百年の日のコピー22

百年の日(7)

 玄関で金森先生と康平をむかえたのは、洋子の母親の真奈美だった。客間に通されたが、すぐに二階から父親の保も下りてきた。席を立って金森先生があいさつをしたので、康平もそれにならった。
 保と真奈美がならんで前に座り、康平はふたりを見くらべながら、洋子は母親似なのだろうと、あらためて思った。二十いくつの娘がいたにしては若く見える。となりの保は史郎と同じくらいだと見当をつけ、すると十歳以上年の差がある夫婦らしい。
「このたびは、どうも」
 金森先生が頭を下げた。
「いいえ、わざわざありがとうございます」
 真奈美の声はかすれているような気がした。康平は、いたたまれなかった。
「なんと申しますか、本当に、まだまだこれからなのに」
「みなさんそうおっしゃいますけれど」
「なんだか不思議な気持ちがします」
「はい」
「まだ顔を合わせたばかりなのに、ちょっと、信じられないというのが一番です」
 言い結んで、金森先生は康平に目くばせをした。なにか、康平も言わなければならなかった。
「まだぜんぜん、くわしいことは聞いていないんですが、どうして」
「ええ」
 風呂場で脳出血を起こしたという。声も上げられないまま昏倒して、湯船に頭までつかり、かなり水を飲んでいた。
「いつもよりあんまり長いのでのぞいてみたんですが、あわてて救急車を呼びました。まだそのとき生きてはいたんです。でも、次の日に、病院で死にました」
 繰り返し人に聞かせたからか、すらすらとそこまで説明してくれた。
「なるほど」
「びっくりしました」
「ふだんから、体の弱い」
 語尾をあいまいにぼかし、そう言いながら、決して体の強そうな人には見えなかったなと思い出していた。
「そんなことはなかったんです。本当に突然で」
「それは」
「なんだか分かりません。本当に」
「ぼくも信じられないです。先週のいまごろは、お見合いしてたのに」
「あんな子ですから」
「はあ」
「男の友達だって家に連れてきたことなんてなかったでしょう。最後にいい思い出ができたんじゃないか、なんて。いろんなところに連れていってもらえたって、言っていました」
 お見合いから帰ったその夜である。まだ康平と一緒にいたときの記憶は新しかっただろうか。意識を失う間際、浮かんだ顔は、自分のそれだったかもしれないと思った。
 思い上がりにもほどがあると、康平はすぐに打ち消した。断られたのだと思って、ほっとしていたくらいの相手である。ずっと考えていたお見合いの返事を、はっきりとどう決めるか、その必要はもうなくなった。
「なんだか、あまりにも、すれていないというか。この世で生きていくのは、ああいう人にはむずかしかったんだろうと思います。そう」
 と、康平はひと息つき、
「だから神さまにすごく愛されて、それだけ、早く手もとに召されたんじゃないでしょうか。そんな人でした」
 ふと、周囲の気配が遠くなった。広い空き地にぽつんと取り残されたような感じがした。外の蝉の鳴き声だけが、変に耳もと近く聞こえた。
 顔から血の気が引いた。いま、自分はなにを言ったのか。顔を上げて、保と真奈美の目を見ることができなかった。
 気休めにもならない、きれいで口あたりがいいだけの言葉だった。その気持ちに、うそはなかった。しかし、本当の言葉ではなかった。言ってしまったあとは、自分の気持ちでさえなくなった。むなしかった。きれいなだけの、空虚な言葉だった。
「すいません」
 思わず康平は頭を下げた。
「いいえ」
 真奈美には、あやまられた意味が分からなかったにちがいない。
 父親の保が口を開いた。組んでいた腕をほどいて、
「よろしければ、ちょっと手を合わせるだけでもしてやってもらえないでしょうか。本当に、一度会っただけなのに、申し訳がないですが」
 長年先生をやっていただけあって、よく通る声だった。康平は、うなずいた。
 真奈美が案内しようと立った。康平と金森先生も腰を上げようとしたが、保はそれを上からおさえつけるように、
「正直、こちらもとまどいました。お見合いなんて」
「ええ」
「知らないうちに金森先生が、お見合いの話を進めておられて。気をつかってもらったみたいだから、とりあえず、義理のような気持ちだったんですが」
「義理ですか」
 三者三様の義理のなかに置かれた洋子は、いいめいわくだっただろうと思った。しかし、酒に酔って娘のことをこぼすのは親心だし、それをまともに受けとった金森先生だってなにも悪いことはしていない。もちろん康平も悪くない。
つかみどころのない、錯覚のようなお見合いだった。
 そして洋子の死は、まるで現象だった。自分の吐き出した空虚な言葉を噛みしめ、痛切にそのことを理解した。あの日、康平にとってのあらゆる可能性だった洋子は、いまはもう漠然とした、死というわけの分からない現象になってしまった。もっとも残酷な現実も、しかし、決して同じ死を死ぬことはできず、永遠に傍観者でしかありえない康平には、触れることのできない、ただそれを知っているような気がするだけの、現象だった。
 それが康平の現実になにかを直接訴えかけるとすれば、道ばたで死んだ子猫の、石ころの墓標以上のものではない。
 なにもかもが、うそに思えた。
「でも、縁ですね」
「まったくです」
「また、日をあらためて来てやっていただけないでしょうか。ゆっくりお話を聞きたいです」
「ぼくは、かまいませんが」
「あの日のことは、あなたしか知らないですから」
「分かりました」
 なぜそこにいるのか分かっていないような、きょとんとした洋子の遺影に向かい、康平は、いま自分もそうなのだと心のなかで言い訳をした。なにか口にしようとしかけたが、また言わなくてもいいことまで言ってしまいそうで、こわかった。黙って、神妙に手を合わせていた。

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