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口語散文集 2

   家路

 先輩はオレンジムーンの常連になって、あがる時間になるたびに、ちょっといいかな、って、好きです、って、いつも裏口横のポリバケツに手を置いて言った。つきあってる人がいるのは知ってるし、だから、こたえようもないし、ぼく自身、どうにかなるとも思ってないけど、これから、下心できみのことを追いかけることはたしかで、それがいやだったら言ってください、なんて、目をあわせられなかった。きらいじゃないとは伝えたかったけど、こまった。わたしは学生時代、妙に好きになられて、早いもの勝ちで最初の人と恋人ということになっていたけど、英文科のその人で、別の人じゃないのはなぜなのか、分からなかった。わたしは、二万円しなかった自転車のかごにエプロンをたたんで入れて、また、そっとつまんでたたみなおして、サドルにまたがって、傷つけない、その場しのぎのことばをずっと探していた。あやまるしかなかった。
 そのときの自転車が、いまも、田んぼの畦道を走り、最後の最後で、本当にこれで終わりだと告げられた暗号の数列の意味を、ふと考えた。
 コンクリートはざらついて、乗りあげた瞬間のタイヤの変形が、そのまま腰にひびくのは、きっと空気が入っていない、どぶを横目に立つ自販機がわたしの舌うちに、ごう、ごう、ぶうん、鳴って、見下していた。
 こがね虫の背中の色のスプライトから、黒字に黄色の水玉で、レモン、とだけ書かれた右端まで、わたしは、37275、と、順番に三回、七回、押した。
 枯葉の落ちるような音がして、直方体のこちらの右の角、むらさきの煙が立ちのぼり、濃く、細く、長く、どこまでものぼり、入道雲をにごらせて、光った、空が暗くなった。雲の根もとのずっと底の地球の中心から聞こえる、低くうめくように鳴りわたり、遠い遠いかみなりが、五秒は遅れて耳にとどいた。
 雨になる。わたしは、しゃがんで、缶をつかもうとしたけれど、クレーンにした手に触れるものはなくて、中指、かすかに感じたのは、ひからびたシュークリームの皮。セミのぬけがらのなかに、細く、長いしっぽのカナヘビがまるまっていた。
 かすかにふるえて、今日も三七℃の猛暑日なのに、かたく、緊張して、肌はかさかさ、寒そうで、わたしはせめてこの子にかわいい名前をつけてあげたくなった。
 背中に、二対のつばさがくしゃくしゃで、いまのわたしには、モンシロチョウになりたいのか、オニヤンマになりたいのか、それとも、エルンストのナイチンゲールになりたいのか、分からない。

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