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口語散文集 7

 愛ちゃんはかなしい子で、人に愛されたことがないから、人を愛することもできなくて、それは依存か、大切にされたいという絶望的なねがいになってしまうかで、どんなに大切だと伝えようとしても届くことはなかった。お父さんとお母さんはいそがしくて、家族そろって食事する時間もなかなかないから、年長さんのとき、愛ちゃんの郵便屋さんをはじめたのに、そのポストには一通も手紙が来なかった。キリスト教の中学校に入学して、卒業までに英検二級をとったけど、それくらいどんなことでもがんばって、バレエも主役だった、ピアノも弾けた、絵もうまかったけど、ほめられたことはなかった、って言ってた。
 はじめて、愛ちゃんは誰かのために変わろうとしていて、それは、図書館の外国文学の棚の、忘れられない、お姫さまのおはなし、請求番号J933/マの下、コントラバスのソフトケースのなかがふさわしいと思って、トイレで閉館時間がすぎて真夜中になるまで待ってた。
 夜明けととともに愛ちゃんは羽化して、かわいらしいルリシジミのつばさをかわかした。はだかのままで、東の翼棟と駐車場に抱かれた広場の、一本のニセアカシアのてっぺんにのぼって、飛びおりたけど、せめてスカートをはいていればプリーツで風をつかまえて、もう少し遠くまで行けたのに、と思う。愛ちゃんは死んだ。愛ちゃんの右の鼻の穴の下、鼻くそとからかわれて、気にしてずっといじってた、あのほくろがくっついた愛ちゃんの顔から、指をさしただけで血が出そうなくらいとがった一重まぶたの顔から、愛ちゃんの苦しみが分かって、それどころか、神さまとか、無限とかまで飛んでいけるって言った哲学者までいたのに。そうそう、市長賞をとった愛ちゃんの絵は新刊コーナーのよく見えるところにずっとかざられてて、ちょうちょの夢、ってタイトルだった。

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