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口語散文集 1

   夢路

 優子のハムスターが死んで、優子から、死ぬ、と言われて、午前五時、マンションの前で本当に優子は道路に寝ころんでいた。横断歩道から三メートルはなれてて、コンビニのすぐ前で、東京の木はいちょうだから、みどりの柵を越えて、わたしに来てもらえるまで、ずっとそうしていたのだろうかと、いそいで来たことも忘れて、眠気もふきとんで、あおむけの優子のぴんとのびた手足を、ただ、ふしぎに思った。
 優子は夢を見ていて、めったに乗らないバスで優先席にすわっていた。乗客は少なくて、おじいちゃんおばあちゃんも障害者も子供もいなくて、誰もいなくて、優子ひとりで、噴水のあるホテルの前で四分待って、入口のすぐ右の席に腰をおろした。
 携帯を見ることも、読書することもない、優子は、学生のときとか、もっとむかし、小学生とか、保育園のときとかのことを思い出して、消えてしまいたくなっていた。いつも、そうだった。わたしは、少しでも気がまぎれるような、おもしろいことが起こればいいと思っていた。優子の頭の上、三角の黄色のつり革に、金魚が、生物係にレタスの葉をもらえるのをじっと待っているインコのように、とまっていた。
 金魚は、金といっても赤とか黄色とかで、めずらしいのは黒の出目金で、花より、虹より色の種類があるわけではないけれど、優子が見た金魚、青かった。トロンボーンにつくさびの色みたいに深く、濃くはなくて、アルノルフィーニ夫妻像のころのフランドルのパン屋の十二歳の娘が、おつかいの途中でふと見あげた空、そんな、すんだ、透明な青で。
 それだけの夢だけど、わたしは、優子がたしかにその時間、都道四三九号線の上で息をしていたこと、わたしに、死ぬな、と言われるのを待っていたことを証明するために、二一〇円はらって、ドクターペッパーの缶を踏み、毎日新聞を踏み、優子のひざに手を置いて、青い金魚を口うつしで、歯で傷つかないように、舌をすべらせ、のどを通して、ピンクの胃のなか、流して飼わせた。

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