迷わず行ける。茉莉杏殿下は、無言でついてくる。手も引かない。さしあたり、なんの落ち度もないので、やつあたりを試みることが、これ以上できない。ニトログリセリン原液がたぷたぷする樽を、馬車で運搬するイメージ。次の不幸な犠牲者は誰だろう。なにごともないうちに食事か睡眠かで、茉莉杏殿下の不機嫌がごまかされ、うやむやになって消失すればいいが(まれに)、そううまくいくだろうか。いかなかった。馬車が縁石に乗りあげた。
普律殿下「これ、二名です」
もぎり「旅券」
普律殿下「ちょっと」
もぎり「旅券」
普律殿下「忘れてしまって」
もぎり「じゃあ、とってこい」
普律殿下「もう、船が出るじゃないですか。おねがいします」

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