百年の日のコピー55

百年の日(15)

 浮かれたじいさんが、演歌をうなっている。自分では鼻歌くらいのつもりかもしれないが、やや時間帯をはずれた銭湯は、音を吸収する人の体がなく、響き放題にこだまして、高い天井いっぱいにこもっている。
 康平の場所からは見えなかったが、すりガラスの戸を引く音がして、やっと出ていく気配である。
「まいりましたね」
 と、となりに同意をもとめた。
「ごきげんだ。なんだかこっちも笑っちゃいましたよ」
 こたえたのは、洋子の父親の保である。今度は女湯のほうで子供のはしゃぐ声が気になりだしたが、いま、この男湯にはふたりのほかに誰もいない。
「どこまで話しましたっけ」
「靴ずれ」
「そうでした」
「知りませんでした。まさか、足のかかとを気にしている場合でもなかったので」
「でしょうね」
「最近見かけないサンダルが増えたと思っていたんですが、それか。てっきり妻が知らないうちに買ってきたんだとばかり。帰ったら、あらためて、よく見ておこうと思います」
「なんか、恥ずかしいな」
 保は、突然湯をすくって両手で顔をこすった。しぶきが康平にもかかった。
「ぼくも聞いていいですか」
「どうぞ」
 ふるえる声は、湯をかぶっただけではごまかせなかった。康平は、気づかないふりをしてやった。
「猫、飼ってたことはありますか」
「いいえ、ないです」
「ないんですか」
「ペットのたぐいは一切」
「家族の誰かが、アレルギーかなにかですか」
「いいえ」
 洋子は、飼いたいと言い出せなかったのかもしれない。そんなことも、洋子らしかった。猫が好きだというのは初耳だと、保は言った。
「なんにも知らないんだな」
「じゃあ、もうひとつ」
「どうぞ」
「料理なんかはしてましたか」
「見たことないですね。苦手でしょう」
「それなら、食べるほう専門か」
「なんです」
「おかしが好きなんだそうです。どんなおかしですかね」
 団体が入ってきた。草野球かなにかのチームが汗を流しに来たらしい。それをきっかけにではないが、ふたりは上がることにした。
「びっくりしたでしょう。急に銭湯なんかさそって」
「学生のとき以来でした。でも、たまにはいいですよね」
「まだ、なかなか家の風呂は入りづらくて」
「ああ」
 洋子は、風呂で溺れていたのだった。
「妻なんかは平気なんですがね。まあ、ずっと風呂に入らないわけにもいかないから」
「ぼくでよければ、つきあいますよ。たまだったら」
「まだ、話は終わってないんですよね」
「そうですね、あのあとは、どうしたっけな」
「また聞かせてください」
「ええ」
 脱衣所に将棋盤が置かれているのを見つけ、むらむらとその気になってきた。どうですか、とさそってみたが、保は駒の動かしかたも知らないと言った。
 かわりに、と、なにがかわりなのかよく分からないが、ラムネを買ってきてくれた。肩をならべて、一気に飲んだ。
「まだ考え中なんですけど」
「はい」
「どう考えてもまちがいないのは、あのとき洋子さんといて、たのしかったんですよね。正直、はじめは変な人だとしか思いませんでしたけど。たのしかったんですよ。あの子をよろこばせるにはどうすればいいか、考えながら歩いてました。それは、まあ、お見合いだし、結婚とか思うと、分からないですし、また同じようなデートをして、同じようにたのしいかどうか、それも自信はなかったです。次に会うのは、さすがにめんどうだって思っていたかもしれない。思っていたでしょう。でも、やっぱり、たのしかったんですよね。もうそこからなんの発展もしないし、ただそれだけのことなんですけど、それだけなんだけど、けっこうそれって、いいことだと思いませんか。ぼくは、すごいことだと思うんですよ。こんなにはっきり、その時間をたのしかったって言えるのは」
 康平は、途中で何度も保の顔をのぞきこみ、なにか言ってくれるのを待ちながら、結局これだけひとりで言いつくしてしまった。
「ありがとうございます」
 晴れ晴れとそう言ったのは、決して強がりではなさそうだった。泣かせてやろうとしていたわけではないが、肩すかしをくらったようだった。とにかく、よかったと思った。
 帰ったら酒の準備があると、保は、うれしそうに言った。ひさしぶりに人と飲めるのをずっとたのしみにしていたらしい。これからまだ行くところがあるので、と康平は断ろうとしたが、ちょっとくらいはいいかもしれないと思いなおした。
 タオル、石鹸、いるものは全部銭湯に用意されていて、手ぶらである。ほてった体にちょうどいい夕涼みの時分だろうと、外に出たところで、たばこを吸っている見なれた背中があった。
「おやじ」
 康平の声にはっとして振り向いたが、はたして史郎である。そのとき、
「にゃんこちゃん、気をつけて」
 と聞こえたのと同時に、康平の足にぶつかってきたのは、これも、やはり弥子であった。そしてすぐにその声の主もあらわれた。みはるだった。

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